四日目:お父さんは暇になりました
浩太のアルバイト先は高明大学近くのコンビニである。去年、高明大学に入学し、履修登録をすませてからこのコンビニで働き始めた。以来、扶養から外れない範囲でシフトに入り、予備校の学費と生活費を稼いでいた。
アルバイト先にコンビニを選んだのは、色々な客が来て接客のマナーを学べると考えたからだった。将来税理士になったとき、顧客対応に活かせるもしれないと考え、コンビニでのアルバイトをすることに決めたのだ。
高明大学の近所にはいろんな会社はもちろん、警察署や小中高の学校、都電とJRの駅、寺院、工事中の現場があり、客層の幅が広かった。
アルバイトを始めた当初、浩太は工事現場で働く奴なんて粗暴な奴ばかりだと思っていたのだが、彼らは口は悪いものの気持ちの良い口調で接してくるので、印象を改めたことがある。こちらも快活な挨拶や返事をして彼らに応えた。
逆に、スーツを着て身だしなみを整えている人がコンビニの店員をバカにするかのような横柄な態度を示すこともある。アルバイトを始めたころは、頭に来て仕事が雑になってしまったこともあったが、今は上手く怒りをコントロールできるようになり、よほどの問題がない限り平身低頭に徹することができるようになった。
一概に職業や外見でその人の本質を決めつけてはいけないとアルバイトをしていくうちに学んだ。そして、人によってどういった態度で臨めばいいのかも自然と心得ていった。
朝のピークが過ぎ、店の雰囲気が落ち着く。
ただ、人通りの多い道に面しているので、まばらに客が入ってくる。ときどきレジを離れて品出しをしたり、多くの客によって乱された品物を整頓したりした。客がレジに近づくと早足で戻り、レジ打ちをする。ホットスナックや煙草の注文があると正直鬱陶しいと思うこともあるが、これも仕事なので顔に出さないように気をつけ、柔和な表情や仕草で対応するよう心掛けた。
ようやく、コンビニから客がいなくなり、浩太はため息を吐いて疲れを紛らわせた。
「青江くん、ちょっといいかな」
と、横から声がかかった。店長の西木である。彼の顔にはどこか沈痛な趣がある。
「あ、はい」
浩太は導かれるまま事務室に連れて行かれた。なにか重大なミスをしてしまったのかと、内心穏やかでない。
西木は椅子に座り、目を瞑ってため息を吐いた。そして机の引き出しから一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。
「これなんだが」
と西木は指先でトントンと紙を叩く。
浩太は身を屈めて紙に目を遣った。
「これって、うちと同じコンビニですよね?」
置かれた紙はチラシだった。通りを挟んだ向かい側に一月後、同じコンビニがオープンすると書かれてあった。しかも西木の店よりも規模が大きいようだ。
「しかも本部直営だ。青江くん、フランチャイズ潰しの噂は知っているか?」
「ドミナント戦略ですよね。経営学の講義で聞いたことがあります」
経営学は必修科目なので一年生の時に受講済みだった。その中でドミナント戦略について軽く触れていたのを思い出した。端的に言えば、客足の多そうな地域に大量に出店するやり方である。厳密に言えば、フランチャイズ潰しの意図はないとされるが、利益を食い合うので西木がそう思うのも仕方ない気がする。
「だから青江くん。ここを閉店することにしたんだ。利益も下がるだろうし、長く続けてもしょうがない。いっそのこと商売替えすることにした」
西木はいきなりそう告げた。
このコンビニは西木の家が代々継いできたマンションの一階にある。なので、西木は働かなくても家賃収入だけで暮らしていけるのだが、暇を持て余してコンビニ経営に乗り出した経緯がある、と聞いたことがあった。ただ、儲けが出ないと踏んだ以上、コンビニ経営にこだわる気はないようだった。
「閉店って、いつですか?」
「できれば今すぐにとりかかりたいんだ。突然で申し訳ないが、青江くんには今日限りで辞めてもらうことにした」
出し抜けの言葉に、浩太は一瞬物を考えられなくなった。
「ちょっと待ってください。なんで僕なんですか?」
当然ここは食い下がる。バイト代を当てにして予備校の学費や生活費を捻出していたのに、クビになると生計の目処が一気に霧散する。せめて閉店まで勤めたかった。
「青江くんなら、探せばバイト先がすぐに見つかるし、仕送りだってもらっているだろ。けど、あの子たちは違う」
と、西木は浩太の身体越しにレジに目を遣った。浩太もつられて後ろを振り向くと、留学生のアルバイトが接客をしていた。ちなみに浩太とは別の大学である。
留学生には仕送りの当てがない。学費は奨学金や減免制度を利用し、働きながら生活費を稼ぐ必要がある。バイト先を失うのは、食い詰めるのと同義だと、浩太は思った。
「できれば、生活の苦しい留学生に働かせてバイト代を渡したいんだよ。それに、閉店準備を進めながら彼らに次のアルバイト先を見つけてあげないといけない。青江くんはきちんと仕事をしているし、クビにするのは申し訳ないと思っている」
自分の都合で店を畳む以上、行く当てのない留学生の世話を最後まで見てやるつもりのようだった。
「わかりました」
西木の心中を慮ったわけではない。閉店するとなった以上、ここにいつまでしがみついても意味がないと悟ったからだ。このコンビニで一年以上働き、客商売の初歩を学ばせてくれた。それだけでも収穫があったと割り切った方が良さそうだ。
「ですが、バイト代は今日渡してください。でないと労基に訴え出ますよ」
「わかっている。そのつもりで話したんだ」
西木は顔をうつむけ、申し訳なさそうに言った。一応、解雇予告もなくクビにするのだから体裁だけは取り繕った観があった。
昼飯時のピークが過ぎると、浩太は今までのバイト代を受け取って退勤し、高明大学に向かった。夏休み期間中も大学は開いており、学生用の駐輪場に自転車を停めていたからである。
自転車に跨り平沼家へ漕ぎだした。
途中、浩太はバイトをクビになったのを、彩希や優美に話していいものか考えた。真っ先にクビを切られた父親の姿をさらすと、彩希に愛想をつかされ、優美が父親を敬遠するようになるのではないか。
――優美がいなかったら……。
こんなことを考えずに、あっさり他のアルバイトを見つけられるのにな、と思った。
情けない考え事をしていたとき、けたたましいクラクションの音が耳を打った。
「うわああぁぁ!」
一方通行の狭い路地で、自動車が真正面から襲ってきた。浩太は慌ててハンドルを切り、塀の壁すれすれまで急接近して自動車を避けた。
進路を戻すとき、大きくヨレた。横転しそうになりながらも、身体を振ってなんとか体勢を立て直した。
「あ―、死ぬとこだった」
心臓の鼓動が鳴りやまない。こんなことで命を落とすのは間抜けだと思い、クビになったことはいったん忘れようとした。
スーパーで鍋料理の材料を買ったあと、平沼家に帰った。玄関に入り、脱いだ靴を揃えてからリビングに向かう。
「ただいまー」
と、自然に言葉が出た。
「おとーさーん、みてー」
優美が食卓にあった回転いすのひじ掛けを握っていた。椅子には彩希が座っている。
「わーい」
優美は回転椅子の周りを回り始めた。座っている彩希は回されるままになっている。
「なにしてるんだ?」
子どもの考えることはわからないと思い、訊いてみた。
「ちょっとした実験よ」
彩希が回されながら言った。
「実験?」
「まあ見てて」
と彩希はさらに回される。
「こうして回るでしょ。で、次は――優美、止めて」
と彩希が言うと、優美は足を止める。すると彩希が立ち上がって優美を椅子に乗せた。
「こうやるの」
彩希は椅子を回し始める。
「わーい」
優美は楽しそうな声を出す。
十秒ほど回すと、また回転を停めた。次は彩希が椅子に座り脚の上に優美を乗せた。
「そして、二人で回る」
彩希は器用に床を蹴って椅子を回す。優美は相変わらず楽しそうにしている。
「で、どうなるんだ?」
浩太は呆れ交じりに訊いた。
「すると」
「すると?」
「目が回る」
彩希と優美は床に立つと同じ方向によろけだした。
「……当たり前だろ」
なにをしてるんだと言いたくなるほど幼稚な実験である。
「そんな冷めた声で言わないの」
彩希はさらによろける。ただし、テーブルやソファにぶつからないあたり芝居が入っている気がする。優美もわー、と声をあげながら彩希に合わせて同じようによろける。
「こうして子どもに新しい発見をさせてあげてるんだから」
「……彩希、偏差値が下がってないか?」
辛辣なツッコミをする浩太。
「なに言ってるの。子どもと遊んでいるだけじゃない」
彩希がよろけながら、浩太に近づく。
「わーい」
優美もよろけながら浩太に近寄ってきた。
「はい、お遊びおしまい。お昼はもう食べたのか?」
と、浩太は優美を抱っこしてやりながら訊いた。
「もう二時近くよ。とっくに食べたわ」
「あ、そうか」
「おとーさん、ごはんぬきー?」
優美が訊いてきた。
「食べる時間がなかったんだよ」
「どっかで食べてくるのかと思った」
「忘れてた。外でなんか買ってくる」
「食パンで良かったらあるよ。冷蔵庫にチーズとバターもあるし、好きに使っていいわ」
「じゃあ、それにするか。食費は今度まとめて払うよ」
「なんで?」
「なんでって、ただで貰うわけにはいかないだろ」
「もう、杓子定規なんだから。浩太だっていろいろやってくれてるんだし、食費ぐらいわたしの家で持つよ」
「うーん、それだとちょっと面目が立たないんじゃないか? それに……」
ここでバイトをクビになった経緯を話した。優美に聞かせたくないので、この子を床に降ろしてから、彩希に顔を寄せて囁くように言った。彩希は時おり相槌を打ちながら話を聞いてくれる。足元の優美がお父さんとお母さん、交互に顔を向ける。
「仕方ないじゃない。能力とは関係ないから落ち込むことないでしょ。補助金を不正受給して資格が無くなった税理士じゃないんだから」
彩希は自分の言った冗談を面白いと思ったのか、ふふっと笑みをこぼす。
「そりゃそうだけど……次のバイト、見つかるかなぁ」
浩太は腕を組んで首を傾げる。
「おとーさん、だいじょうぶー?」
子どもなりに父親の異変に気づいてくれたらしい。
浩太は見下ろして優美に目を向けた。
優美は眉を八の字にして心配そうな表情で浩太を見上げる。
「大丈夫よ。お父さん夏休み取れたっていうから、優美と一緒にいてあげられるよ」
と、彩希は膝を曲げて優美と高さを合わせる。
「ほんとー?」
優美は明るい顔になり浩太を見上げる。
「ちょい、彩希」
と、浩太も膝を折って彩希に顔を近づける。
「どうしたの?」
「夏休みってのは強引すぎるだろ」
本当は嘘だと言いたかったが、優美に両親が嘘をついているところを見られたくないので、嘘という単語を引っ込めた。
「次のアルバイトが見つかるまでよ。その間は夏休みってことにしてもいいじゃない。大学だって夏休みなんだし」
「そうだけどなぁ……」
どうも釈然としない。クビになった情けない姿を糊塗するために夏休みだと言い張ってプライドを保っているに過ぎないのではないかと、思えてくるのだ。
「細かいことはいいの。とにかくお父さんは夏休み。つべこべ言わずにしばらく家族みんなで過ごせばいいでしょ。お仕事はそれから」
「わかったよ。優美が帰るまでの間な」
結局、彩希の強引な解釈を飲んだ浩太。ふと、優美に顔を向ける。
「とりゃー」
優美が抱き着いてきた。浩太の視線を何らかの合図と思ったらしい。
「うおー」
浩太は優美を抱きかかえると、わざと尻をついて後ろに寝転がった。ゆりかごのように揺れてから、背中を床につけて足を伸ばした。
そして、優美は浩太の胸に顔を埋めたかと思うと、顔をあげて浩太を見つめると、笑顔になった。
――しばらくは、いいか。
幼い子どもの笑顔に和まされた。次のアルバイトはすぐに見つかるさ、と楽観的にもなる。自分が傍によりそうことで笑顔になってくれるなら、それも優美のためになるかもしれない。せめて、優美が未来に帰るまでは一緒にいてあげたいと思った。
浩太が優美の頭を撫でてやったとき、インターホンが鳴った。
「あ、きたきた」
「だれが?」
「明乃さんと莉緒さん。さっき来るって連絡があったの」
「いいのか? 昨日の今日だぞ。明乃さん、また優美を泣かせるんじゃないか」
と、同時に彩希が怒りを露わにして優美を怖がらせないか不安だった。
「そのときはそのときよ。ちょっといってくる」
彩希はリビングを出て玄関で二人を迎える。
「大丈夫かなぁ」
浩太は不安を口にした。
優美は浩太のシャツを引っ張ってきゃっきゃとはしゃいでいた。