五日目:リビングで勉強します
玄一郎と莉緒を送ったあと、まっすぐ平沼家に帰った。
まず浴槽にお湯を溜めてから彩希と優美が風呂に入る。二人があがり、リビングに入ってきたのと入れ替わりに浩太が脱衣所に入る。そこには洗濯機があり、彩希と優美の来た服が洗濯ネットに入っていた。浩太も自分の服を脱ぎ、空いてあるネットに入れる。洗濯物を放り込んで洗剤を入れてから洗濯機を回した。きちんと動いたのを確認すると、浩太は風呂に入った。
平沼家の風呂は広々としていた。優美が座る椅子があり、シャンプーやコンディショナー、ボディーソープが鏡の隣に備え付けてある棚にびっしりと置かれている。どれも自然由来のものでかなりの値が張りそうだ。鏡は業者が磨いたと思うぐらいきれいに浩太の姿を映し出していた。
浩太はアパートから持って来た洗面道具とタオルを使って身体中を洗った。
真夏なので、浴槽に浸かるまでもないと思っていたものの、せっかく溜めたお湯が無駄になると思い直した。
――ん?
よくよく考えてみると、彩希が入ったあとの残り湯だと気づいた。変態的な思考が頭の中を巡ってしまい、浩太は顔が熱くなる。
本人の意図しないところで妄想が駆け巡り、彩希の身体を思い浮かべる。彩希は身長は平均的だが、スレンダーな身体つきのわりには適度な胸のふくらみがある。さらに運動をやっていたのか、腕や脚が程よく引き締まっていて、一層の艶やかさを感じさせた。シャワーのお湯を弾くほどの肌つや、括れた腰つき、浴槽で気持ちよさそうにゆったりくつろいでいる表情、浩太の脳みそに彩希の露わな姿が駆け巡る。
「うおぉー!」
浩太は浴槽から立ち上がり、俺は変態じゃない、と言わんばかりに浩太は叫び声をあげて妄想を打ち切った。
「どうしたの、浩太?」
ドアの外から彩希の声が聞こえてきた。
「な、何でもない。ちょっと足を滑らせて。あは、あはは」
嘘を吐くしかなく、笑ってごまかすしかなかった。
「もう、気をつけてね。優美が心配するでしょ」
「おとーさーん、だいじょうぶー?」
「大丈夫、大丈夫。お父さんピンピンしているから、ははは」
妄想にとりつかれて娘に心配かけるのは情けないと思いながら、乾いた笑い声をあげた。
◇ ◇ ◇
風呂から上がり、夕食を食べたあと優美の好きなアニメをみんなで観た。これは浩太たちが生まれる前から放映されている長寿アニメである。未来でも長寿アニメは続いているらしく、優美がそれを観たいとせがんだのだ。
長寿アニメを何本か観終えると、優美が眠たそうにソファに横になった。彩希が歯を磨かせたあと、浩太も一緒になって優美を寝かしつけた。
優美がちゃんと寝たのを見届けると、浩太は部屋に戻ってレポートにとりかかろうとした。
「浩太、今から暇?」
廊下で彩希に声をかけられた。
「いや、夏休みのレポートでも書くよ。早めに終わらせておきたいし」
「なら、リビングで一緒に勉強しない?」
「いいけど、パソコン使うからうるさいぞ」
「気にしないわ。ちょっとぐらい雑音がある方が集中できるから。昔からリビングで台本覚えていたの」
「そんなもんか」
意外に思った。役になりきって科白を覚えるのだから、静かな環境の方が集中できると思い込んでいた。人によって覚え方も色々あるのかもしれない。
部屋に戻ってノートパソコンとしおりを挟んだ参考文献を持ってリビングに戻った。すでに彩希は椅子に座っており、食卓テーブルの上に英和辞書や問題集が広げてあった。
浩太は邪魔にしないようにそっと対面の椅子に腰を下ろし、ノートパソコンを立ち上げた。文書ソフトを起動し経営史のレポートに着手する。二千字程度のレポートであるが、きちんと教科書や参考文献を引用し、それらに沿って自分の考えを書けば単位を取得できる目途が立つので、大して難しくなかった。すでに千六百字以上書いており、あとは結論を書き、推敲するだけである。
キーボードの音と、辞書のめくる音が聞こえる。平沼家は広い道路から遠く、車やバイクの音すら聞こえてこない。時おり、外を歩いてる人たちの話し声がかすかに聞こえるだけで静かだった。
浩太はしおりの挟んだ参考文献を広げてミスがないかを確認する。図書館で借りてきた書籍なので付箋を貼るわけにはいかず、しおりを挟んで紙を痛めないようにしていた。間違いがないとわかると、またノートパソコンに目を移してキーボードを叩き始める。
一通りレポートを書き上げたあと、誤字脱字や誤認がないかをチェックする。何か所か違う漢字を使っているのが目に入り、変換し直した。
きちんと完成したのを確かめ、あとはプリントするだけになった。
浩太はちらと彩希に目を遣った。彼女は問題集に取り組んでいた。ときどき辞書を開いて単語を調べては意味を問題集に書き込んでいる。どうやら教科書と兼用らしい。
――マジだな。
と、感じた。彩希は脇目も振らずに勉強に取り組んでいた。顔つきは平然としながらも、目に光を湛えて英文の世界に没入している観があった。プリンターを借りられないか声をかけようにも、声をかけられない雰囲気を彩希は発していた。
台本を覚えるときも、こんな感じだったのかな、と浩太は思う。役に入り込み自分なりにキャラクター造形を思い浮かべ、演技のプランを立てながら科白を身体になじませるのだろう。
――邪魔できないな。
浩太も自分のことをやると決め、今度はマーケティング論のレポートにとりかかった。こちらもあまり難しくはない。
「ふう」
不意に、彩希がため息を吐き、背もたれに大きく背中をもたせた。
その仕草を上目遣いで捉えた。彩希は天井を見上げ無防備な首元を晒していた。シャツの襟もとからのぞく鎖骨の肌が照明の光を弾いているように見えた。浩太にしどけない姿を見られているとわかっているはずだが、彩希は全く気にする様子がない。
「おつかれさん」
浩太は思いついた言葉を口にした。
「お互いさまでしょ」
彩希は首を起こして浩太に目を向ける。
「目処は立っているのか?」
「どうかなぁ。準一級にもなると難しく感じるかな。浩太はどうなの?」
「こっちは簡単だよ。書いて提出すればいいだけのものだし」
「そっか。あ、そうだ。Wi-Fi使う? レポートに使うでしょ」
「いいのか?」
「気にしないで。えーっとパスワードはっと」
と、彩希は椅子を引いて立ち上がった。テレビの下の棚を探ると一枚の紙きれを手に取ってテーブルに戻ると、浩太に渡した。SSIDと暗号化キーが書かれてある。浩太はパソコンを操作しそれらを打ちこむと、ついでにスマホにもつなげた。
それから彩希は冷蔵庫に行き、扉を開けた。
「そういえばさ、ちょっと気になることがあるんだけど」
「どうした?」
「LINEに書いてあった面倒な人って、誰?」
――ここで訊いてくるか。
と浩太は思った。あまり関わりたくないが、優美のことを考えると一応知らせた方がいいかもしれない。
彩希は二つのコップに麦茶を注ぎ、持って来た。
「ありがとう」
と、礼を言う。
彩希は椅子に座ると、じっと浩太を見据える。答えを促しているのだ。
やむなく、浩太は嶋井霧子のことを話した。中学の同級生であること、ヤンキーだったこと、断りもなく優美を撮影しようとしたこと。途中迷いが出て、言葉に詰まりながらも、包み隠さず話すと思い直し、霧子について知る限りのことを話した。
「不良、かぁ」
と、彩希は両肘をテーブルにつけた。
「自分さえよければいいって連中だよ」
「浩太ってさ、不良にいじめられたりしたの?」
「なんで?」
「なんか、あんまりいい印象もってないみたい」
「いや、関係を持ちたくなかったから、基本的には無視。連中、部活でもでかいツラしていたらしいし。だから俺は帰宅部だったんだよ。で、勉強を頑張って地元の進学校に行ったんだ」
「あれ? 剣道は?」
「じいちゃんの道場に通ってたんだよ」
「へえ、浩太のおじいさん剣道師範なのね」
「まあな。元々警察官だったんだけど、定年と同時に道場を継いでさ。なんでも世話になった先輩が死んで、道場が無くなるのが忍びなかったって」
「そっか、警察って剣道強かったよね」
「よく知ってるな」
「ドラマの知識よ」
と、彩希は笑みを交えて言う。
「ああ、そっか。刑事ドラマとかで稽古するシーンとかあるしな」
「そうそう。じゃあ、浩太の真面目なところっておじいちゃん譲りなんだ」
「どうだろうな。じいちゃん、ざっくばらんな人だし。真面目とか厳しいとかじゃないと思うけど」
「そっか。で、嶋井って人はまだヤンキーみたいなんだ」
彩希は話を元に戻すと、真面目な顔つきになった。
「自己中のテンプレートみたいな奴だよ。もし彩希が俺の知り合いだってわかったら付きまとうだろうな。だから、会わせるわけにはいかないだろ」
話が長くなりそうだった。浩太はウィンドウを閉じて、改めて彩希に顔を向けた。
「そうね。でも、優美が帰ったら記憶はなくなるんだし、あまり気にしてもしょうがないんじゃない? たぶん嶋井って人のことも忘れているわ」
「おまえねぇ、ほんとにその話信じているのか?」
浩太は脱力感を味わった。根拠のないオカルト話を信じる人間はこういうタイプなのかと邪推したくなる。
「優美がいるのが証拠でしょ。もう、何度も言わせないで」
彩希の口調がきつい。ちょっとばかり機嫌を損ねたようだ。これ以上未来だとか記憶の話をしても決着がつきそうにないので、あまりその話をつつかないことにした。
「で、問題は嶋井だよ。なんかやらかしそう気がするんだよなぁ」
「気にし過ぎは身体に毒だって。いくらヤンキーでも二十歳なんだし他人の迷惑ぐらいは考えるでしょ」
彩希は楽観的に考えているようだ。
「なあ、彩希、おまえ不良に知り合いはいるか?」
「え? いないけど。なんか仲間のために戦うってイメージかな」
彩希は右手を顎に添えて宙に目を遣り、考える素振りを見せる。
「そりゃあ、漫画とかドラマの話だろ。現実の不良ってのは法律や社会通念、なにより人の迷惑ってことを考えずに自分たちの都合の良いルールを優先する輩で、自分が不良だって自覚すらないんだ。嶋井が中学のときと変わっていないなら、彩希と優美を勝手に撮影していいね稼ぎのためにSNSに投稿したり、あの瀬能紗雪に子どもがいるって週刊誌に売り込むかもしれないんだぞ」
一気に話すと喉が渇き、麦茶を一口飲んだ。テーブルにコップを置くと乾いた音を立てた。
「週刊誌の方は大丈夫だと思うけど、SNSの方はやっかいね。でも、こっちの住所とか教えたわけじゃないでしょ」
「その点は大丈夫だ。何も教えて――あっ」
まずいことを思いだした。たしか霧子と話している中……。
「どうしたの?」
「高明大学に通っているって言ってしまった」
「それぐらいならいいでしょ。夏休みだし、浩太だってこの家にしばらくいるんだから大したことないじゃない」
「サークルはどうなるんだ? 大学に集合することだってあるだろ」
「それなら事情を話して別の場所にしてもらえばいいでしょ。優美がいるから、わかってくれるよ」
「だといいんだけどなぁ」
一気に不安が募ってきた。浩太は腕を組んで首を傾ける。
「あまり気にする必要ないんじゃないかな。わたしの顔を見られたわけじゃないし、浩太が旦那さんで優美が娘だなんて結びつけるのは無理だって」
「旦那さん、か」
浩太は独り言のように言った。彩希は何気ない口調で旦那さんと言ったが、浩太にはその言葉が重しのようにのしかかり、彩希と優美を守る義務があるのではと感じている。
優美がお父さんと慕ってくれて、彩希が浩太を旦那だと認めてくれている現実がある。彩希や優美の想いをきちんと受け止めなくては、と真剣に考えた。
いつしか、浩太の胸の内に家族の一員として何かをしてやりたい思いが芽生えたらしかった。
「とにかく、嶋井と彩希は会わせないし、優美ともかかわらせない」
半ば強引に言い切ると、浩太はまたウィンドウを開き、レポートにとりかかった。
「うん。頼りにしているよ、お父さん」
彩希がしっとりした声音で言った気がした。
ノートバソコンから目を離すと、彩希の微笑みが目に映った。
「あ、ああ」
浩太は熱くなった顔を冷まそうとして、気もそぞろにレポートにとりかかった。




