八日目:急な話です
風呂から上がり、浩太と優美はサブスク配信の幼児向けアニメを観ていた。画面に映っている小学生の子どもたちが楽しそうに遊んでいる風景が映っている。優美はアニメに夢中で浩太の膝の上でじっと画面を眺めている。
その間、彩希は持ってくるものがあるからと自分の部屋に戻っていた。
少し時間がかかり過ぎている気がする。
話がある、と意を決したような眼差しを送られたとき、浩太は重大な話を切り出すと予感していた。
画面にアイキャッチが映し出されたとき、ようやく彩希が戻ってきた。手に持った手紙をテーブルの上に置いてから、浩太と優美の隣に腰かけた。
静けさが一層増してきた。明るいBGMがリビング中に響き渡るだけで浩太と彩希の間に漂う空気が重く感じた。
浩太は横目で彩希を一瞥する。
「ねえ。浩太」
視線に気づいたのか、彩希が声をかけてきた
浩太は首を回して彩希をちゃんと見つめる。
彼女の顔にはかなしげな微笑が洩れているだけだった。
「彩希。俺、なんかしたか?」
今までとは違う彩希の雰囲気を感じ取り、心配になった。
「ううん。そうじゃないの」
と、彩希はまっすぐ見つめたまま言った。
「えーっと、なら何があったんだ?」
浩太は彩希の直視に耐えられず、視線を下げた。
「優美のことよ」
「優美?」
浩太が鸚鵡返しに応える。
膝の上の優美は自分が呼ばれたと勘違いしたのか、首を回して彩希に目を向けた。
「うん。優美が来てから何日経ったか覚えている?」
「ええと、たしか今日で八日目だよな」
「ふふん、さすが父親ね」
いつも通りの軽い笑い声を出すものの、どこか頼りなげだった。
「それがどうしたんだ?」
「そろそろ、優美を未来に帰さなきゃって」
彩希がつぶやくような声音で言う。
「帰すって……」
言葉を失う浩太。一瞬、何も考えられなかった。
「一週間以上経っちゃったからね。未来のわたしたちも優美がいなくてさみしがっているんじゃないかな。浩太、手紙に書いてあった内容、覚えている?」
「あ、ああ、たしか俺が入院中で、彩希が二人目の出産準備だって」
「未来の浩太、そろそろ退院するんじゃないかな」
「いや、どうなんだ。手紙にはしばらくってしか書かれていなかったし、期限は特に決めてなかったはず――」
浩太はそこまで言うと、首をさっと振ってテーブルの上にある手紙に目を遣った。未来の浩太が書いた文章に疑問を持ったからだ。
大切な娘を預けるのに日数を決めないなんてことがあるだろうか。最初に手紙を読んだときは非常識な事態が舞い込んでそこに考えが及ばなかった。
しかし、今の浩太は父親としての自覚が芽生え、優美を大切にしたい思いがあった。もし自分が入院するとなれば、入院日数が多少前後するにしても、ある程度優美を預ける期間を指定するのではないか。そう仮定すると、「しばらく」と言葉を濁すのは、未来の自分たちが娘を過去に送り出すのは極めて無責任である。
そして浩太はまた一つ疑問が浮かんだ。
「どうしたの?」
考えをまとめている最中、彩希が声をかけてきた。
浩太はおもむろに首を回し、彩希をじっと見据えた。
「彩希、未来の俺が退院する時期を知っていたんじゃないか?」
彩希の真意を見定めるかのように瞳の奥をのぞき込んだ。彼女もまた浩太の強い視線に負けじと見つめてくる。
そして彩希は、ゆっくり顔をあげて目を瞑ると、ため息を吐いた。普段の浩太なら思わせぶりな仕草をする彩希の姿に見惚れていたに違いなかった。
すると、彩希はソファから腰を上げた。
「もう一通、手紙が来たの」
と言って、彩希はテーブルに手を伸ばした。手紙に指を添えて滑らすように横に動かすと、封筒が現れた。彩希はその封筒を手に取り、浩太に差し出す。
浩太は封筒を手に取り、中から手紙を取り出した。
「きゃー」
優美は浩太の脚の上に寝そべると、泳ぐように両腕を動かして彩希の膝の上に移動する。彩希が優美を抱きかかえ膝の上に座らせた。
その愛くるしい動きを見てから、浩太は手紙に目を落とした。
《前略 過去の青江浩太へ
少しの間、ご迷惑をかけてしまいました。いきなり優美を預かってくれと頼まれて驚かれたでしょう。半ば押し付ける形となってしまったのをお詫びしないといけませんね。
ですが、おかげ様で近日中に退院できる目途が立ちました。当初、大病を疑って私も慌てたのですが、結果大した病気でもなく、過労による衰弱が原因だったようです。優美が生まれて、彩希が芸能界に復帰したのを見て、父親として恥じぬよう頑張らなければならないと、自分を追い詰めてしまっていたのかもしれません。
優美はちゃんとしていましたか。まだ甘えたい年ごろなので手がかかったかもしれません。ですが、預けたのが過去の自分と彩希だとわかっている分、安心できました。たぶん、過去の自分は優美の行動に戸惑ったのでしょうが、彩希が積極的に動いてくれる分、特に問題もなくお世話をしてくれたと信じています。
さて、私の体調がよくなったのもあり、そろそろ優美をこちらに帰していただけないでしょうか。彩希の出産準備もあり、私の母が上京し、優美のお世話を手伝ってくれることになりました。優美もおばあちゃんに会いたがってしましたし、こちらの帰ってきて元気な姿を見せたいと思います。
本当に勝手なことを言って申し訳ありません。いつかこのお礼はしたいと考えています。では、優美のことよろしくお願いします。 三十歳の青江浩太より》
手紙を読みながら、浩太は名状しがたい気持ちが溢れてきそうになった。
「……なんだよ、いきなり。自分勝手じゃないか」
浩太は手紙をテーブルにおいてそう呟いた。
「そうね。でもね、たぶんわたしも悪いと思うの」
「なんで?」
「未来のわたしが優美に帰ってきてもらうように頼んだのよ。きっと」
「うーん、そうか」
今までの彩希の行動からすると、たしかに有り得そうだ。浩太を自分の家に泊め、優美の世話をするよう迫る。彩希は常に優美のことを考えて振舞っていた気がする。
「彩希、もう一つ気になったんだけど」
「なに?」
「どうやってこの手紙を受け取ったんだ?」
優美が来たときは預かってほしいという手紙だけだったはず。こうして二通目がある以上彩希が何らかの手段を取ってやり取りをしている気がした。
「それはまたあとでね。あと、優美を帰さなきゃならない理由がもう一つあるの」
と、彩希はポケットからスマホを出し、画面をタップした。目的の画面が映し出されたのか、彩希は身をよじって浩太に寄り添い、スマホを見せた。
「え?」
浩太は言葉を失った。スマホの画面には嶋井霧子の書き込みが真実だと思っているフォロワーたちの声であふれていた。当初はプチ炎上だったはずが、浩太と彩希、そして優美が一緒にいるのを見たという証言が次から次へと出てきていた。
「わたしたちに子どもがいるのを、世間の人が知っちゃったみたいなの。こうなったら週刊誌が来るのは時間の問題ね。優美に迷惑をかけちゃうわ」
彩希がそう言うと、優美が彩希に顔を向けて構ってほしそうに笑顔になった。
「でも、引退したからマスコミは追わないって、彩希が言ってただろ」
「本来はそうなの。でも、わたしも認識が甘かったわ。たった一つの書き込みでSNSがここまで盛り上がるなんて思わなかった。もうちょっと、気をつけなきゃならなかったわね」
彩希はすまなそうに伏し目がちになると、優美を見つめる。
「おかーさーん」
優美は彩希の気持ちをなんとなく理解したのか、心配そうに声を上ずらせた。身体を回して彩希と向き合うと、両手を伸ばして彩希の首に回そうとした。
彩希も両腕を優美の背中に回して抱き寄せると、頬を優美の頭に寄せて微笑を漏らした。
――彩希も……。
さみしいんだな、と彼女の気持ちを推し量った。彩希の表情にはわが子を慈しむやさしげな微笑みを携えながらも、心細く映った。
優美はお母さんがだっこしてくれたのを喜んだのか、心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべた。
浩太はにわかに優美の笑顔を見るが最後なんだな、と実感がわいてきた。この子を手放したくないという気持ちが一気に胸の内を浸してくる。
自分でもここまでショックを受けるとは想像していなかった。最初は戸惑いながらも優美の相手をしてやるのに精いっぱいで、振り回されることも多かった。
だが、浩太や彩希、ミス研の人たちと触れ合い、優美は笑顔を見せてくれた。振り回された苦労も楽しそうにしている優美の姿を見守るだけで、すべてが報われた、と浩太は感じている。
陳腐な言い方かもしれない。
ありきたりな感情かもしれない。
それでも、浩太は短い間、父親としての楽しみを与えてくれた優美に感謝したかった。たとえ記憶が書き換えられ、優美とあった事実が無くなろうともこの八日間の出来事は忘れたくなかった。
浩太はそっと手を伸ばし、優美の頭をなでた。
「わーい」
優美は浩太に笑顔を向ける。
「みんなに挨拶しなくていいのか?」
記憶が無くなるとはいえ、別れの挨拶ぐらいはしておいた方がいい気がした。
「あとでテレビ電話しよ。とりあえず、帰る準備ね。優美、荷物取りに行こ」
彩希は優美を床に降ろした。
「はーい」
どうやら前もって優美に言い聞かせていたらしい。優美は素直に言うことを聞き、どたどたと走って隣の部屋に入って行った。彩希もソファから腰を浮かし、優美の後に続いた。
――でも、帰すったって……。
どうやってやるんだ? と浩太は思った。
次回は4/20の19時半頃に投稿します。




