二日目:平沼家は金持ちです
真夏の日差しが容赦なく町並みに降り注ぐ。道を行き交う人たちが日向を避けて歩いているせいで、日陰が混雑していた。
平日なのにもかかわらず人出が多い。今ではすっかり慣れたが、上京したてのころは人の流れが絶えない東京の町並みに驚いたものだった。
浩太は優美の手を握りながら歩いていて、彩希がキャリーケースを引きながら先導する形になっている。
いつもと歩くペースが違い、のろのろ歩いているような感覚になる。
優美がいきなり走り出さないか不安になり、ちらちらと優美を見下ろした。優美はちゃんと前を向いて歩いている。何が楽しいのか、ときどき浩太を見上げては笑顔を振りまいてくる。
その度に浩太はぎこちない笑みを浮かべて応えた。
「浩太もちゃんと認めているじゃない」
信号待ちをしている最中、不意に彩希が声をかけた。脚元の優美は彩希に向けて顔を上げる。
「なにが?」
「優美のこと。顔の出ているよ。『俺のかわいい娘』だって」
「そうか? まあ、雑に扱うわけにもいかないし……」
「ふふん、素直になればいいのに」
彩希は決めつけている。
たしかに優美をかわいいと思っているが、どうやって距離を詰めていいかわからなくなる。とりあえず、声をかけたりスキンシップを取ってあげたりもするものの、それでいいんだろうかと迷ってしまうのだった。
「ねえ、優美。お父さんに肩車してもらったら?」
と、彩希は腰を曲げて優美と目線の高さを合わせる。
「こんな人通りの多いところでか?」
突拍子もない提案に困惑する浩太
「いいじゃない。これぐらいの子どもがいる人はみんなそうしているんだし。ほら、あっちの家族も」
と、彩希は向かい側の横断歩道の前で待っている家族に目を向けた。そこには男の子を肩車した父親が楽しそうに母親と話していた。
「かたぐるましてー」
と優美がねだってくる。
「はいはい、お父さん。しゃがんで、信号変わっちゃうよ」
彩希が優美を抱っこする。
「しょうがないなぁ」
浩太はその場で片膝を突き、上体を屈めた。
「よいしょ」
という彩希の声が聞こえると、首に重みを感じた。
「よし、立つぞ」
浩太は優美の両足首を掴んで慎重に立ち上がった。案外すんなりと立てて、少し拍子抜けしてしまう。
「わー」
優美は浩太の頭に腕を回して、嬉しそうな声をあげる。
「優美―、ほらほらこっち見て―」
彩希はいつの間にかスマホを片手に持ってレンズをこちらに向けていた。
――不用心すぎないか?
周りの人に彩希が元芸能人の瀬能紗雪だと気づかれたらどうするつもりなのか。マスコミにすっぱ抜かれないにしても、デリカシーのない一般人がこの光景を撮影する恐れがありそうだ。
横目であたりを探る。信号待ちの人たちはこちらを気にしている様子はなかった。
「楽しそうだな」
と、浩太は安心して呟いた。彩希が何度もシャッター音を鳴らし、肩に乗っている優美はきゃっきゃとはしゃいでいた。
◇ ◇ ◇
平沼家に帰り、おやつを食べたあと、優美がおとなしくなった。急に疲れが出て眠気に誘われたらしい。リビングの隣の部屋に優美を寝かせた。
浩太と彩希はそっと部屋を出てドアを閉めた。
「どれくらい寝かせるんだ?」
浩太はリビングのソファに腰を下ろして彩希に訊いた。
「一時間ぐらいね。それ以上お昼寝させちゃうと、夜寝られなくなるから」
彩希はキャリーケースを開けて中から買ったものをテーブルの上に置いた。
「これだけあれば、大丈夫か」
「そうね。飽きたらアニメでも見させたらいいんじゃないかな。えーっと、あるかなぁ」
と、彩希はテレビのリモコンを手に取って電源をつけた。すぐに配信サイトの画面に切り替えると、子供向けアニメを探し始めた。
「大画面のテレビ、それにサブスクに加入済みか。この家といい、芸能人ってずいぶん稼げるんだな」
浩太は改めてリビングの中をざっと見回す。三十畳以上はゆうゆうとある部屋だった。六人掛けの食卓テーブルの奥に広々としたダイニングキッチンがあり、大容量の冷蔵庫が備え付けられ、幅の広い食器棚の真中には最新式の電子レンジが置いてあった。浩太の座っている位置からは見えないが、たしか流しの右下にはオーブントースターもあったはずだ。
それに今、彩希が操作しているテレビは最新式の壁に掛けるタイプだった。その下の台には花瓶が置かれ、中にはBD/HDDレコーダーまであった。
「さすがに芸能のお仕事だけじゃ無理よ。この家はおじいちゃんが建てたの」
「あ、じゃあ、平沼の――」
「彩希って呼んで」
と、彩希はすぐに浩太の言葉を遮った。優美がいないせいか目つきがきついような気がする。
「えっと、彩希、のおじいさんの持ち家ってことか」
「そう、この土地もね」
目つきを緩める彩希。
「親御さんも大変そうだな。相続するってなったら大変だぞ」
もう一度リビングを見回してざっと相続税の計算してみた。地価や建物などの資産価値を考慮すると、あらゆる節税対策をしても数千万、いや、下手したら一億を超える相続税が発生しそうだった。それにこれからもこの家で暮らすとなれば固定資産税もかなりのものになりそうだ。
「ある程度生前贈与はしているって言ってたし、なんとかなりそうだけどね。わたしの貯金もあるし、いざとなったら出す気でいるから」
「マジで?」
「ふふん、ドラマや映画だけじゃなく、CMにも出てたしね。相続税分はなんとかなりそうよ」
彩希は誇らしい顔つきになった。
「すげえな……」
シンプルな言葉しか出てこない浩太。平凡な大学生には遠い世界の話に聞こえてくる。
「そういえば浩太のアパートって、テレビないの?」
彩希は呆気にとられる浩太をよそに話題を変えた。
「ああ、スマホとPCで間にあってるから。テレビ買う金もないし」
「バイトしてたよね? なにに使ってるの?」
「予備校の学費を貯めているのと、あとは生活費。でも、下手に働くと扶養から外れて税金で損するから、そのへんを上手く調整する必要があるから厄介だな。仕送りも少しもらっているし」
「さすが税理士志望ね」
「これぐらい、誰だって考えるだろ」
「そっか。そうだよね」
一応聞いてみただけという素振りだった。またリモコンを操作すると、画面にはいろいろなアニメのサムネイルが表示されている。
「あったあった。暇な時にこれを観せたらいいんじゃない」
彩希は確認し終えると、画面を切り替えて地上波のチャンネルに合わせた。大人気警察ドラマが再放送されている。
「じゃあ、俺は荷物取ってくるよ」
浩太はのそっと立ち上がった。
「うちに泊まってくれるのね」
不意に彩希の声に明るみが帯びた。
その声が気になり、彩希を見下ろした。頬が赤らみ、潤いのある瞳で浩太をじっと見つめている。
浩太はその視線を直視できず、顔をそむけてしまった。エアコンが効いているのに胸から熱さがこみ上げてきた。
「す、すぐに戻るから」
浩太は早足でリビングを出た。
「早くねー」
と彩希の声が玄関まで届く。
しかし、浩太の耳に入らなかった。さっき見せた彩希の艶やかな表情が頭にこびりついて離れず、その影に意識を持って行かれそうになっていた。
――わからねえなぁ。
未来から優美が来たことをあっさり受け入れ、浩太が将来の旦那になるのを嫌がっている感じがない。さらに優美の世話をするためとはいえ、何の抵抗もなく自分の家に浩太を泊まらせるのが信じられなかった。
好意を抱いていると解釈できるが、浩太にはそれがあまりにも楽観的で現実味がないように感じた。学内でも評判の美人、しかも元芸能人が自分を好きになる理由がどこにあるのか見当がつかない。彩希と知り合って一年だが、浩太は彼女に対して特別なことをしたわけでもなかった。ただ、同じサークルの仲間として接してきただけである。
「考えても、仕方ないか」
自転車を漕ぎながら独り言ちた。
当面の間は優美の世話をすると決め、彩希のことは後回しにしようと割り切った。