六日目:怪我無く勝負を終わらせたいです
防具なしで試合をすると聞かされたとき、麒一の正気を疑った。浩太は危険だと言って何度も麒一に抗議したが、気持ちのはやる麒一は頑として受け入れず、歪んだ笑顔を交えながら突っぱねたのだ。
今の麒一は兄としてのプライドを守り、そして青江浩太という悪い虫を妹の彩希から払いのけることしか頭にないらしかった。あわよくば浩太に手痛い一撃を与え、心身共に立ち直れないほどの傷を刻もうとする意図がある気がした。
平沼家近くの公園に連れてこられて、麒一から竹刀を投げ渡された。彼は公園に着くとすぐに上下素振りを始めた。基本通りに尻の近くまで振り上げてから、一気につま先まで振り下ろした。刃筋を確かめるように、一回一回の振り下ろしが丁寧かつ鋭かった。
浩太はその様子を観察しながら竹刀を振って感触を確かめた。防具なしという状況の中、怪我をせずにこのバカげた勝負を終わらす方法を考えた。一瞬、試合開始とともに逃げ出そうかとも考えたが、さすがにそれは体裁が悪い。せめて彩希と優美をがっかりさせることなく勝負を終わらせたかった。
優美、と思い、浩太は素振りの手を止めて彩希と手をつないでいる優美に目を遣った。優美は何が起きているかわかっていないようで、竹刀を振っている浩太をただじっと見つめていた。伯父が父親を許していないとは理解できていないのだろう。
竹刀で撃ち合う姿を優美に見せていいものかと、浩太は逡巡する。防具があるならまだしも、無防備な姿で竹刀を当ててしまうと血が流れ、優美を怖がらせてしまうかもしれない。純真無垢な三歳児に血を見せて戦う父親と伯父のことが深い心の傷となり、一生拭えないトラウマを刻んでしまってもおかしくなかった。
そこまで考えると、にわかに腹が立ってきた。見知らぬ男に妹を取られたのを許せない、その感情は理解できる。だが、仮にも伯父ならもっと他の手段をとることができた気がする。小さな優美に決闘の場面を見せるのは常軌を逸している。妹の娘以前に、三歳児に醜く争う大人の姿を見せようとする麒一があまりにも自分勝手に思えてならなかった。たとえ彩希を守る気持ちに溢れているとはいえ、このやり方はないだろうと思えてくるのだ。
とはいえ、こんな麒一でも優美の大切な伯父である。伯父としてのプライドも考えてやらなければならないと思い直し、湧いてきた怒りを押し留めた。
父親の面目を保ちつつ、伯父も傷つけない方法をどうにか思いつき、行動に移すしかないと思考を巡らせるも、すぐに良い案が浮かばなかった。
だが、浩太の心配は杞憂に終わり、勝負は呆気なくついた。
音を立てて竹刀を合わせると、麒一が浩太の頭部に隙を見出して、一気に踏み込んで上段から振り下ろした。浩太はその動きに反応し、竹刀を横にして受け止めた。そのとき、麒一の技量を大まかに把握し、妙案を思いついた。
一旦、後退りをし、間合いを取る。浩太は正眼に構えた。静止画のように竹刀をピタッと止めたまま一切動かさず、切っ先で麒一をさしながら出方を窺った。
真夏の日差しがもろに降り注ぐ。シャツが滲み、こめかみに一筋の汗が滴る。防具なしで試合に臨む緊張感もあって、ひんやりとした感触がある気がした。
「おかーさーん」
いきなり優美の声が耳を打った。
浩太はそれに気を取られ、ちらと優美の方を向いた。優美は暑さを我慢できないらしく、麦茶をねだっていた。
「いやぁー」
鼓膜を裂くような麒一の声が公園に轟いた。
浩太はすぐに意識を正面に戻したとき、麒一の鋭い打ち下ろしが襲ってきた。面うちではない。手首を狙ってきた。
刹那、浩太は相手の竹刀をからめとるように腕を回した。麒一の小手を竹刀を合わせながら切っ先を下に向けた。
下がり切ったとき、浩太は力一杯竹刀を振り上げた。
絡めとった麒一の竹刀が宙に舞い、麒一の手には何もなかった。
「な……」
信じられないものを見たような表情を浮かべる麒一。彼の竹刀が近くの芝生に落ちた。
「すごーい。ねえ、優美。お父さんの勝ちよ」
「てじなみたいー」
彩希と優美がぱちぱちと拍手をして喜びを分かち合う。
「ま、巻き上げか……」
麒一は夢から覚めていないような声を出す。
「怪我をさせないためです。これしか方法が思い浮かばなくて」
浩太は、作法に則って竹刀を収める仕草をした。
「お兄ちゃん、浩太ってすごいでしょ」
「う、ぐ、ぐ……。もう一回、もう一回だ」
だが、何度やっても同じだった。浩太は麒一の剣筋が良く見えており、打ち下ろしに合わせて竹刀を巻きつけ、そのたびに竹刀を跳ね上げた。
「ウソだろ。こんなはずはない」
麒一から自信が失われた。息を切らして目を見開き、呆然と浩太を見つめる姿には伯父の威厳がなかった。
「浩太の方が格上だからしょうがないわ」
彩希が進み出て、兄の麒一を慰めた。
「わーい」
優美がとことこと浩太に駆け寄ってくる。浩太は一瞬だいてやろうかと思ったが、汗が気になり、腰を屈めて頭をなでる程度にしておいた。
「格上って?」
麒一が訊く。
「浩太って、インターハイに出てるのよ。ね、浩太」
と、彩希がこちらを振り向く。
「な、な、き、聞いてないぞ、そんなの」
「聞く気もなかったでしょ」
「あ、いや、でも二回戦でボロ負けしたので……」
浩太は戸惑いがちに注釈を入れる。麒一が悔しさのあまり、ひどく顔が歪んでいたので、慰める意味合いもあった。
高三のとき、インターハイに出場したのは事実だが、何とか一回戦は勝ったものの、二回戦で敗退したので、威張れたものではないと思い、話さなかったのだ。
「でも、一本は取ったんでしょ。しかもその年の優勝者相手に」
「な、なんだと」
「いや、あれはあっちが気を抜いたからでして……。ってか彩希、俺、インターハイに出場したこと、話したっけ?」
知り合ってから一年以上、このことを話した覚えはなかった。
「ううん。ネットに結果が載っていたの。もしかしたら浩太が全国大会に出たんじゃないかって思って。本当に浩太の名前があるとは思わなかったから、見つけた時はびっくりしたなぁ。そのこと全然教えてくれないし」
「いいところなく負けたから恥ずかしかったんだよ」
「おとーさーん」
優美が浩太の脚に抱きつく。もう一度頭をなでてやった。
「とにかく、お兄ちゃん。約束通りうるさいこと言わないでよね。優美が帰るまで浩太と一緒に暮らすんだから、ちゃんと仲良くすること」
「ちょっと待て。一緒に暮らしているだと」
「夫婦そろって子供の面倒を見るのは当然でしょ」
「なにが当然だ。男を自分の家に引っ張り込んで問題が起きたらどうする気だったんだ」
麒一が彩希に顔を近づけて迫る。
――ごもっともです、お兄さん。
今さら、とも思うが、男を自分の家に泊めて平然としている彩希も異常な気がした。いくら優美がいるとはいえ、この子が寝たあと、浩太が邪な囁きにそそのかされて間違いを犯すとは考えなかっただろうか。
「浩太がわたしに手を出すなんてありえるわけないでしょ。今だって手をつないだこともないのに」
――だから、なんで確信が持てる?
いくらなんでも、彩希が買い被り過ぎている気がする。
「だっこー」
優美が浩太の身体をよじ登ろうとする。
「彩希、竹刀もって」
「了解」
すぐに彩希は反応を示し、竹刀を受け取った。
浩太は右腕に優美の腰を乗せて抱っこしてやった。
「優美、か」
と、麒一が優美に力のない視線を送る。
「きーちさーん」
優美は麒一伯父さんに笑顔を向け、手を伸ばした。
すると、麒一が目を見開き呆気にとられたかのような顔つきになると、俯きがちなった。
「本当に俺の姪っ子なんだな」
麒一は背筋をまっすぐ伸ばし、じっと優美を見つめると、おもむろに足を運んで優美の手を握った。
「あくしゅー」
優美はうれしそうに手を振った。
「帰るか」
とだけ言う麒一。そっと優美から手を離してから踵を返し、竹刀を拾って公園を後にした。
姪っ子と言ったときの彼は心なしか微笑んでいるように見えた。
浩太は優美にシャツを引っ張られているのに気づかなかった。




