四日目:何気ない朝を迎えました
慣れない環境のせいか、すっきり寝た気がしなかった。昨日優美にいろいろなトラブルが起き、寝る前には彩希から名前を呼ぶ練習をさせられて疲れが溜まっていたのかもしれない。
浩太は浅い眠りから覚めると、すぐに寝たりないと感じて二度寝をしようとした。暑気が籠った部屋で寝ていても眠気には勝てないようだ。タオルケットで肩を巻くように抱き寄せ、股の間に挟んだ。
寝落ちしそうなとき、ドアの外からどたどたと足音が聞こえてきた。
「おとーさーん、おきてー」
優美が起こしに来た。そういえば、平沼家の朝は早かった。せっかく娘が起こしに来てくれたのだからと、浩太は気怠い気持ちを抑えて上半身を起こした。優美はノブを回して部屋の中に入ってくる。
「あっ」
浩太は慌ててタオルケットにくるまり、もう一度横になった。というのも、何も着ていないからである。昨夜、暑さのあまり衣類を脱ぎ捨てて寝たのだ。
さすがに優美にこの姿を見せるわけにもいかない。優美がとことこ近づいてベッドの横に来ようとする。
「おとーさーん、ごはんできたよー」
たっぷり寝たせいか、優美は昨日の疲れを見せる様子もない。
「ゆ、優美。お父さん着替えていくからリビングに行ってなさい」
浩太は動揺して優美を部屋の外に出そうとした。
「なんでー?」
優美はなぜお父さんが焦っているのか理解できないらしく、首を傾けた。
浩太も理由が理由だけに叱るわけにもいかず、どうやって言い聞かせようか考えるだけで、妙案が思いつかなかった。
「うんしょ、うんしょ」
優美はベッドに上る。
「優美、お父さん起きられないから降りなさい」
と、浩太が注意するも優美は止めないで脚元の近くに立つ。
「やー」
と優美が飛び込んできた。
「こらこら優美」
「おとーさん、おきてー」
優美はタオルケットを剥ごうとする。
「わかった、わかったから降りなさい」
「きゃー」
抵抗するお父さんが面白いのか、優美は一向にやめようとしない。
「あら、お父さんどうしたのかな?」
彩希が入口から顔をのぞかせた。浩太がちゃんと起きているか確かめに来たのだろう。
「あ、彩希。優美を外に出してくれ。ちょっとまずいんだ」
「なんで?」
「わかるだろ。今、なにも着てないんだ」
「は?」
彩希の身体が固まった。そのまま数秒間誰も動かなかった。
「おとーさーん、はやくー」
両親の異変を察したのか、優美は困ったような声を出す。
すると、彩希の身体からこわばりが取れて、部屋に入ると、すぐに優美を抱っこしてそのまま部屋の外に出て行った。
抱っこされた優美はうれしそうにきゃーっと声を出した。
「はやくはやく」
二人が出るや否や、浩太はばっと起き上がって急いで着替えた。ベルトが締まりきらないまま部屋を出て、一階のリビングへ降りて行った。
テーブルには朝食が準備されてあった。今日は和食らしく、白飯に味のり、鮭の切り身、みそ汁と一通りそろっている。
「お父さん、早く顔洗ってきて」
何事もなかったかのように彩希はいう。
洗面所で顔を洗い、改めて食卓に着いた。
「いただきます」
と彩希の合図でみんなが挨拶をした。
「おさかなー」
と優美は魚をほぐし始める。
「骨は大丈夫か?」
「ちゃんと取ってあるから大丈夫」
「そうか」
浩太も魚をほぐし、一切れ口に入れる。既製品の冷凍ものだが、味は悪くなく、しっかり脂がのっていた。
「お父さん、今日はお仕事だよね」
彩希が訊く。
「ぜーりしのー?」
「ううん、今のお父さん、税理士じゃなくてまだ学生なんだ」
「むー?」
優美は今の浩太の立場が理解できていないようだ。
「お父さん、ご飯食べ終わったら出勤するから、優美はお母さんとお留守番。よろしく頼んだぞ」
「はーい」
優美は手を上げる。
「でも、浩太も大胆よね」
「なにが?」
「だって、裸で寝るんだもん」
「いや、俺だってどうかと思ったけど、寝苦しくてさ。まさか優美が起こしに来るなんて思わなかったし」
「エアコンつけても良かったのに。寝ているときに熱中症になったら大変でしょ」
「電気代かかるからな。泊めてもらっているのにエアコンつけっぱなしにするのはどうも申し訳なくてな」
「おとーさん、いつもぬいでるよー」
優美は食べ物を口に入れたまま喋る。
「優美、ちゃんと食べてから喋ろうね」
と、彩希がやんわり注意すると、優美は口をもぐもぐ動かして飲み込む。
「いつもって?」
「だって、おふろのあととか、いつもパンツだけでしょー」
「……未来の俺ってそんなことしてるのか……」
家族だけとはいえ、だらしないオヤジのような真似をしているとは少々情けない気がしてくる。
「でね、おかーさんがちゅういするのー」
「そりゃそうだよな」
「家族でも最低限の身だしなみはしないとね」
彩希は苦笑を交えて言う。
朝食を食べ終えると、洗面所に行った。髭が伸びていないか、寝ぐせがないかをチェックする。右横の髪がぺったり寝ている。整髪料を手に取って髪型を整え、手を洗ってから部屋に引き返そうとした。
すると、優美がリビングから出てきて、とことこついてきた。
「よしよし、優美、先にのぼって」
「おー」
優美は一段ずつ階段をのぼる。平沼家の階段は段差が低く造られて、途中には狭いながらも踊り場がある。
浩太は優美が転げ落ちないよう手を差し出しながら階段をのぼった。
「三歳ぐらいで階段上れるんだなぁ」
子どもの成長は意外と早いかもしれない、と浩太は思う。
それから二階の部屋に入り、財布とスマホを手に取って引き返した。
階段を下りるときは浩太が先頭になる。優美に先に行かせると、転んだときに止められないと思ったからだ。浩太は手すりに手を乗せながら優美を見守る。
そんな心配をよそに、優美は階段の下りもスムーズにやっている。背が足りないので一段ずつ降りるのだが、手すりや壁に手をつけないで危なげなく降りていた。最後の一段は飛んで床に着地した。
「元気だなぁ」
思わず親バカになり、目を細めたくなった。
優美はどたどたと足音を立ててリビングに入って行った。
浩太もリビングに入ると、彩希が洗い物を終えてソファに腰を下ろしたところだった。優美がソファによじ登って彩希の隣に座った。
「おつかれさん」
家事をしてくれた彩希をねぎらう浩太。
「ありがと」
彩希は顔をあげて応える。
「おかーさーん、みていーい?」
優美はテレビを見たいようだ。
「いいよー。何見るかな?」
「アニメ―」
「ん、よし」
彩希はリモコンを操作し、テレビの電源を入れた。
その間に、浩太は隣のソファに腰かけた。
「おとーさーん」
優美はソファから降りて浩太に近寄る。
「よし」
と、浩太は優美を抱きかかえて隣に座らせた。
「わー」
優美はごろんと寝転がってあおむけになった。
「優美、テレビ見るんじゃないのか?」
「みるよー、まだうつってないもん」
準備が整うまで浩太と遊びたいらしい。
と、いきなり優美が右足で押すように蹴ってきた。
子どものおふざけなので、浩太は怒る気がせず、むしろいたずらをする優美をほほえましく感じた。
「こらぁー」
と、浩太はおどけた声音を出して、優美の右足首を掴む。
「うきゃー」
優美はお父さんが遊んでくれたと思ったらしく、身体をよじってうつぶせになろうとする。だが、ソファの広さをわかってなかった優美は転げ落ちようとしていた。
「あっと」
浩太は手を離して優美を抱きかかえてようとした。
手が届く直前に優美は足から床に落ちてしまった。
「大丈夫か?」
と、心配になる浩太。
しかし優美はソファに手をかけて上半身を起こすと、平気な顔をする。
「にひひ」
と、なぜか照れ笑いをする優美。ソファから落ちたのを失敗したと思ったのだろうか?
「気をつけなきゃケガするよ、優美」
彩希が注意をする。
「ごめんなさーい」
優美なりに申し訳ないと思ったらしい。素直に謝った。
そして優美は立ち上がると、とことこと彩希の脚元に近寄った。
「落ち着かないなぁ」
あちこち動き回る優美が心配になる。
「子どもってこんな感じじゃない? あ、やっと映った。ほらほら優美、こっちにすわって」
「はーい」
優美はソファをよじ登り彩希の隣にちょこんと座った。
アニメのオープニングが始まると、優美は大人しく画面にくぎ付けになった。
「さて、そろそろ出かけるかな」
壁の時計は八時十五分過ぎ指していた。九時からアルバイトなので、今から出れば間に合いそうだった。
「何時までバイト?」
「一時まで」
「じゃあさ、帰りに晩御飯の材料買ってきて」
と、彩希から材料の書かれたメモと小銭入れを渡された。
「俺が作るんだから、選ばせてくれよ」
「よく考えたらさ、昨日焼きそばと餃子食べたでしょ。だから今日はヘルシーなものにした方がいいかなって。浩太、ヘルシーなもの作れる?」
「ヘルシーねぇ」
男の一人暮らしはどうしても好きなものを食べてしまいがちである。ましてや浩太は二十歳の大学生、食べ応えのある味の濃い物が好きだった。優美の健康を考えると、彩希の言う通り、ヘルシーなものにした方がいい気がした。
と、ここで浩太に妙案が浮かんだ。
「だったら鍋にしないか? 俺の地元に名物の鍋料理があるからさ。優美向けにアレンジして作ってやるよ」
「お鍋? 真夏だよ。暑すぎるでしょ」
「少しだけエアコン強められないか?」
「うーん、あまり冷えすぎると優美の身体が心配になるね」
彩希は優美の頭をなでる。
「おとーさんのおなべ、たべたいー」
いきなり優美が浩太に笑顔を向けた。
「優美。食べたことあるの?」
彩希が訊く。
「うん、おいしかったよー」
未来でも浩太は家族に鍋料理を振舞ったらしい。
「そうねぇ。なら今日はお鍋にしようかな。ご飯食べたらエアコンの温度上げるからね」
結局、彩希が譲歩した。
「わーい」
優美は両手を上げて喜んだ。晩御飯の楽しみができてうれしそうだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃーい」
母娘が揃って手を振って浩太を送った。
自転車の鍵を外すと、助走をつけてからサドルに尻を乗せた。
――俺も父親らしくなったのかなぁ。
鍋料理を提案したのは約束を守ると同時に、優美が喜びそうなものは何かと考えた結果だった。家族で鍋をつつけば自然と会話が増えて、楽しめそうな気がした。優美はもちろん、両親揃って楽しい食事をしないと子どもの教育に悪いと少しは考えたのだ。
浩太は都電沿いの道で自転車を漕いだ。少しの間都電と併走し、ちらと電車の中を見ると、出勤途中の社会人たちが電車に揺られていた。
――この人たちも……。
誰かのために働いているのかな、と以前の浩太にはない発想が浮かんだ。
俺も家族のために何かしてやらないとな、と父親の自覚が芽生える浩太であった。