一日目:未来から娘が来たようです
「説明はあるんだろうな?」
平沼家のリビングに通され、ソファに腰かけてから彩希に訊いた。彼女は女の子を抱きながら右隣のソファに座っている。その傍らにはピンク色の小さなリュックが置かれてあった。
「どう言ったらいいのかなぁ」
彩希は女の子をぎゅっと抱きしめながら苦笑いを浮かべる。腕の中にいる女の子は不思議そうな顔つきで浩太を眺めていた。
「ソファに寝転がっていたら、背中にどしって感じてね。振り向いたらこの子が乗っかっていたの。で、いろいろと訊いてみたら、わたしがお母さんで浩太がお父さんだって」
彩希は言葉を整理しながら言っているようだ。呼び出した本人でさえ事態を把握していないらしかった。
「で、君の名前はなんて言うの?」
色々とツッコミたいことはあるが、とりあえず女の子に訊いてみた。
「ほら、お父さんに名前教えてあげて」
彩希が女の子に顔を近づけて言った。
女の子は視線を下げて困り顔を浮かべる。何をどう言っていいかわからないようだ。
「ゆみだよー」
女の子はかなしそうな声で言った。なんでわからないの、と言いたげだった。
すると、女の子はもぞもぞ動き出した。身体を捻ってリュックに手を伸ばそうとしている。
「どれどれ」
彩希がリュックをそばに寄せると、女の子はファスナーを空けて中に手を入れた。
「あったー」
女の子の手には小さなアルバムがあった。彩希の腕の中からするっと器用に抜け出すとちょこちょこ足を動かして浩太に近づいてくる。
女の子は見上げながらアルバムを差し出した。
「写真か」
アルバムを受け取ると、すぐにページを開いた。
「マジか……」
一ページ目から信じられない写真が目に飛び込んだ。
病室で赤ん坊を抱いている彩希の姿、そしてその傍らにぎこちない笑みを浮かべている浩太の姿もあった。
下段の写真に目を移すと、ベッドで横になっている赤ん坊の写真がある。その下には「生まれたての優美」と書いてある。
「なあ、優美」
と、浩太は顔を女の子に向け、試しに呼んでみた。
「えへへへ」
女の子は嬉しそうに笑う。どうやら写真の優美と目の前にいる女の子は同一人物のようだ。
「おかーさーん、だっこー」
優美は彩希のところへ戻る。
「どれどれ、よいしょっと」
彩希は優美を抱き上げてまた膝の上に乗せた。
「平沼、この写真、フェイクか?」
「違うよ。この子が持って来たの」
「どうだかなぁ。平沼って芸能人だったろ。で、復帰第一弾の企画で、同級生をドッキリにはめるとか」
「一般の人相手にそんなのできるわけないでしょ。それにこの子、まだ三歳だよ。知らない人をお父さんって呼べる演技力なんてないよ」
「うーん、でもなぁ」
浩太は信じる気になれない。常識的に考えれば、彩希の言う通り、三歳の女の子が知らない人に対していきなりお父さんと呼ぶわけがない。さらに優美は浩太の姿を見てすごく喜んだのだ。見知らない相手にはしゃぐ真似はできないだろう。
だが、浩太は彩希と浅いつき合いしかなく、子どもができるきっかけがなかった。しかも優美は三歳。年齢を考えると、浩太が高校生の時に優美が生まれていないと計算が合わないのだ。そのときの浩太は地元にいて、メディアの中での彩希――瀬能紗雪の姿しか知らない。
「あ、そうそう。優美、もう一つお父さんに見せるものがあるでしょ」
彩希が優美に顔を近づけて言った。
優美は見上げて彩希を見つめる。何か訊きたげな表情だった。
「ほら、お手紙」
と、彩希は助け舟を出す。
「そうだったー」
優美はまたリュックの中をあさり出した。
「手紙?」
と、浩太が訊く。
「うん、未来の浩太からの手紙」
「ウソだろ?」
もはやどう感想を漏らしていいかわからなくなった。
「はい」
優美が浩太の近くに寄り、封筒を差し出した。
浩太は怪訝な気持ちで封筒を受け取り、中から手紙を取り出して読んだ。
≪ 前略 突然のことで驚いていると思います。青江浩太は将来、税理士試験に無事合格し、都内の税理士事務所で勤めています。後に平沼彩希と結婚し、そして優美という娘を授かり、幸せな家族を築きます。
ですが先日、僕は体調を崩して入院することになってしまい、彩希も二人目の出産準備があって優美のお世話ができません。
そういった事情もあって、しばらくの間大学時代の自分と彩希に優美を預かってもらうことにしました。
タイムパラドックスのことは心配いりません。優美がこちらに帰ったら記憶が書き換えられるようになっています。
もし、この手紙の内容を疑うようでしたら、DNA鑑定にかけてもかまいません。青江優美は、青江浩太と平沼彩希の娘だとわかるでしょうから。
それでは、優美のこと、よろしくお願いします。
三十歳の青江浩太より≫
「……俺の筆跡だ」
右上がりの字体にとめはねがいい加減。短い手紙の中に、浩太が書いた痕跡がありありと浮かんでいる。
「こうなったら、認めちゃおっか。ねー」
「ねー」
彩希と優美はお互いに笑みを浮かべて目を合わせる。
「平沼、なんでこの状況を受け入れているんだ?」
「状況って?」
「優美を認知していることだよ」
「だって、これだけ証拠あったらしょうがないでしょ」
彩希はあっさり言った。
「うんしょ、うんしょ」
優美がソファに上がろうとしている。
「ツッコミどころがあり過ぎだろ。だいたいどうやって優美をこの時代に送り込んだんだ?」
「細かいことは良いでしょ。とにかく優美がここにいるのは事実なんだし」
――どこが細かいんだ。
と言いたくなった。しかし、喉が動かなかった。
彩希の目の輝きに惑わされて思考と声帯が連結できなくなってしまったらしい。
彩希は優美をまた抱きかかえて脚の上に座らせると、腕を回した。優美が顔を見上げると、彩希の顔に微笑みが浮かぶ。お互い、一緒にいる幸せを感じているようだ。
「それに、ほら、その、平沼が俺と結婚しているってことでもあるんだぞ。それでいいのか?」
「浩太はいやなの?」
彩希は窺うような視線を送ってきた。
浩太は一瞬胸が高鳴った。彩希の顔が直情的な色気を帯びているように見えた。媚びを売るでもなく、お願いをするわけでもない、自分と一緒にいるのは当たり前のことだと訴えているような気がした。
「いや、じゃない」
彩希の強い視線に耐えられず、口籠って答える浩太。
「なら良いでしょ。それと浩太、平沼ってやめてね」
「え?」
「だって、わたしたちこの子の親なんだからね。これからは、わたしのこと、彩希かお母さんって呼んで」
「お母さんって……」
いくら何でも飛躍し過ぎている。つき合ってすらないのにお母さんって……。
「……で、平沼の家族――」
「むっ」
と彩希が眉根を寄せて見つめてくる。
腕の中の優美もいったん彩希を見上げてから表情を真似て顔を向けてくる。怒っているわけでもなく、お母さんがおどけているように見えて真似したくなったらしい。
「……彩希、の家族にはどう説明するんだ?」
浩太はこめかみを押さえながら訊いた。下の名前で呼ぶとどうしても舌がうまく動かない。
「黙っておけばいいんじゃない? うちの両親、海外出張中でしばらく戻ってこないし、お兄ちゃんは北海道の大学院に通ってて、帰省しないって言ってるから。おじいちゃんだって今は老人ホームに住んでいて、たまにしか帰ってこないから心配ないわ」
彩希は事も無げに言うと、優美をぎゅっと抱きしめる。
「きゃーっ」
と、優美は楽しそうな声を出す。
「なら、隠し通せるか」
一番の関門をスルーできるようだ。彩希の家族がこのことを知ったらと思うと、どうなるかわかったものではない。
「隠す必要なんてないでしょ。手紙には優美が帰ったら記憶が書き換えられるって書いてあるんだし、こそこそしなくても大丈夫よ」
「そんな上手くいくかぁ?」
「考えてもしょうがないよ。こうして優美がいるんだし、しばらく預かるしかないでしょ。とりあえず、これから何をするか――」
「おかーさぁーん」
突然、優美が甘えるような声で言った。
「どうしたの?」
「おふろー」
「風呂?」
浩太はスマホを取り出して時間を確認する。すでに十七時半を回っていた。
「あ、そろそろ溜まったかな。優美、お母さんと一緒に入ろっか」
「やったー」
優美はお風呂が好きらしい。子どもはあまり風呂を好まない傾向があると浩太は思い込んでいたが、一概には言えないようだ。
「じゃあ、俺は帰るよ」
浩太は腰を上げて、リビングから出ようとした。
「おとーさーん、いかないでー」
優美がどたどたと足音を立てて浩太に近づくと、脚に縋りつき、顔を見上げて眉を八の字にして見つめてきた。
心の底から浩太と別れたくないらしく、優美の目が潤んで見えた。今にも泣きそうな顔で見つめられると、申し訳ない気持ちが押し寄せてきてつい目をそらしてしまう。
すると、ソファに座っている彩希と目が合った。彼女は強い視線を浩太に送っている。
「浩太、行っちゃダメでしょ。優美が寝るまでうちにいて」
「え、あ、はあ」
浩太は気圧される思いがして、後退りそうになった。
「むー」
優美が浩太のズボンをぎゅっと掴みながら声をあげる。
もう一度見下ろすと、優美が物欲しそうな目をして浩太を見ている。
「わかったよ。お風呂から上がったら遊んであげる」
ついに根負けして浩太は優美の頭を撫でてあげた。
「わーい」
優美が喜んだ。
「よーし、お風呂に入るぞー」
「おー」
彩希と優美がリビングを出て行った。
「どうすっかなぁ」
いきなり非現実的な状況に身を置かれ、頭を抱えたくなった。