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六日目:腹を割って話します

『なつめ寿司』は小ぢんまりとした店だった。つけ場のケースには新鮮なネタが並べられ、店主が淀みのない手さばきで寿司を握り、客に出している。カウンターが七席、畳を敷いた小上がりの席が四席、ほぼ席が埋まっているようだった。


 麒一が奥の小上がりに通してもらうよう店員に頼むと、その通りに案内してくれた。厚めの襖で仕切ることができ、大騒ぎしない限り外に会話が洩れることがないという。


「この店の屋号って、夏目漱石にあやかったんですか?」


 夏目を平仮名にしたのではないかと想像し、訊いてみた。近くの雑司ヶ谷霊園には夏目漱石の墓があるのは知っている。ただ、漱石が寿司が好きだったという話は聞いたことがない。


「いや。たしかマスターのばあちゃん、先々代の女将さんの名前からとったらしいぞ」


 麒一は座り直しながらいってから、すいませーん、と店員を呼んだ。


「酒は飲めるか?」


 と、麒一が訊く。


「あ、はい。六月に二十歳になったので」


「よし。じゃあ、まずはビールでいいか」


「はい」


 とだけ浩太は言う。本当のところ、ビールの苦みが口になじまず、あまり得意ではないが、おごってもらう立場ではわがままを言うべきではないと心得ている。


 それにしても麒一が『なつめ寿司』の雰囲気に馴染み過ぎている気がした。本格的な寿司屋が似合うのは働き盛りの社会人ぐらいだと浩太は思ったので、麒一が何の気兼ねもなく振舞っているのが節でだった。

 注文を取りに来た作務衣姿の店員は女将さんらしく、彼女は親し気に麒一に話しかけた。麒一も気楽な口調でビールと上寿司二人前を頼んだ。

 浩太は慣れない雰囲気に身体が強張る感じがしてどう振舞うべきか考えてしまう。身の程を知らない学生がふらっと来る店ではなさそうだった。


 女将さんが瓶ビールとグラス二杯運んできた。麒一が礼を言うと、女将さんが下がり、襖を閉める。


「こういう店は初めてか?」


「え、あ、はあ。高級そうな店なので、戸惑っていると言いますか……」


 浩太は曖昧な返事をする。


「心配するな。今日は俺が奢ってやるから。こう見えて、予備校とか家庭教師のバイトで結構稼いでいるんだ」


 と、麒一が手酌でビールを継ごうとした。


「あ、僕が注ぎますよ」


 浩太は瓶を両手にとってラベルを上にして麒一のグラスに注ごうとした。


「へえ、几帳面だな」


「なんか知らないんですけど、親父に教えられたんです。その、上京する前に」


「謎マナーだよな。そんなの気にする方がどうかしてるっつうのに」


 麒一は微笑を漏らすと、グラスを差し出した。浩太は遠慮がちにビールを注ぐ。


 ――ん?


 ずいぶんな変化だな、と浩太は思った。昼間の暴走した麒一とは違い、妙に穏やかな顔つきになったと感じた。浩太をここに連れてきたのは詰問するためではないのかもしれない。


 ビールを注いでからグラスを合わせた。かちりと響きのない音が鳴る。


 麒一がぐいっとグラスを呷り、あっという間に飲み干してしまった。


「やっぱ、ジョッキじゃないと物足りないなぁ」


 愚痴を吐きながらも次の一杯を注ごうとした。


「あ、注ぎますよ」


 浩太は慌てて膝を立てて瓶を持とうとした。


「いいって、注いでもらうのは最初の一杯だけ、あとは手酌でいいだろ」


 他人に注がれるのは面倒だと思っているらしい。麒一は手早くビールを注ぐとまたグラスを呷る。


「けっこう、飲むんですか?」


 話題を絞り出す浩太。


「大学の寮じゃ、ほとんど毎日だな」


「寮住まいなんですね」


「けっこうボロいけどな。でも、家賃も安いし、友達もできるから案外住み心地は良いぞ。おまけに実習終わりに牛肉持ってきて振舞ってくれるし、楽しくやっているよ」


「実習?」


「農学部とか獣医学部の実習。何やってるかわかんないけど、実習で使い終わった牛の肉を食うんだよ」


 その牛肉はいろんな意味で大丈夫なものなんだろうかと、うっすらいやな予感がするが、訊かない方が良さそうだった。


「その、麒一さん、予備校でバイトしているって言ってましたけど、帰省して大丈夫なんですか? たしか夏期講習とかで忙しいと思うんですけど」


 名前で呼んでいいか少し迷った。馴れ馴れしい感じを与えてしまうかと思いきや、麒一は気にする素振りを見せずに質問に答えてくれた。


「俺の担当はもうちょい後、だから今の内に帰って来たってだけ」


 それだけ言うと、麒一はまたグラスを呷った。ペースが速い。


「あ、あと、大学院に進学したと伺いましたけど、専攻はなんですか?」


「土木工学、主に自然災害の分野だな。大学に残って研究するか、大手の企業からも声がかかっているし、どっちがいいか考え中」


「優秀ですね」


「ふふん、まあな」


 と、心持ち自慢げになる麒一。笑い方が彩希とそっくりなあたり兄妹だなと感じる。


「で、浩太くんは地方出身か?」


「え、あ、はい。国立に落ちて上京したって感じですね。高校の担任がお前の成績なら国立に受かるって勧められて努力したんですけど、ダメでしたね。二次で失敗しました」


 不意を突くように名前で呼ばれて戸惑った。


「でも、高明大学ならいいじゃないか。もしかして共通テストで受かったクチか」


 予備校のアルバイトらしく、細かいことを訊いてきた。


「はい。だから、部屋決めをするときにはじめて上京したんです」


「ふーん、そうか。デキは良い方だな」


「でも、入ったときは少し後悔したんですよね。高明大学って落ち着いた雰囲気がありますし、立地も良いんですけど、税理士試験の学内講座がなくて、もうちょっとちゃんと調べて大学を選んでおけばよかったなって入学してすぐのときは思いました」


「今は?」


「はい?」


「だから、今も不満なのか?」


「いえ、友達もできましたし、今となっては別にいいかなって。ただ、予備校の学費とか生活費を稼ぐのに苦労してますけど」


 親からの仕送りはあるが、ちょっと見栄を張ってそのことは伏せた。


「なんの予備校?」


「税理士です。家業を継ぐのに資格が必要なので」


「ふーん、そりゃ大変だな」


「在学中に全部受かるのは至難の業って言われています。とにかく一科目で多く合格したいですね」


「ああ、たしか何年かけてもいいから五科目に合格すればいいんだっけ?」


「はい。でも社会人になると勉強時間が取れないんで、そこで諦めてしまう人もいるみたいです」


「だろうな。なら、在学中に二つか三つ受かっておきたいところだな」


「できれば四科目ですね。あとはどこかの税理士事務所か企業で働きながら合格を目指すのが理想かなと」


「そっか、ちゃんと人生設計を立ててるんだな」


 と、麒一はグラスをまた呷ってからビールを注いだ。


 ――なんか練っているな。


 世間話という体で話をしているが、時おり麒一が油断ならない眼光を放っている気がした。いろいろ飛躍して彩希の旦那さんという立場に収まっている浩太の資質を見定めている感がある。


「失礼します」


 襖越しに女将の声がした。どうぞ、と麒一が応じると、襖があいた。女将が上握りを持ってきて、テーブルの上に置いた。 


「麒一くん、これでいいかしら」


「はい。ありがとうございます」


「えっと、こちらの方は?」


 今気づいたというふうに女将さんが訊く。


「ああ、彩希の友達です。せっかくだから連れてこようかって」


「青江浩太です。初めまして」


 と、浩太は居住まいを正して恭しく頭を下げる。


「あら、彩希ちゃんにこんな礼儀正しいボーイフレンドができたのね」


「そんなんじゃないです。浩太くんは――」


 途中から二人の会話が耳に入らなくなった。


 浩太はこの寿司を本当に食べていいものか躊躇っていたのだ。東京で寿司屋をやっているだけあって、どの寿司のネタも新鮮で色鮮やかだった。握りも均一で手で握ったとは思えないほど整っている。中とろ、赤身マグロ、アナゴ、鯛、シンコ、エンガワ等々。サーモンがないあたりれっきとした江戸前寿司のようだ。


 地元でもいい寿司屋があり鮮度においてはあちらの方が上かもしれない。しかし、東京でこれだけのクオリティを出すとしたらどれだけの値が張るかわかったものではない。麒一の方が年上とはいえ同じ学生、本当におごってもらうべきなのか今一度考える必要がある気がしてくる。


「あら、もうビールがないのね。ペースが速いこと」


「あはは。女将さん瓶ビール二本持ってきてください」


「はいはい」  


 柔和な笑顔を浮かべて女将は下がった。


「さて、食べるか。遠慮しなくていいぞ」


「あ、あの麒一さん。本当に会計は大丈夫なんでしょうね」


「今さら疑っているのかぁ」


「だって、この寿司、どう考えても学生が食べるものじゃないでしょう」


「だから、心配すんなって。これでもバイトで結構稼げてるんだぜ」


 麒一は自信ありげに笑みを浮かべて親指で自分をさした。


「って、そんなことはどうでもいいんだ」


 と、いきなり真面目な顔つきになってテーブルに両肘をついた。


「彩希と優美、のことですか?」


 呼び出すにはそれしかないとは思っていた。浩太は寿司に箸をつけず、居住まいを正して麒一を見据えた。


「ああ。彩希のこと、どう思っているんだ?」


 麒一の目に真剣味が帯びた。


「同じサークルの友達、でした」


「でした?」


「ええ」


 浩太は心持ち前のめりになり、念のため声のトーンを落として言葉を続けた。


「僕も、優美が来てちょっと混乱しているっていうか……。そもそも彩希があんなにあっさり受け入れたのが信じられなくて……」


「たしかに、いきなり未来から自分の子どもが来たってなったらキョどるよな」


 麒一はビールに口をつける。


「けど、優美が僕を父親だと認識して懐いてくれていますし、帰るまではちゃんとお世話してやらないとって思います」


「うん、まあそうだよな」


 意味ありげに首をひねらせて顔を逸らす麒一。彼もまた思うところがあるようだ。


「あと、一つ気になることが……」


「うん?」


 麒一は目だけ動かして浩太を見つめる。


「その、未来の彩希がなんで僕と結婚する気になったのかがわからないんです。たしかに同じサークルの友達ですが、ただそれだけの関係でしかなかったので」


 浩太は視線を逸らし、考えをまとめながら言った。彩希が浩太を旦那と認め、優美の存在を受け入れているのが事実とは思えなくなってきた。


「彩希は、なんか言ってなかったのか?」


 麒一の言葉が耳を打ち、浩太は彼と目を合わせる。


「えっと、たしか僕が税理士志望で安定した収入を見込めるから、結婚相手にふさわしい、みたいなことは言ってました」


「女ってのはシビアだからな。よく女は愛だの恋だのに夢中っていうけどありゃあウソだ。むしろ男の方が女に夢を見がちなもんだ。女の方がよっぽど現実を見ているぞ」


 ――本当か?


 と浩太は口を出しそうになったが、この手の恋愛話は決着がつきそうにないと感じ、あえてツッコまなかった。それに男だの女だので区別するのはこのご時世、良くない気がする。


「麒一さんは、モテるんじゃないんですか」


「なんだよ、急に」


「いや、たしかに彩希のお兄さんだなって感じますし、頭も良いですから。それに大切な人を守る気持ちがあるでしょうし」


「へえ、ずいぶん買ってくれるじゃないか」


 謙遜しながらもまんざらではなさそうだ。麒一は笑みを浮かべてから、グラスを呷り、またビールを注いだ。


「そうでないと、僕と竹刀で撃ち合ったりしないでしょう。彩希が変な奴に引っかかったかもって思ったから、挑んできたんでしょうし」


 と、あのときの麒一の行動に一定の理解を示した。ただ、やり過ぎだとは今でも思うが。


 すると、麒一が音を立ててグラスを置いた。さらにまた真剣な眼差しで浩太を見据える。この目つきも彩希に似ているな、と浩太は直感した。


「芸能人なんてやってたから、こっちが心配するんだよ」


「はい?」


 何を言っているか理解できなかった。


 そして、麒一はふっと酒混じりの微笑を浮かべると、昔のことを話しだした。


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