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七日目:突然、実家から電話がかかってきました

 二日酔いの麒一に留守番を任せて、浩太たちは出かけた。


 外に出るとすぐに、真夏らしい日射しが身体に降り注いだ。真青な空には雲はおろか、霞すらかかっていない。猛暑というほどではないにしろ、東京の夏らしく少々厳しい暑さである。Tシャツ、ハーフパンツ姿の浩太の手足が日射しをもろに浴びて、肌が焼けそうだった。


 大塚駅までは都電荒川線を使えばすぐに行ける。ところが彩希は歩いていくことを選択した。彩希の家から大塚駅までおよそ一・五キロ。往復で三キロ。三歳児が健やかに育つためにはそれぐらい歩いた方がいいという。優美を長い間外を歩かせるのは危険だと思うのだが、麦茶を入れた水筒を用意しているので、熱中症にならないように彩希が気をつけるという。


「電車の乗り方って教えなくていいのか?」


 反対する気はないが、ある程度社会のルールに触れるのも大事な気がして彩希に訊いた。


「それは未来のわたしたちが教えているんだからいいんじゃない? 都電で数駅ぐらいは歩いて当たり前って感覚を養っておくのも大事でしょ」


「ま、それもそうか」


 それぐらいは金かけないで移動するということも教えておくのも大事だと、彩希の考えを尊重した。


 三人は今、都電荒川線の沿線を歩いている最中だった。時おり通行禁止の場所があり、民家の連なる路地に逸れなければならないが、基本的には線路に沿って行けば迷うことなく大塚駅に着く。


 優美は外を歩くのが好きなようで、電車に乗りたがる素振りを一切見せない。彩希と手をつないだり、ときどき思いもよらないタイミングで走り出したりする。浩太と彩希の手をつないだと思ったら、蹴るように脚を浮かせたりもした。少々落ち着きがないようでヒヤヒヤするものの、道行く人たちの迷惑にならないようにふるまっているようで、その点はほっとした。


「王子とかでお花見するんなら都電に乗ってもいいけど、時期じゃないしね」


 と、彩希が話しかけてきた。ちょうど優美がはしゃぎ疲れて彩希の手を握りながら歩いている最中だった。


「だよなぁ。でも、家族で電車に乗るのも悪くないよな」


「副都心線に乗って新宿、渋谷あたり。うーん、子どもが遊べる場所なんてあるかなぁ」


「あれ? 彩希って新宿とか渋谷に詳しくないのか?」


「東京生まれだからって有名な街に詳しいわけじゃないの。池袋は少し知っているぐらいかな」


「なんとなく芸能人って、その、有名な場所っていうか、流行っていうか――そういうのに詳しくて当たり前だって思ってたからさ」


「タレントさんの中にはそういう人もいるけど、わたしはお芝居中心だったし、知る必要も機会もなかったの」


「そんなもんか」


 地元にいたころ、東京の情報がメディアから流れてきた。浩太は流行を追うタイプではなかったが、同級生の中には髪型やアクセサリーなど明らかにメディアに出ている芸能人やインフルエンサーの真似をする人たちもいた。彩希、つまり瀬能紗雪ほどの有名人なら流行りを追っているどころか、むしろ発信しているのが自然だと考えたのだが、どうやらこれは浩太の無知による思い込みらしかった。


 たしかに彩希の服装は清潔感はあるが、別段流行を追っているわけではなさそうだ。今彼女が身に着けている物も、黒のノースリーブにカーキ色のワイドパンツで、一般的な女子大生とあまり変わらない気がする。それでも、だぼっとした服装なのに太った印象が全くなく、抜群の着こなしを見せている。流行やブランド、デザイン以前に本人に似合った服を着るのが肝要なのかもしれず、彩希はそのことを心得ているらしかった。


 そのセンスの良さが優美の服選びにも活かされているのだろうか。と、浩太は優美に顔を向ける。とことこと頼りなげな足取りで前を歩いていた。


 かわいらしい歩き方に思わず頬を緩めたとき、スマホが鳴った。通知ではなく電話のようだ。


「誰だろ。ちょっと待って」


 浩太は彩希に断りを入れて、通行人の邪魔にならないよう路地の入口近くで足を止めた。建物の方へ身体を向けると、ポケットからスマホを取り出した。


 画面には青江美里と出ていた。浩太の母親である。


 ――ああ、優美の名前って……。


 母ちゃんからとったんだな、と今さら気づく。彩希の母親は「優」がつくかもしれない。今度訊いてみようと思った。


「おかーさーん、むぎちゃー」


 と優美は暑さを思い出したように、水筒をねだった。


 熱中症の心配はなさそうかな、と安心してから画面をタップして電話に出た。


「もしもし。なんかあった?」


 と、いきなり訊く浩太。


〈なんかあったはないでしょ。浩太がこっちに帰ってこないから、お父さん心配しちゃってかけてみたのよ〉


 とは言うものの、美里の口調から心配する様子が窺えない。たぶん、暇だからかけてみたというぐらいだろう。それに心配しているとすれば母親の方だと思った。


「で、父ちゃんは?」


〈仕事中よ。でも、この時期あんまり忙しくないから早く帰ってくると思うけど〉


「そっか。お盆に帰れなくてごめんって謝っておいて」


〈なに言ってんの。それぐらい自分で言えばいいでしょ〉


 しょうがない、といった口調で母親らしく注意する美里。


「別に改めて言うことでもないだろ。年末帰省したときに土産でも買って行って話せばいいだけだし」


 といったところで、浩太の腰あたりを何度も触れてくる感覚が起きた。


「こらこら、電話中だから」


「わー」


 どうやら優美が浩太の腰をポカポカ叩いているらしい。


 ――いたずらっ()め。


 と、浩太は内心苦笑した。あとでやさしく注意してやろう。


〈誰かいるの?〉


 美里は二人の話し声が聞こえたらしい。


「ああ、友達と今一緒なんだよ。これからサークルの集まりに行く途中で、ちょっといたずらされただけ」


「そうなの」


 と、美里は納得してくれたようだ。


 さすがに優美のことを話すわけにはいかない。未来から孫がやってきたと言ったら、笑えない冗談を言うなと叱られるか、東京で悪い友達ができて頭がおかしくなったといらない心配をかけてしまうかもしれない。ここは言葉を濁してやり過ごした方が良さそうだった。


「心配しなくていいって。ちゃんと勉強して資格とって、父ちゃんの仕事手伝うから」


 浩太はそう言い聞かせた。相変わらず優美のポカポカが止まらない。


〈なら、いいんだけどね。でもね、お父さん、浩太が東京に残りたいならそうしてもいいって言ってるのよ〉


「なに言ってるんだよ。俺が継がなきゃ、父ちゃんの顧客だって困るだろ。信頼第一の青江税理士事務所だって胸張ってたじゃないか。たしかに、大学卒業したらどっかの企業や税理士事務所で下積みはするけどさ、いずれはちゃんと帰る気でいるんだから」


〈よかった。そうしてくれた方が、お母さん安心できるよ〉


 電話越しでも美里の安堵する様子が見えるようだった。


「ほらほら、もういい加減にしないと」


 後ろから彩希の声が聞こえる。未だに優美のいたずらを止めようとしないあたり、彩希も面白がっているようだった。


「とにかく、心配はしなくていいから。これから予備校にも通うし、在学中に三つ、四つは受かってやるからさ」


 念を押すように言った。三つ四つというのは税理士試験の科目数である。


〈そう、浩太なら心配ないわね。彼女も大事にしなさいよ〉


 じゃあまた、といって一方的に電話を切られた。時おり聞こえる彩希の声から浩太に彼女ができたと思ったらしかった。実際はもっと踏み込んだ関係ではあるが、ややこしい言い訳をする手間が省けて良かった気がする。優美の存在を勘付かれずにほっとした。


 そして、電話中にポカポカしてきた優美を注意しなきゃなと思った。


「しょうがないなぁ」


 と、浩太は柔和な声を作って振り向いた。

 すると、顔が引きつる感覚を覚えた。


 たしかに優美が叩いているのだが、この子の両手を彩希が握っているのだ。つまり、彩希が優美の手を使ってポカポカしていたのだ。


「……なにしてるんだ? 彩希」


 怪訝な色を隠さず訊いた。


「うーん、まあ、ちょっとしたいたずら心? 優美ったら退屈してたし、これぐらいならいいかなって」


 彩希は宙に目を遣って言い訳をする。さすがに気まずさを感じているようだ。母親に巻き込まれた優美は、にこにこして浩太を見上げている。


「あのなぁ。母親が子どもと一緒にいたずらするってどうなんだ? まったく、どうでもいい電話だったからいいものの」


 注意する気力が失せて脱力感を味わった。


「固いこと言わないの。優美だってお父さんに構ってもらいたいんだもんねー」


「ねー」


 優美はくるっと身体を回して彩希に向き直った。


「とにかく電話しているときにいたずらはしないこと。いいな」


 やんわりと注意した。


「はーい」


 優美が右手を上げて返事をする。ただ笑顔になっているあたり、注意の効果は疑わしい。


「彩希も、あんまり子どもに悪さを教えるんじゃないぞ」


 念のため、彩希にも注意しておく。


「はいはい。優美―、行くよー」


 彩希は背を向けて右手を上げると、足を進めた。


「おー」


 優美も右手を上げて彩希の後をついて行く。


「……彩希だけに子育てを任せておけないかもなぁ」


 浩太は頭を掻きながらついて行った。


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