八日目:彩希の後輩が訪ねてきました
あれから優美は何度もプラスチックのバットでボールを打ち、その度に浩太がボールを追いかけた。浩太も次第に調子に乗ってわざとジャンピングキャッチを試みたり、横っ飛びのダイビングキャッチを試みた。もちろん優美をアウトにさせないため、ギリギリ届かないふりをして落球した。
時おり、公園の舗道を横切る人がいたものの別段気にする様子ない、それどころかベンチに座りほほえましく見守っている老人夫婦さえいたぐらいだ。
なんとか利用客に迷惑をかけずにほっとした。
優美が満足して飽きたころを見計らって公園を後にした。
「帰ったら着替えないとな」
路地を歩いている途中、シャツとハーフパンツについた土草が気になった。
「優美の服と一緒に洗濯したら?」
と、彩希は声をかける。
「悪いな。ありがとう」
一応浩太も平沼家の一員ではあるが、まだ他人の家という意識が抜けていない。洗濯機だけではなく、彩希の手料理を食べ、風呂に入り、おじいさんの部屋に寝ている。彩希の旦那、優美の父親として意識していてもやはり気兼ねを感じてしまう。社会に出ていない大学生が身の丈に合っていない生活を送っているんじゃないかとちょっぴり思ったりもする。
「遠慮しなくていいって」
と、彩希は言ってくれる。
とりあえず今のところはあまり気にしないでおこうと思った。優美が帰るまでの間、ちゃんと父親としての役割を果たせばそれでいいのだ。
平沼家のガレージの前を通り過ぎ、門の近くまで行くと、一人の女性が立っていた。光が透き通るような金髪からのぞく横顔に艶がある。彩希と同じくらいの身長で、胸にアルファベットの描かれた白いTシャツに裾の広いデニムを穿いていた。彼女はこちらに気づいて顔を向けてくる。
彩希がナチュラルな美女なら、この女性はどこか飾った感じの見受けられる美女な気がする。くりくり眼で丸みのある輪郭の童顔だが、派手な金髪はちょっと無理をした観があった。
「どちらさま?」
と、彩希に訊いてみた。
「お久しぶりです。紗雪さん」
女性がぱっと笑顔になり、頭を下げて挨拶をする。彩希の芸名を口にしたあたり芸能関係者のようだ。
「星華じゃない。どうしたの急に?」
彩希は目を見開いて驚く。足元の優美がきょろきょろと首を動かして彩希と星華を見比べる。
「急に、じゃないでしょう? さっき連絡しましたよ」
と、星華は微笑む。
そう言われて彩希はポケットからスマホを出した。優美が手に取りたそうに腕を伸ばす。
「あ、ほんとだ。ごめんごめん。この子と遊んでいたから」
謝っているものの、あまり申し訳なさそうにしていない。スマホをポケットにしまった。
「だれー?」
優美はスマホから気が逸れて、星華が誰かを聞く。
「誰ですか?」
と、浩太も麒一に顔を寄せて小声で訊いた。
「時枝星華ってタレント。彩希の後輩だよ。ここ最近、テレビとか出てるぞ」
「有名なんですか?」
「動画配信で人気が出て今じゃ女向けのバラエティに呼ばれてるらしいぞ。浩太って、テレビ見ないのか?」
「アパートにテレビ置いてないんで、最近の芸能人ってよく知らないんですよ」
「スマホで動画とか観ないのか?」
「観ますけど、見逃し配信でお笑いバラエティと刑事ドラマをちょっと観るぐらいですね。女のタレントとかにはあまり興味がないんですよ」
「ま、たしかに、時枝星華は同性に人気があるタイプだからな」
と、話し込む中、彩希が視線を送ってくるに気づいた。
「彩希さん、その子は?」
星華が訊いてくる。
――そりゃあ、訊くよな。
彩希がどう答えるのかわかりきっている。
「わたしの娘よ。で、こっちの青江浩太がお父さん」
――やっぱりな。
浩太は右手を額に添えて顔を俯けた。家族みんなで平穏に暮らすには、優美の存在を広めない方がいいと思っているのだが、彩希はそんな浩太の心配を推し量ることはしない。
と、指の隙間から星華に目が行った。彼女は驚く素振りを見せず、優美と浩太にちらちらと視線を向けてきた。
「とにかく、家に入ろ。暑くて沸騰しそうだわ」
彩希は門の鍵を開けて、中へ入って行った。優美もとことこ足を動かして彩希に続いていく。
浩太も続こうとすると、剣呑な視線を感じた。横目で視線の先を探ると、星華がきつい目つきで浩太を睨んでいる。
――嫌だなぁ。
何をされるかわかったもんじゃない、と思いながら浩太は平沼家へ入って行く。
まずは洗濯機の前に行き、汚れた服を脱いだ。女性陣に見られないように階段を上り、部屋に戻る。黒のTシャツとデニムを着て、リビングへ足を運んだ。
優美はとっくに着替えを済ませて彩希の膝の上に座っている。彩希も慈しむように優美に手を回していた。
麒一の姿がなかった。おそらく自分の部屋でくつろぐのだろう。
「えーっと、俺も席を外そうか?」
友達同士で話すことがあるのではと気を遣ったつもりだ。
「浩太も一緒の方がいいわ。さ、隣にすわって」
と彩希は同席を望む。
「あ、ああ」
戸惑いがちに彩希の隣に腰を下ろした。隣のソファに座る星華の顔にはさっきの剣呑な感じがない。その代わりうすら笑いが浮かんでいる気がした。彩希と優美はその様子に気づいている節がない。
「紗雪さんの彼氏さんですかぁ?」
星華は目を細めて妙に甘ったるい声で訊いてきた。素人の浩太でもわかるくらいわざとらしい声音と表情だった。
「彼氏といいますか、同じサークルの仲間、まあこの子の父親でもあるんですけど」
いざ他人から訊かれると、どう答えていいかわからなかった。そもそもにしてつき合ってもいないのに彩希の旦那になり、三歳の優美まで授かっているのだ。改めてこの関係が正常のものではない感覚が湧いてくる。
浩太は気持ちを紛らわせたくて優美の手を握った。
優美は笑顔になり、手を振った。
「はっきりしないなぁ。なんで紗雪さんにこんな大きな子どもがいるんですか?」
「未来から来たの」
「紗雪さん、暑さで脳みそが蒸発しました?」
激辛なツッコミを入れる星華。口は悪いが、それだけ親しいという裏返しなのかもしれない。現に彩希は平然と優美を抱いている。
「正常だって。ま、証拠を見せないと納得しないか」
と、彩希は優美を床に降ろして、席を立つと、リビングを出て行った。優美もついて行く。
気まずい沈黙が流れる。浩太は星華に顔を向けられず、両肘を膝について俯き加減にテーブルを見つめている。さっき感じた剣呑な気配が鳴りを潜めているとはいえ、彼女がどう出てくるかわかったものではない。半身がぞわぞわとざわめく感覚に陥る。
「で、あんたはだれ?」
と、星華が不意を突くように声をかけてきた。
「ああ、はい。青江浩太です。高明大学で彩希と同級生――」
「へえ、礼儀はなっているのね」
いきなり砕けた口調で言った。
浩太は首を回して星華に顔を向けると、彼女は、口角を上げて不敵な笑みを浮かべつつ足を組んで背もたれに深く背中を預けていた。
「あの、失礼ですが、彩希の友達ですよね?」
震えそうな声音で訊いた。実は浩太、星華に少し腹を立てていた。自己紹介を途中で遮った挙句、自分から名乗らない態度が気に食わない。
――優美にはちゃんと……。
礼儀を教えておこう、と星華の態度を鑑みて優美の教育へ考えが及んだ。
「ふーん、あたしのこと知らないんだ?」
星華は不満げな声をあげる。
「バラエティやドラマならたまに見るんですけど、女性タレントにはあまり興味がないので」
言葉を選んだつもりだったが、口に出たのは慇懃無礼なものだった。しくじったかな、と内心反省する。
「ま、それも仕方ないか。あたしのファンって十代の女の子だもん。あんたみたいな男なんて相手にしなくてもいいし」
星華は腕を広げて肩をすくめた。英和辞典に載っているジェスチャーのような仕草だった。
「あたしは時枝星華。紗雪さんの後輩よ」
――年下かよ。
初対面の年上相手にいきなりタメ口を聞くあたり、親や事務所はどういう指導をしているのかと訝る。
「それよりもさ、喉かわいちゃった。ねえ、なんかないの?」
「どうですかね? 麦茶、あったかな」
浩太はのそっと立ちあがり、冷蔵庫へ足を進める。ドアのケースに麦茶の入ったピッチャーがあった。それを手に取って流しの横に置いてから、食器棚の扉を開けてグラスを出して、麦茶を注ごうとした。
「ねえ、早くしてよ」
わがままを言う星華。彼女を一瞥すると、腕を組みながら目を細めているのが見えた。その表情には嘲りの色が浮かんでいる気がした。
失礼な振る舞いに腹を立てながらも浩太は麦茶を注ぎ、星華の前のテーブルに置いた。浩太は隣のソファに腰を下ろす。
「まったくトロイわね。そんなんじゃ何やっても上手くいかないよ。だいいち、こんな暑い日に客が来てるんだから、なにも言わなくても飲み物ぐらい出すでしょ、ふつう。気も利かないし、動きも鈍いし、ダメダメじゃん」
一気に文句を言ってから麦茶を呷る星華。
――落ち着け、俺。
胸の内にはっきりとした憤怒が芽生え始めているのが自覚できた。両肘を膝につけ手を組んだ。力みのあまり自分の手を握りつぶしそうだった。
「ねえ」
と、いきなり低い声音が聞こえてきた。
おもむろに振り向くと、星華がこちらに胡乱げな視線を投げかけている。
「な、なにか」
用ですか、と聞こうとする前に、覗き込みように凝視してきた。
「あんたみたいな人と紗雪さんがつき合ってるわけ?」
侮蔑の色を隠さない声だった。
「それがなにか?」
浩太は意識的に心を落ち着けて訊いた。これ以上失礼な振る舞いを見せられると、声を荒げてしまいそうだった。礼儀知らずとはいえ彩希の親しい後輩である。丁寧に接する方が望ましい。こちらは彼女の無礼な振る舞いを笑い飛ばすぐらいの、大人の余裕を持ちたかった。
だが所詮、浩太も二十歳の大学生。余裕のある大人としての振る舞いなどできようはずがない。組んだ手の握力が増していく。
「全然釣り合いが取れてないじゃない。有象無象の大学生と唯一無二の天才、瀬能紗雪が恋人同士で、しかも子供までいるだなんて。どんな手を使って誑かしたのよ」
「人聞きの悪い……。同じサークルに所属してだんだん仲良くなったってだけです」
「どうだかね。紗雪さんみたい美人をゲットするだなんて、あんた天性の女たらしでしょ。案外、イケメンでもブサメンでもない、顔面偏差値五十の人間に詐欺師の素質があるっていうしさ。ほら、白状しなよ。どうやって紗雪さんをだましたの?」
星華の言葉が過激さを増していく。しかも怪しげな知識を事実だと信じ込んで浩太を疑いにかかっていた。
――このガキ……。
こんな口汚い言葉を思いついたのは、何年ぶりだろうか。なんで今日初めて会った女にここまで悪口を言われなければならないのかと、不意に襲ってきた理不尽に憤りを感じる。浩太は怒りのあまり口を開くことさえできなかった。
「黙るなっつうの」
星華はテーブルを蹴って追い打ちをかけてくる。
「いい――」
「星華ぁ、なにしてるのかな?」
浩太が怒りをぶちまけようとした刹那、彩希のねっとりした声音が耳に届いた。
リビングの入口に顔を向けると、彩希がにこやかな笑顔をこちらに向けていた。だが、口角を上げただけで目の奥が笑っておらず、それどころかどす黒い影さえちらついている気がした。
彩希の脚を掴んでいる優美はその気配に気づいておらず、まっすぐこちらを見ている。
「いや、その、紗雪さん、わたしは紗雪さんが心配でこいつにいろんな――」
「こいつ? あなたわたしの旦那さんをこいつって呼ぶんだぁ。へえ」
彩希の迫力が増した。目を細めているが針のような眼光を放っている。
――退散しよ。
と、浩太は素早くソファから駆け出し、優美の手を握った。
「なあ、優美。お母さんな、お客さんと二人っきりで話したいみたいだから。お父さんの部屋で遊ぼうか」
「うん! やったー!」
これで優美を危険な場所から遠ざけられると、胸の内でほっとした。
「じゃあ、おふたりさん。ごゆっくり」
浩太は優美を連れて足早にリビングを出て行こうとした。
「ちょっと、青江さん、ごめんなさーい、戻ってきてー」
星華の絶叫がこだまする。彼女も彩希が怒ったときの恐ろしさを熟知しているようだ。
――にしても……。
彩希が怒るのは娘の優美をいじめたりしたときだけかな、と思っていた。彼女にとって浩太も庇護の対象になるらしかった。
「だいじょーぶなのー?」
優美が心配そうに訊いてきた。三歳児なりに母親の異変に気づいたらしい。
「大丈夫。大人のお友だちって複雑なときがあるんだ」
「むー?」
「とにかく、お母さんに任せておけばいいから。お話が終わるまでお父さんと遊ぼう。気になるならあとでお母さんに聞きなさい」
「わかったー」
とりあえず納得してくれたようだ。優美の手を引いて部屋に戻ることにした。
階段を上っていく途中、星華が必死で謝っている声が聞こえた気がした。




