二日目:一緒に暮らしたいようです
翌朝、浩太はスマホの着信音に起こされた。寝足りず、頭の中がぼんやりしていた。横になったままスマホを手に取った。彩希の名前が映っている。時間を確認すると、まだ朝の六時半である。二度寝しようかとうっすら思った。
「あとが面倒だな」
文句を言われてもかなわないと思い直し、浩太は眠気をこらえて電話に出た。
〈浩太、もうすぐ朝ごはんできるからすぐに来て〉
「はい?」
〈はい、じゃなく。ほら、優美がさみしがっているよ〉
と、ここでいったん言葉が途切れた。彩希と優美が何か話しているようだが、音声が不明瞭でちゃんと聞き取れなかった。
〈もしもしー〉
優美にかわったようだ。
「おお、優美、おはよう」
浩太は優美が聞き取れるようにゆっくり言った。電話越しに、早く来てって、と彩希の小さな声が聞こえた。
〈はやくきてー、ごはんたべよー〉
ねだるように言う優美。お母さんにかわって、とまた彩希の声が聞こえてくる。
〈早くしてね。ご飯冷めちゃうから〉
というなり、電話が切れた。
「……朝飯、早くねえか?」
浩太は、いつも七時半過ぎに起きる。大学やアルバイト先が近いこともあってこれで間に合うのだ。
寝ぼけ眼をこすると、おもむろにベッドから抜け出てカーテンを開ける。すぐに顔を洗って髪型を整えてから着替えを済ませ、アパートの部屋を出た。
昨日通ったルートに従って自転車をこいだ。心なしかいつもより脚に力が入っている。幼い優美がさみしいのかもしれないと、浩太は思ったらしかった。
まだ通勤時間のピークではないので道は空いていた。朝日を浴びてやや白ずんでいる通りを走っていると、ジョギングをしている初老の男性を見かけた。それなりに走り込んでいるようで、ハーフパンツからはみ出るふくらはぎが日に焼けて年齢を感じさせない張りがある。テンポよく呼吸をしているあたり長年の成果が出ているようだ。
平沼家に着き、インターホンを鳴らす。
すぐに彩希が門まで下りてきて、門の鍵を開けた。
「おはよう」
彩希は明るく挨拶をする。
「おはよ」
と、浩太も返す。
彩希が門の扉を大きく広げ、浩太は自転車を中へ入れた。
自転車に鍵をかけてから石段を上る。彩希が玄関のドアを開けて、浩太に入るよう促した。
「おとーさんだー」
玄関に入るとすぐに、優美が駆け寄ってきた。浩太が靴を脱ぐ前に抱っこをしてほしいようだった。
「おお、優美、遅くなってごめんな」
浩太は身を屈めて優美の背中に両腕を回して抱き上げようとした。ところが、シャツが滑って上手く持ち上げられず、力が入ってしまい、優美を締め付けてしまいそうだった
「ちゃんとお尻に腕を乗せて」
彩希がアドバイスを送ってきた。
「ん、うーんと、こうか?」
浩太が右の前腕を優美の後ろ腿に添えると、優美が前腕に座った。左手を優美の背中に添えてから思い切って持ち上げると、意外にも軽く、勢いがついてしまった。
「きゃーっ!」
優美は楽しかったらしくはしゃぎ声を出した。
「おお、よしよし。ご飯食べような」
浩太は器用に足を動かして靴を脱いだ。
優美を抱っこしながらリビングに行くと、すでに朝食の準備ができていて、食卓テーブルには三人分の食事が置かれてある。薄切りのトースト、目玉焼きに付け合わせのブロッコリーとニンジン、牛乳といったシンプルな献立。優美のためかいちごジャムまである。
「ちゃんとしてるなぁ」
浩太は普段、コンビニやスーパーで買って来た菓子パンやおにぎりだけで朝食を済ませている。品数の揃った朝飯を食べるのは、実家に帰省した時ぐらいだった。
「たべよー」
優美はお腹が空いているようだ。用意されてあった子ども用の椅子に優美を座らせると、彩希がその隣に腰を下ろした。浩太は二人の向かい側に座った。
「それじゃあ、手を合わせて」
彩希が手を合わせると、優美もそれを見て同じことをする。浩太もとりあえず手を合わせた。
「いただきます」
彩希が頭を下げると、
「いただきます」
と浩太も頭を下げた。
「いただきまーす」
優美は元気よく言ってから、ジャムの瓶に手を伸ばした。蓋は外れていてスプーンが刺さっている。たどたどしい手つきでジャムを塗ってから、浩太の方に目を向けた。
「いるー?」
「ん? ジャムかい?」
「うん」
と優美は首を縦に振る。
「じゃあもらおうか」
なにも塗らなくても良かったが、優美が機嫌良さそうに笑っているので、断りにくくなった。
「はーい」
優美はジャムを手に取って浩太に渡そうとした。
「ありがとう」
ジャムを受け取って塗った。
「お母さんにもちょうだい」
「ああ」
彩希にジャムを渡す。
ちらと優美を見ると、トーストを一口食べてから牛乳を飲み始めた。次にピンク色の箸を手に取って野菜を食べようとする。
「へえ、優美って箸使えるんだな」
三歳で箸が使えるとは思わなかった。優美の箸にはくぼみがあり、そこに指を添えればきちんとした箸の持ち方になるようだった。
「子どもって意外と器用なのよ」
「平沼って――」
「お父さん」
彩希はむぅっと頬を膨らませる。優美がいるせいか少しおどけた感じを出したかったようだ。
「……彩希って子どもの世話したことあるのか?」
「うん。子役の子どもと遊んであげたりもしたから」
と、経験を娘の優美に活かしているようだ。
「そうか」
とだけ言って、浩太はトーストをかじった。塗ったジャムは割と質の良い物らしく果肉が豊富で噛み応えがあり、ほのかな酸味と豊かな甘みを感じた。
その間に優美は野菜を食べている。
「ブロッコリーとニンジンって子どもが嫌いそうなもんだけどな。優美って好き嫌いがないのか?」
と浩太が訊いた。
「ソースかけてるから、たべれる」
優美はにこにこ笑顔で答えた。
「ひ――彩希が作ったのか?」
平沼と言いかけたとき、彩希の目が鋭くなったので言い直した。
「既製品のソースよ。少し甘めだから食べられるみたい。それとさ、話は変わるんだけど」
「なに?」
「浩太って、アパートからうちに来るの大変でしょ」
「大変だけど、優美を放っておくわけにはいかないしなぁ」
あれだけ懐いてくるせいか、優美に対するいとおしさが芽生えてきたようだった。
「だから、今日からうちに泊まらない?」
「へ?」
この展開は予想していなかった。彩希の実家に寝泊まりするよう誘われるとは……。
――同棲? いや待て、優美がいるから……。
浩太の考えがまとまらない。そもそも家族が不在の隙を突くような真似をしていいものなのかどうか、ちょっぴり理性も働く。
「なに赤くなってるのよ」
彩希がいたずらっぽい笑みを浮かべてからかう。
浩太は気づかないうちに手が止まり、顔が熱くなった。
優美も手を止めて浩太に笑顔を向けている。口の周りにはソースがついていた。
「い、いきなりそんなこと言われたら戸惑うだろ。それに彩希は、その、元芸能人だし……こんなこと、想像してなかったっていうか」
と、返すのが精一杯な浩太。
「気にしなくていいじゃない。引退したんだし、ゴシップ誌がうちに来るなんてないから。勘ぐられることなんてないわ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「なにが問題なの?」
と、彩希は窺うような視線を送ってくる。
「女の家に転がり込むってのは、ちょっと具合が悪くないか? その、倫理的にっていうか……」
「だったら、わたしと優美が浩太のアパートに行く?」
「なんでそうなるんだよ。俺と平沼が――」
「さ、き」
彩希はまた頬膨らませた。横にいる優美が彩希に顔を向ける。
「えっと、俺と彩希が一緒に住むってどうなんだって話だよ」
「わたしがどうとかじゃなくて、優美がさみしがったらいけないってだけ。もう、つべこべ言わないの。優美だってお父さんと一緒にいたいんだからねー」
「うん」
優美がこくりとうなずく。
「じゃあ、考えておくよ」
曖昧な返事をする浩太。
「あと、買い物しないと。優美が遊ぶ道具ぐらい必要でしょ」
「何がいいんだ?」
「ぬいぐるみは持って来てるみたいだし……トランプとか塗り絵とかがいいんじゃない? あと外で遊べるものとか」
「なら、サンシャインあたりで探すか。あとは――」
と、ここで浩太のスマホが鳴り、ポケットに手を入れようとした。
「お父さん、食べてからにして」
彩希は浩太がスマホを取り出す前に注意をした。
――こうまで変わるかね。
浩太が知る限りだと、普段の彩希は食事中によくスマホをチェックしていた。しかし今は、食事中にスマホを見る親の姿を見せるのは教育上よろしくないと思っているようだ。
朝食を食べ終えると、みんなで食器を流しに運んだ。彩希が洗い物をしている間、浩太はソファに腰を下ろして、スマホでLINEをチェックしていた。その様子を優美が横から興味ありげに見つめている。
「スマホー」
優美が手を伸ばしてきた。スマホをねだっている。
「あとでな」
浩太は優美と目を合わせつつ頭を撫でる。
「むー」
優美は浩太の脚に覆いかぶさるようにうつぶせになる。優美の体温が心地よかった。
浩太は優美の背中を撫でながらメッセージを読んだ。
「お、陽平からだ。あいつも朝早いな」
「バイトあけ?」
彩希は浩太の独り言が聞こえたらしい。
「かもな」
「それで、何の用?」
「今夜、合コン来ないかってさ」
「ほう」
彩希は水道を止めた。上体を曲げて訝しげな視線を投げかけてくる。
「……なに怒ってるんだ?」
「浩太、行く気じゃないでしょうね」
「行くか。どうせ数合わせだし、行ったところでなんの実りもないって」
「どうだか。浩太みたいに堅実に税理士目指す人ならだれかに引っかかっておかしくないわ。浩太が思っているより、女の人ってシビアに現実を考えているのよ」
「おまえ、妙に突っかかってくるな」
「別にぃ。娘をほっぽり出して遊びに行ってほしくないだけ」
「だから、行かないって」
「ほんとに行かない?」
「しつこいな。だいいち、平沼みたいな――」
美人と一緒にいれるのに行く理由がない、と言いかけて浩太は口を噤んだ。ヒートアップしかけたが、にわかにテレが湧いてきたようだ。
「わたしみたいな?」
彩希はキッチンから身を乗り出して問い詰めに来た。
「と、とにかく。優美がいるんだし、放っておいて遊びに行けるか」
と浩太はごまかすように優美を見下ろす。優美はまだうつぶせになっていた。
「わー」
優美がころっと横に転がって浩太の腹に顔を埋めるような格好になった。そして、浩太のシャツを掴むと身体をもぞもぞ動かして起き上がろうとする。
「おっと」
浩太は優美を抱きかかえた。すると、優美は顔を見上げて、えへへと笑顔を向ける。
「わかってるならいいよ。それよりも浩太、いいかげん、平沼ってやめてよね」
彩希はまた蛇口から水を出して食器を洗いだした。
――優美がいるからだろうな。
ちゃんと娘と向き合う時間を作ってほしいと願っているんだな、と浩太は解釈した。
ふと、優美の頭を撫でた。
優美は一瞬不思議そうな表情になるも、すぐに笑顔になった。