七日目:二日酔いの麒一さんと朝を過ごします
昨日は散々な目に遭ったな、と浩太は目が覚めるとすぐにそう思った。
兄の麒一が帰ってきたせいで、レポート作成もままならならずに眠ってしまった。竹刀で撃ち合い、打ち解けて寿司とビールを奢ってくれたと思ったら、また因縁をつけられて襲われた。経験したことのない疲労感に襲われてすぐに寝てしまったのだ。
ベッドから這い出て、麒一に文句を言ってやろうかと考えた。
そのとき廊下からどたどたと足音が聞こえてきた。せっかくだから寝たふりをして優美に起こしてもらうのも悪くないかな、と思い、またタオルケットをかぶった。
ガチャっとドアノブの回る音がした。
「おとーさーん、おきてー」
やっぱり優美だった。
「おお、優美。おはよう」
気怠そうに声を発して寝返りを打つ。
「ごはんだよー」
と、優美は足元からタオルケットを剥ごうとする。
「今起きるから」
浩太はおもむろに起き上がると、タオルケットから抜け出て優美の頭をなでてやった。
窓際に行きカーテンを開けると、優美の廊下を走る音が聞こえてきた。浩太も廊下に出て早足で優美を追いかける。階段の近くまで行くと、優美が階段を下りようとしていた。
「気をつけろよ」
と、浩太は手伝ってやりたい気持ちを抑えて言った。ちゃんと下りられるとわかっても、心配が先立ってしまう。
「うんしょ、うんしょ」
優美は一段ずつ階段を下りて行く。階段を見下ろしながら転ばないように気をつけている。
無事に一階まで下りると、優美は駆け足でリビングのドアに近づいて、手を伸ばしてノブを回して開けた。すぐにリビングに入って行く。
浩太も優美の後を追うようにリビングに入ると、ソファで新聞を読んでいる麒一の姿が目に入った。まるで古い時代の父親像を体現しているような雰囲気を漂わせている。
「おはよう、ございます」
昨日のことを思い出して、口籠る浩太。
「おお、浩太くん、おはよう。二日酔いはしていないか?」
と言う麒一は、新聞を下げて浩太に顔を向けると、青ざめた顔をしていた。おまけに目の下に隈ができて顔がむくんでいる。整った顔立ちが若干崩れた印象があり、浩太を気に掛ける麒一の方がひどい二日酔いに悩まされている観があった。
「僕は大丈夫ですけど、麒一さんの方こそ大丈夫ですか」
「ちょっと吐き気がする。ってか俺昨日何やった?」
「昨日の記憶がないんですか?」
いっそのこと思い出さないでくれ、と内心願った。
「きゃー」
二人が話している間、優美はカーペットの上でゴロゴロと横に転がっている。
「ああ、ちょっと飲み過ぎたな」
「ちょっとどころじゃないですよ。十本も空けてましたよ」
「二人で?」
「ま、そうですが」
浩太が言い淀んだのは、キッチンで朝食の準備をしている彩希に目が行ったからである。麒一が一人で十本以上空けたとなると彩希が心配し過ぎて強く咎めてしまうと考えたのだった。
ともあれ、彩希がひざまくらをしたのも忘れたなら好都合である。麒一は過保護のきらいがあり、昨日のことを話してしまうとまた襲い掛かってくる恐れがある。ここは口を濁しておくに限る、と浩太は思った。
「できたよー」
と、彩希の声がキッチンから飛んできた。
いち早く反応したのが優美である。パック立ち上がって食卓テーブルに駆け寄る。浩太ものそのそとテーブルに着いた。
だが、麒一は動こうとしない。
「麒一さん、どうしたんですか?」
手を合わせようとしたとき、麒一がソファから全く動かなかったのに気づいた。テーブルには四人分の食事があるので食べないというわけではなさそうだった。
優美が早く食べたそうに催促するような顔つきで彩希を見上げる。
「お兄ちゃん、早くしないと冷めちゃうよ」
と、彩希もしょうがなさそうに言う。
「あ、ああ」
麒一がのそっと立ち上がって浩太の隣の席についた。
「じゃあ、お父さん。いただきますの挨拶」
彩希が促してくる。
「俺がやるの?」
「お父さんなんだから当然でしょ。ほら」
なにが当然なのか、と思うが、彩希が訴えかけるような目つきで見つめてくるので、応じることにした。
「いただきます」
と、浩太は手を合わせて言うと、みんなもそれに倣った。
「あ、シジミの味噌汁か」
と、浩太は汁物に目が行った。浩太と麒一に合わせてくれたらしい。だが、優美のお椀に目を遣ると、別の具材が入っているようだった。
「優美のは違うんだな」
「シジミって独特の匂いがするでしょ。ちょっと優美には早いからお豆腐にしたの」
「二種類作ったってことか、手間がかかるなぁ。大変だっただろ」
朝早く起きて朝食を作ってくれた彩希をねぎらった。
「別に。だって浩太とお兄ちゃんのはインスタントだもん。ほら、二日酔いにはシジミっていうし」
「そうか。ありがとうな」
ちょっと拍子抜けだったが、身体を気遣ってくれた心配りに感謝したかった。
と、不意に優美に目が行った。相変わらず、器用に箸を使いながら鮭の切り身を彫ぐして口に運んでいる。
「ふふふん」
優美はちゃんと飲み込んでから浩太に笑顔を向ける。浩太もそれに応えて笑顔を作る。
「子どもって意外と器用だよな」
麒一はみそ汁のお椀を手に持ちながら言った。
「そうですね。でも、魚の骨はまだとれないみたいですね」
浩太がそう言ったのは、優美の切り身はあらかじめ骨が取ってあるからである。
「三歳で骨取るのは難しくないか?」
「育ちによりますかね」
と言うものの、浩太自身三歳のときの記憶が曖昧だった。小学校に上がったときには切り身の骨ぐらいは取れたかなと思い出す。
「そういや、彩希の家ってメニューが豊富なんだな」
「うん。お母さんが料理好きで教えてもらったから」
「あれ? 彩希の両親って共働きじゃないのか? よく料理する時間なんてあったな」
「共働きっていうのかねぇ。彩希のマネージャーだったし」
麒一は鮭の身をほぐしながら喋る。
「ああ、なんか子役には母親がつきっきりだって良く聞きますもんね。彩希もそうだったんだ」
「うん。でも中学に上がったらやめちゃったけど」
「なんでまた?」
「自立心を養うためって感じかな。いつまでも親がつきっきりだと依存してしまいがちでいつまでも大人になれないからだって。それに事務所がちゃんとサポートしてくれたし、そのことも大きかったのかな。母親がいつまでも出しゃばっちゃいけないって」
「ふーん、そんなもんか」
あまりにも特殊なケースなので、いまいち理解できなかった。ただ、彩希に関しては上手くいったのかなと思う程度である。
「で、彩希は高校まで芸能活動をして大学の学費やら生活費、それにしばらく遊んで暮らせる金を稼いだんだよ」
麒一が茶化すような口調で言う。
「それまで必死で働いたんだからちょっとの間休んで立って罰は当たらないわ。でも、わたしもアルバイトしようかなぁ」
「おしばいー?」
と優美はきちんと白飯のお椀をテーブルに置いてから訊いた。
「ううん、お芝居はお休みしているの」
「どうしてー? おかあさん、ドラマでてるのにー」
おそらく優美はドラマに出演している彩希を見たか、話を聞いているのだろう。
「うーん、なんて言えばいいかなぁ。今のお母さんは大学生でお勉強をしているのよ」
「さんすーうー?」
「算数じゃなくて、英文学って学問のお勉強。さ、早く食べてしまいましょう」
彩希は苦笑しながら言うと、お椀をもって白飯を口に運ぶ。優美はわからないというふうに彩希を見つめたままである。
「つーか、この子、未来の俺たちと今の俺たちの区別はついているのか?」
と、麒一が訝しげに訊いてくる。
「どうでしょうね。僕を見てすぐに父親だって認識してましたし、あんまりわかってないのかも」
「まだ三歳だから無理もないか」
「きーちさんは、だいくさんでしょー?」
優美は麒一に顔を向ける。
「まあ、広い意味では大工さんだな」
三歳の優美に自然災害の分野を話すのは難しいと、麒一は感じたようだ。極限まで拡大解釈して優美に伝えた感がある。
「むー?」
優美は首を傾げる。
「ええと、優美って麒一さんに会ったことあったっけ?」
浩太はみそ汁を一口飲んでから訊いた。
「あるよぅ」
優美は困り顔を浮かべる。何で覚えていないの? と言いたげに見えた。
「やっぱ、区別がついていない感じだなぁ」
と、浩太は苦笑いを浮かべる。
「ちょっとずつわかってくれればいいじゃない。ほら、ご飯冷めちゃうよ」
彩希は早く食べるよう促すと、みんな食事に戻った。
ところが、浩太、彩希、優美が食べ終わっても麒一の箸が進む様子がない。シジミの味噌汁を飲んだ程度である。
「お兄ちゃん、食器洗うから早く食べて」
「いや、食欲がなくてな」
「飲み過ぎたせいね。もう、しょうがないな。捨てるのもったいないから、お兄ちゃんはお昼もそれだからね。ちゃんとチンして食べてよ」
彩希はいつの間にかラップを持っていて無造作に麒一の前に置いた。
「わかった。ラップかけておくよ」
と、麒一は気の進まない様子でラップをかけ始める。
――妹の方が、上手だな。
そう思いながら浩太は、ソファに腰を下ろした。
「だっこー」
と、優美がねだってくる。
「おお、よしよし」
浩太は優美を抱き上げて膝の上に乗せる。両腕を前に回して優美を抱き寄せた。
「あー、だるい」
と、麒一は隣のソファにどかっと腰を下ろすと、すぐに横になった。思いのほか二日酔いがひどいらしく、一緒に出掛けるのは無理そうだった。
腕の中の優美は、不思議な生き物を観察するようにじっと麒一伯父さんを眺めていた。
――こんな大人になるなよ。
酒はほどほどに、と常識人ぶった考えが浮かぶ。
浩太は顔をしかめつつ優美の頭をやさしく撫でてやった。




