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六日目:義兄と初対面です

 今日は家族三人でのんびりと過ごすはずだった。


 風雲急を告げるとは言いすぎだろうか。未来から優美が来て、浩太が平沼家に泊まり込んでから最大の試練が訪れようとしていた。


 彩希の兄、平沼麒一(きいち)は北海道の大学院生である。アルバイトや学業で帰省しないはずだった。ところが今朝、彩希のスマホに今日実家に帰るとの連絡が入ったのだ。


 浩太はどう言い訳をすればいいか考えた。彩希の話によると、麒一は妹の彩希を溺愛しているようで、妹に彼氏、いや旦那さんがいるとわかったらどんな反応を示すかわかったものではない。打ち首を待つ罪人のような心境になり、胸の鼓動が鳴りやまなかった。


 午前中、優美とビデオを見たり、リビングの中を走り回ったりして遊んだ。父親の焦燥を娘に悟られるわけにはいかず、何食わぬ顔を懸命に装った。


 一方の彩希は落ち着き払って優美に接している。遊び飽きたタイミングを見計らい、古本市で買ってきた絵本を取り出し、優美を膝の上に乗せて読み聞かせを始めた。

 さすがドラマで主演を務めただけあって、彩希の読み聞かせには一言一句、一切の澱みがなく、しかも感情が籠っていた。適度な抑揚をつけ、時にはおどけた語り口で絵本の物語を彩る。


 浩太もこのときばかりは迫った危機を忘れた。絵本を読み上げる彩希の顔には一人の俳優としての顔が映っているように見えた。声音だけではなく、場面や登場人物の心情に合わせて表情や声音を変えて臨場感を演出している。


 彩希に見入る中、ふと優美にも目が行った。あらかじめ絵本を見ているよう言い聞かせたのもあって優美は全く目をそらさずに絵本に集中している。これが彩希の読み聞かせでなかったらこうはならないだろう。優美に限らず、これぐらいの幼児はあちこちに気が散ってしまいがちで、すぐに絵本に飽きそうなものだと浩太は思っていた。彩希の演技があるからこそ優美も絵本の世界に集中するに違いなかった。


 時間にして、十分にも満たなかったはずだ。それでも聞きごたえのある朗読劇を鑑賞したかのような気持ちになった。


「終わり」


 と、彩希が絵本を閉じた。


「ほー」


 優美がため息を吐く。集中力を発揮したので少し疲れたようだ。


「さすがだな」


 浩太は彩希をねぎらう。


「もうちょっと練習が必要かな」


 彩希は苦笑を浮かべる。優美を夢中させたことには満足だが、本人が認める出来ではないようだ。


「充分だろ。俺だって見入ったんだからな」


 浩太も心地よい疲れを感じていた。


「ぱちぱちー」


 と、優美は拍手をする。


「よしてよ、もう」


 彩希が照れ笑いを浮かべる。


 それから彩希は、優美に絵本を本棚にしまうように言った。隣の部屋に本棚があり、一番下の段に古本市で買った絵本を並べてある。浩太も優美に付き添い一緒に隣の部屋に入って行く。


 優美はちゃんと片付ける場所をわかっていた。すぐに本棚に近づくと、隙間に絵本を差し込む。そしてくるっと身体を回転させて浩太の横をとことこ走って通り抜けた。


 彩希の読み聞かせから現実に引き戻されつつあった。たとえ負けたとしても、これから訪れる困難に立ち向かう父親の姿を優美に見せなければならないと、気持ちが固くなっている。


 ――彩希の兄貴が……。


 優美を受けて入れてくれるだろうか、と思った。最悪、浩太自身のことは認められなくてもいい。未来から来た姪をきちんと愛してほしいと願った。


「あ、そろそろかな」


 リビングに戻ると、彩希がスマホを出して画面を眺めていた。


「うんしょ、うんしょ」


 優美はソファに駆け寄ってよじ登ろうとした。彩希はスマホをテーブルに置き、目を細めて娘のがんばる姿を見つめている。テーブルには麒一を説得するため、未来の浩太が(したた)めた手紙とアルバムが用意されてあった。


 壁の時計に目を遣ると、十一時半近くを指していた。十時羽田着の飛行機で新千歳空港から来るらしく、すでに電車に乗り継いでいるはずである。


 優美はソファに上ると、いったん立ち上がってお腹から背もたれに寄りかかって両手を上に伸ばす。わざとずり落ちるように背もたれを滑ると、くるっと回り、彩希に身体を寄せた。


 彩希と優美が戯れているのを眺めていたとき、リビングのドア越しにドアに開く音がかすかに聞こえてきた。


「浩太、優美をお願い」


 と、彩希は優美を抱きかかえて浩太の膝の上に乗せると、すぐにリビングを出て行った


 とうとうこのときが来たか、と浩太は身構える思いだった。両手を伸ばして身体を寄せる優美に腕を回し、すっくと立ちあがってテーブルの前の床に両膝をついて優美を脚の上に乗せた。高校で剣道をしていたとき以来の正座である。


「どうしたのー?」


 父親の緊張が娘にも伝わったらしい。


「優美」


 と、浩太はかたい声で言うと、さらに言葉を続ける。


「お父さん、がんばる」


 自分でも何を言っているのだろうと思った。当然優美も顔を傾けて不思議そうな顔になる。


 ドア越しに彩希と麒一の声が聞こえてくる。キャリーケースの車輪を拭くよう彩希が言ったらしく、麒一が面倒そうに応える。


 ようやく家に入る準備ができたらしく、リビングに近づく二人の足音が聞こえてくる。


「なにがあっても怒らないでよ」


 と、ドア越しに彩希の声が聞こえてきた。


「なんだよ、いきなり」


 麒一らしき男の声もする。わりに中性的な声音だった。彩希の美貌を考えると、兄の方も美形なのかもしれない。


 ドアのすりガラス越しに人の影が見えた。彩希よりも高いので間違いなく兄である。


「ただいまー」


 と、気怠そうな声を出して、麒一が入ってきた。後ろには彩希の姿も見える。


 麒一は吊り上がり気味の眉の下にくっきりした二重の目、まっすぐ伸びた鼻筋と薄く整った唇という顔つきで、彩希よりも頭一つ分背が高く、シャツからのぞく腕は細身ながらも筋肉質で、体形の維持に努めている観が窺えた。男の浩太から見てもイケメンだと認めるぐらい容姿に優れていた。


 その麒一が浩太と優美の姿を認めるや否や、怪訝な色を浮かべる。


「えっと、誰?」


 麒一が彩希を振り向いて訊いた。


「あ、えと、彩希さんの、その」


 代わりに浩太が答えようとしたが、口が上手く動かない。覚悟を決めて麒一と向き合うと決めたはずなのに、いざとなったら動揺してしまう自分が情けなく感じた。


「なんで正座しているの? 浩太」


 彩希が疑いの眼差しを送ってくる。


「いや、ちゃんと挨拶しようと思ったら、つい」


 浩太は気まずくなって目をそらした。膝の上にいる優美は何度も首を回して浩太と麒一を見比べている。


「お兄ちゃん、青江浩太くんよ、わたしの同級生で――」


「ほう」


 話を訊く前に、麒一は顎を上げて浩太を見下ろした。歓迎していない様子がありありと浮かんだ。


 ――旦那って言う前なのに……。


 麒一が彩希を溺愛していたという話は本当だと確信した。男の同級生というだけで蔑むような目つきになるのだ。とても彩希の旦那だとは言えない。


「あ、青江浩太です。彩希さんにはいろいろとお世話になっています」


 浩太はやや頭を下げてたどたどしい口調で自己紹介をした。


「お世話、だと?」


 なにを勘違いしたのか、麒一の目つきが一層険しくなった。言い訳の余地すら与えてくれそうにない。


「お兄ちゃん、なに怒っているのよ」


 彩希が横から宥める。


「彩希、お前にはいつも言っていたよな。友達は選べって」


「大きなお世話よ。だいたいお兄ちゃんに浩太のなにがわかるの? 今初めて会ったばかりじゃない」


「彩希にちょっかい出す奴は大抵ロクな奴じゃない。男に言い寄られたのも一度や二度じゃないだろ」


 まるで頑固おやじの言い分である。容姿は今風でも頭の中身は古風なのかもしれない。


「そんなの昔の話でしょ。今はそんなこと、一切ないわ」


「どうだかな。お前、高校の時に学校から呼び出し食らったよな。変な奴とつき合っていたんじゃないのか?」


「あのときは、先生に抗議しに行っただけだって。兄が妹を疑うなんてどうかしてるわ」


 兄の威圧感をものともせずに、彩希は食い下がる。まとまりのない兄妹の言い争いに決着がつきそうもなかった。


「優美」


 浩太は麒一に聞こえないよう小声で言った。


 その声に反応して、優美は顔を見上げた。彩希と麒一の口調がきつくなってきたせいか目を潤ませている。


「ちょっと時間がかかるみたいだから、あっちで一緒に遊ぼうな」


 一層声を潜めて言う浩太。


 こくりと優美がうなずくと、浩太は優美を下ろして手をつなぎ、リビングを出ようとした。


「きーちさん」


 いきなり優美が親しげに声をかけた。


 浩太は足を止めて優美を見下ろした。


 ――怖がっていたんじゃないのか?


 麒一の剣呑な声音は、浩太でさえ尻込みして口籠ってしまうほどの圧があった。だから優美の瞳が濡れたような光沢を帯びたと感じたのだ。


 ところが、そんな浩太の考えとは違い、優美は麒一に懐こうとしていた。


 すっかり父親になったつもりだったが、まだ優美の気持ちを理解しきっていないと思い、ちょっとばかり自己嫌悪に陥りそうだった。


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