エピローグ:家族で楽しく過ごしています
ガチャ、という音で目が覚めた。
「む、うう」
青江浩太は唸り声を上げて寝返りを打つ。今日は休みだからもう少し寝たい気分に駆られたが、奥さんが身重だと思い直す。カーテンの隙間から射し込む朝日が目に入り、気怠く目を開けた。
「おとーさーん、おきて―」
娘の優美の声だ。父親としては娘よりも早く起きたいところだが、この子はお父さんを起こすのが楽しいらしく、あえて毎朝起こしてもらっている。
「おー、優美。いま起きるから」
と、浩太は上体を起こした。
「うんしょ、うんしょ」
優美がベッドに上ってきた。
「ほらほら、お父さんもう起きるから」
浩太は苦笑を浮かべる。
「やー」
優美が浩太の胸に飛び込んできた。
「おわっと」
浩太は優美の勢いに負けてベッドの上に背をつけた。
「にひひ」
優美が笑顔を向ける。
浩太もつられて微笑を浮かべると、優美の頭をなでてやった。
「よし、朝ごはん食べに行こう」
「はーい」
優美が元気よく返事をすると、浩太は優美を抱きかかえてリビングに足を運んだ。
今、浩太たち一家が住んでいるのは妻の彩希の実家である。というのも、結婚当初はセキュリティ付きの賃貸マンションに住んでいたのだが、子どもが外へ出かけやすい環境を求めた結果、彩希の実家に移り住むことになったのだ。
「母さん、おはよう」
と浩太は声をかける。妻の彩希はすでに食卓テーブルについていた。
優美はどたどたと走り出して自分の椅子に座ろうとする。三歳にもなれば、自分で椅子に座れる。少しずつ自分でできることが増えて、浩太は父親としての喜びが湧いてくるようだった。
「おはよう、お父さん」
彩希は微笑みを浮かべて応えた。
浩太は彩希と優美の向かい側に座り、手を合わせた。
「じゃあ、手を合わせてね」
彩希が優美に顔を向ける。
「はーい」
優美が手を合わせた。
「それじゃあ、いた―だきます」
浩太が言うと、
「いただきますー」
優美が元気よく言った。
今日のメニューは和食。ごはん、みそ汁、焼鮭、煮つけといったオーソドックスなものだった。
「母さん、お腹の子は大丈夫なのか?」
浩太は、みそ汁を飲んでから彩希に訊いた。
「うん、少しぐらい動いた方が赤ちゃんにいいから」
彩希は視線を下げて膨らんだお腹に手を添える。
「なでなでしたいー」
と優美は彩希のお腹に手を伸ばそうとする。
「朝ごはん食べてからね」
彩希が微笑む。
朝食を食べ終え、浩太はみんなの食器を洗い始めた。妊娠七か月の彩希の負担を慮ってのことだ。
優美もなんとなくお母さんの身体を気遣っているのか、食器を流しに運んでくれている。それが終わると、ソファに腰かけている彩希の許へ走って行った。
食器を洗い終えて、ソファに足を運ぶ。彩希は優美を膝の上に乗せてテレビを観ていた。エンタメ情報が流れている。彩希の後輩、時枝星華が出演する映画の記者発表会の様子が流れていた。彼女はデビュー当初、インフルエンサーとしてブレイクし、それから地道に演技の稽古を積みつつ着実にドラマや映画の出演本数を増やしていき、注目の若手俳優として頭角を現しつつあった。
「星華さん、順調みたいだな」
浩太は彩希の隣に腰かけて言った。
「ふふん、そうね。でもかわいいって言われているうちはまだまだよ」
と、彩希は先輩らしく言うものの、後輩の活躍が嬉しいようで頬が緩んでいる。
「おかーさんでないのー」
優美が身体をねじって彩希を見上げる。母親が俳優であるのを理解しているのだ。
「お母さんはお休みなの。ほらお腹に赤ちゃんがいるでしょ」
「むー」
よくわからないというふうに首を傾げる優美。
「そういや、母さん。あの手紙、本当に使うのか」
「なにが?」
「なにがって、ほら優美を過去の俺たちに預けるってやつだよ。たしか、星華さんが出演する映画で使うかもしれないって言っただろ」
ついこの間まで体調を崩して入院していた。とは言っても大した病気ではなく軽い過労が祟っただけのものである。何もすることがなく暇を持て余していたときに、彩希が星華の出演する映画で使われる手紙を書いてほしいと頼んだのだ。その際、優美を過去の自分たちに預けるという体で書くよう言われた。
とんでもないムチャぶりをするなと思った。ただ彩希が言うには、家族を想う父親の拙い文章が相応しいというので、素人である浩太に書いてもらった方が味が出ると言われ手紙を書いてみたのだ。あとでスタッフが推敲するからと、浩太、彩希、優美の名前をそのまま書いて提出した。
「うーん、どうかしらね。没になっちゃったかもね」
「ま、素人が書いた手紙だから仕方ないか」
ふと、浩太は優美の頭に手を伸ばしてなでなでした。
「ごめんね。監督が凝り性だからいろんな人に書かせているみたいなの。でも謝礼ぐらいは出ると思うから、まったくの骨折り損ってわけじゃないわ」
「おとーさん、けがしたのー?」
優美が心配そうに声を上ずらせる。
浩太は思わず笑いが漏れた。彩希も笑顔になる。
「違うよ。苦労はしたけど、見返りはないって感じかな」
「むー」
優美は首を傾げる。三歳児には難しいようだ。
「ちょっとずつ、わかればいいさ」
浩太は優美の頭をなでる。
しばらくテレビを見てから出かける準備をした。
今日、地元から母親の美里が羽田空港に到着する予定である。浩太が病み上がりで彩希も身重、小さな優美のお世話が満足にできないと気遣ってくれて、しばらくこの家に寝泊まりすることになったのだ。
ここは彩希の実家だが、彼女の両親は出張中で祖父も老人ホームに移住し、義兄の麒一は北海道の大学に勤めているため、美里がしばらく滞在して身重の彩希や優美のお世話を買ってくれた。
着替えを済ませてハンドバッグにスマホと財布を収めてから玄関に向かった。すでに彩希と優美が靴を履いていて浩太を待っていた。
外に出ると、真夏の日差しが一気に降り注いだ。紗がかかったような薄い雲が空にかかっているだけで、厳しい暑さは変わらない。素肌を焼くような強い日差しだった。
すぐにガレージからミニバンを出した。リモコンでシャッターを閉めてから、門の近くにミニバンを寄せ、いったん運転席から降りた。
「よーし、乗っていいぞ」
と、浩太は後部座席のドアを開ける。優美を抱っこして乗せようとしたら、
「わーい」
優美は元気よく後部座席に乗った。しかもちゃんと靴を脱いでシートに上がり、慣れた動きでチャイルドシートに乗った。
「成長したなぁ」
抱っこをかわされてちょっぴり虚しくなるも、少しずつできることが増えていく娘の成長を、快く思った。
「シートベルト閉めてあげないとね」
彩希もゆっくり後部座席に乗り込む。
二人がちゃんとシートベルトを締めるのを観てから運転席に戻り、ゆっくりミニバンを発進させた。路地を抜けて都電沿いの道路に出ると、首都高に向かった。
時おり浩太はバックミラー越しに彩希と優美の姿を見遣る。
ふと、デジャヴを覚えた。
大学時代の先輩たちもこの車に乗って、優美がジュースをねだっている光景が過った。そんなはずはない、玄一郎と莉緒はこの車に乗ったことがないはず、しかも優美と会ったこともないはずだった。
――まさかな。
白昼夢を見ている心地になり、もう一度、バックミラー越しに彩希と優美を見た。
デジャヴはすでに消えたあとだった。
「しゅとこーだー」
優美が弾んだ声を上げ、
「おお、お空に浮かんでるねぇ」
と、彩希が笑顔で娘に調子を合わせる。
母子が楽しそうに戯れるのを見て、心が和んだ。
――家族を……。
大事にしなきゃな、と陳腐なことを考えた。だがその陳腐で当たり前のことが何よりも尊いものなのかもな、とも思う。子どもがいつも楽しそう暮らしながら正しく成長する姿を守っていくのが父親としての役目な気がした。
首都高の入口を通過し、合流地点で一気に加速した。
家族みんなが元気に暮らしているところを母親に見てもらいたかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
やや駆け足気味ですが、この回を持って最終回とさせていただきます。
実のところネタが尽きてしまい、だらだら引き延ばすよりも潔く終わらせた方が良いと判断しました。
至らない部分が多々ありながらもお読み下さった皆様に、この場を借りて感謝の意を示したいと思います。
今までお付き合いいただき、ありがとうございました。




