六日目:お義兄さま、落ち着いてください
「ん? 誰だ、この子」
今気づいたというふうに、麒一が胡乱げな目つきで優美を見つめる。
浩太は足が強張ったまま動けずにいた。ただ、麒一と優美の様子を眺めるだけになってしまった。まったく知らない他人なら強く出ることもできるが、義兄を邪険に扱うわけにはいかない。どう対応していいか考えを巡らせても答えが出ない。幸い、麒一が手を出すというわけではなさそうなので、今は彼の出方を窺うしかなかった。
「誰かに似てるなぁ」
と、麒一が膝を折って観察するように優美を凝視する。
「わー」
優美は笑顔になり、麒一に手を伸ばした。
「あ、ああ」
無邪気な子どもに戸惑ったのか、麒一は優美と握手をすると、困惑気な表情になる。
「うりゃー」
と、優美が楽しそうに手を振ろうとした。
「お、おお、元気だな」
麒一の顔に曖昧な笑みが浮かんだ。戸惑ってはいるものの、冷淡に接する様子はないと見て、浩太は内心ほっとした。
「あ、そっか。優美は会ったことあるのね」
と、彩希が言う。
その言葉には納得できた。優美は未来で麒一と会っているからこそ、物怖じしなかったのかもしれない。
「なんだって?」
麒一の目に疑いの色が現れた。
「ちゃんと事情を話すから、落ち着いて聞いてよね。ほら、ソファにすわって。浩太と優美も」
「はーい」
返事をしたのは優美だけである。
浩太は顔を歪めそうになりながらも、ソファに腰を下ろし、優美を膝の上に乗せた。
彩希もソファに座ると、手紙とアルバムを麒一に渡した。麒一は彩希の隣にどかっと腰を下ろし、面倒くさそうにアルバムをめくり始めた。
「う、嘘だろ」
時間が経つにつれ麒一の手が震えだした。いま見知ったばかりの男と大切な妹が幸せそうに子供と触れ合っているのだから無理もない。
――まずいな。
と、浩太は直感した。麒一の心中には嵐の前の静けさが漂っているに違いなかった。大切な妹が今日知ったばかりの男と幸せそうに写真にうつっている姿を見て、穏やかでいるほうが無理な気がする。麒一の様子から怒りを溜めている様子がありありと現れていた。
「お、お、お」
麒一が、目をつけんばかりにアルバムに顔を近づける。
「どう? これが事実なの。疑うなら優美がわたしと浩太の娘だって証明するためにさ、DNA鑑定やってもいいよ」
彩希は自信をもって言い切る。
するといきなり、麒一がテーブルを割らんばかりにアルバムを叩きつけた。けたたましい音がリビングに響く。
「お兄ちゃん! 優美が怖がるでしょ」
しかりつける彩希の言葉を無視し、麒一は浩太の前に進み出た。浩太は思わず身体をよじって優美を庇う体勢を取る。
麒一が眉を吊り上げて浩太を見下ろしてくる。
「あ、あの」
お義兄さん、といったら激怒しそうなので、浩太は言葉を紡げなかった。言い訳を絞り出しているうちに、麒一の顔が歪みつつあるのが目に映った。
「う、うおおおぉぉぉぉーーーー!」
いきなりだった。麒一が頭を抱えると天を見上げて絶叫を迸らせた。
「お兄ちゃん。うるさいよ」
彩希は冷めた声で注意をする。
一方の浩太はあまりの大音声に耳を塞ぎたくなった。
「きゃー」
なぜか優美はうれしそうな声を出す。
「優美、大丈夫か?」
絶叫が轟く中、優美を気遣う浩太。
「いつもどーりだよー」
と、優美が言う。
「ああああぁぁぁぁー、彩希ぃぃーー、俺の可愛い妹がこんな男とけっこんするなんてぇぇーー。どうしてだ、どうしてだぁぁーー! 俺が悪い兄貴だったのか? 兄貴として大事な妹をまもれなかったということかぁぁぁーー!」
嘆きをぶちまける姿がなぜかおかしい。もはや恐怖は過ぎ去り、代わりに肩が脱臼するほどの脱力感を味わった。
麒一は浩太の前を離れると、テレビの前に蹲ってしまった。
「どうしたんだ?」
緊張がすっかりなくなり、彩希に訊いてみた。
「いつもこんな感じなの。まったく残念な人よね」
彩希が兄を怖がらなかった理由がよく分かった。
すると突然、麒一が上体を起こして、這いつくばるようにして彩希に近づいてきた。
「彩希ぃぃーー、答えてくれ。な、な、気の迷いか? それとも俺が何かしてしまったのか?」
右手を伸ばして懇願する麒一。
「過保護もいい加減にしてよ。浩太はちゃんとした人なんだから」
彩希は口元を歪めて呆れたように言う。
その言葉に反応し、麒一は立ち上がって泣きっ面を浮かべながら彩希に詰め寄った。
「どこがだ、どこがだぁぁーー!」
美形の顔が台無しである。残念な人、とは言ってもここまでとは思わなかった。
「情けない顔しないの。優美の伯父さんなんだからしゃんとしなさい。しゃんと」
こうなるとどっちが年上かわからない。
「だ、だげどぉーー、彩希は俺が守らないといけないんだあぁぁーー」
「お兄ちゃんじゃなくても、浩太が守ってくれるわよ。不良に絡まれてときも、浩太が助けてくれたんだから」
「な、なに?」
麒一がばっと浩太を振り向いた。涙混じりの目に妙に真面目な色が浮かぶ。
「ま、まあ、去年の話ですけど」
麒一の顔があまりにも崩れていたので、浩太は彼の顔を直視できず、目をそらした。
「そ、そうか。その点は礼を言う。だが、お前が本当に彩希を守れるか試さないといけないな」
麒一は前腕で顔を拭くと、すっと背筋を伸ばした。そしていきなり真顔になって浩太をまじまじと見つめる。
「あ、あの、なにか」
嫌な予感がした。
「青江だったな。なにか格闘技とかやっていたか?」
「は? いや、あの、高校のときまで剣道をやってましたけど」
「へえ、そうかそうか。それはちょうどいい」
と、麒一は口角を上げ、怪しげな笑みを浮かべる。
「なにがですか?」
「俺も剣道をやっていたんだ。こう見えても、都大会でベスト16だったんだ。容赦はしない」
「ええと」
浩太が言葉を紡ごうとしたとき、麒一がくるっと背を向けてリビングを出て行こうとした。
「お兄ちゃん、なにする気?」
彩希が咎めるような口調で止めようとした。
「さっきも言っただろ、こいつがちゃんと彩希を守れるか、試すだけだ」
気取った口調で言うものの、さっきまでの醜態の影響か格好良さを感じられなかった。浩太の呆れる気持ちをよそに麒一はリビングを出てどこかへ行ってしまった。
「浩太」
彩希は、麒一が出て行ったのを見届けて声をかけてきた。
「彩希、お兄さんが剣道やってたなんて知らなかったぞ」
浩太は横目で彩希に目を遣る。
「言わなくてもいいかなって。お兄ちゃん、帰る予定なかったし浩太を紹介する気もなかったしさ」
「で、俺はなにをするんだ?」
想像はつくが、一応訊いてみた。
「浩太がどれだけ強いか確かめるだけ。遠慮なくやっちゃえばいいから」
「気楽に言うなよ。東京のベスト16って相当なもんだぞ」
と、浩太はガクッと首を落とした。
「個人じゃなく団体だから。お兄ちゃん何回か試合落としているし」
彩希は楽観的な姿勢を崩さない。
すると、優美が顔を見上げて覗き込んでいた。
「いひひ」
お父さんが構ってくれて嬉しいようだ。浩太もぎこちない笑みを浮かべると、それに満足したのか、優美はするっと浩太の膝の上から滑って床に着地した。とことこと脚を動かして彩希に近づく。
「よいしょっと。大丈夫よ優美、お父さんがかっこいいところ見せてくれるから」
彩希は優美を抱き上げた。優美も母親の愛情に応えるように身体を寄せて彩希の身体に顔を埋める。
「やー」
優美のくぐもった声が耳に届く。今から浩太に試練が訪れようとしても、母娘は気にする素振りを見せてくれない。現に彩希は浩太が試練を乗り越えると期待しているかのような口ぶりだった。
――逃げるわけにはいかないよなぁ。
まず、義兄に認められるための第一歩を踏み出すしかないと腹を括った。




