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三日目:お母さん、近いですよ

 餃子パーティーを終えて、みんなで片づけをした。

 本来なら、武雄の短編小説を読む予定だったが、思いのほか餃子を食べ過ぎてみんながだるくなってしまった。ひとまず、各自で読んで、後日感想を送ることで話がついた。

 それから彩希が主演したドラマを観たあと、解散となった。


 そのとき、浩太もアパートに帰りそうになったが、優美の顔を見て、昨日から彩希の家に泊まっているんだったと思い直す。


 みんなを見送ったあと、二階の角部屋の和室に引き返した。昨日、彩希が案内してくれた部屋で、長い間使われていなかったらしいのだが、あらかじめ彩希が掃除してくれたらしく塵一つなかった。


 窓際にはベッドが置かれ、反対側の壁にはテレビがある。部屋の隅には古めかしい机がある。調度品全てが和室向けに作られている観があり、机や椅子、ベッドの脚には畳を保護するためのカバーがつけられていた。もともと彩希の祖父が使っていた部屋らしく、最小限の調度品を置いたまま老人ホームに移ったようだった。


 若干の居心地の悪さを覚えながらも、椅子に腰かけ、部屋の中を見回す。一人部屋にしては広かった。おまけに和室にもかかわらず、幅の広いクローゼットまである。部屋の主がいないせいなのか、空虚な感じがして変なざわめきを覚えた。

 

 ひとまず、今後の予定をざっと組み立て直してみる。予備校の授業は来週からなので、それまでにレポートを仕上げておきたかった。どのレポートも参考文献と教科書を元に作成すればいいだけなので、あまり時間をかけなくて済みそうだ。


 問題はアルバイトと予備校である。浩太は実家からの仕送りがあり、所得制限がかからない範囲でバイトをこなしている。本来なら、勉強やサークルの合間を縫ってバイトにいそしめばよかった。予備校も土曜日にまとめて講義を受け、空いた時間を勉強にあてれば合格の目処が立つと踏んでいた。


 しかし今は、優美がいる。夏休みという時間のある状況で優美を放っておくのはあまりいいことではない気がした。あれだけ懐いてくれる優美がお父さんと遊んでくれないと知ったら悲しませてしまう恐れがある。彩希も浩太と一緒に優美のお世話をするのが最善だと考えているに違いない。


 ――いや、まてよ。


 そもそも未来の浩太はすでに社会人である。優美ぐらいの歳になると、親は外で働くとわかっているはずだ。保育園は夏休みかもしれないが、大人はお盆以外に休みはない。日中に家を空けるのは当たり前の話である。なら、バイトをこなしたあと大学の図書館や予備校の自習室で勉強し、そのあとに優美と遊べばいいだけの話だ。体力的にしんどい気もするが、優美が未来に帰るまでの辛抱だ。


 それなら彩希と話し合って時間を作る必要がある。彩希も色々と予定を立てているはずで、自分のことだけを優先するのは申し訳ない気持ちがあった。


 浩太は部屋を出てリビングに足を運んだ。


 ソファには彩希が腰かけていて、その隣には優美が眠そうな顔をして背もたれに寄りかかっていた。


 壁にかかった時計を見ると、すでに八時を回っている。そろそろ優美がベッドに入る時間だった。


「あ、お父さん来たよ」


 と彩希は優美に声をかける。どうやらお父さんを一目見てから寝たかったらしい。


「おそいよー」


 優美はぐずりそうな声で言う。


「ごめんごめん。ちょっと片付けに手間取ってな」


 浩太はソファに腰を下ろして優美の頭をなでてやった。


「ほら、お父さんにおやすみって」


「うん」


 こくりと首を下げる優美。


「疲れちゃったんだな」


「今日は色々あったからね。さ、優美、お父さんにおやすみって言って寝ようね」


「おやすみー」


 と、優美は身体をもぞもぞ動かしてソファから降りた。


 浩太と彩希は隣の部屋に優美を連れて行き、ベッドに寝かせた。照明を消すとすぐに優美は目を閉じて寝た。完全に眠りの世界に入ったと見ると、二人は部屋を出てそっとドアを閉じた。


 彩希はソファに腰かけると、浩太も隣のソファに腰を下ろした。テレビはつけっぱなしで、ドラマが映っていた。優美に配慮したのか、音量が小さい。


「平沼、ちょっと相談なんだけど」


 と、浩太は切り出した。


「どうしたの?」


「今後のことなんだけど、バイトや予備校で忙しくなりそうだし、あまり優美に時間をかけていられる余裕がなくなるっていうか」


 頭の中ではきちんとした予定が組まれているのだが、口から出る言葉には歯切れの悪さが目立った。


「仕方ないじゃない。特に予備校は浩太にとって大事でしょ。行けばいいじゃない」


「でも、優美はどうするんだ? 俺がいないとさみしがるっていうか……」


「大丈夫でしょ。未来の浩太だって働きながら優美を育てているんだし、あの子もわかってくれるよ。それに、わたしがちゃんとお世話するから」


「平沼の予定はどうなんだ? 友達と遊ぶとかバイトするとかいろいろあるだろ」


「そうね」


 と、彩希はソファの背もたれに大きく背中を預けて、天井を見上げる。すると、気怠そうに首を動かして浩太を見つめる。


 その仕草に、一瞬胸を衝かれた。風呂上がりでTシャツ短パン姿の彩希をしどけなく感じた。芸能人とは思えないほどの無防備な姿をさらしている気がして、浩太はどう反応すればいいかわからず、床に目をそむけた。


「わたし、バイトしてないから大丈夫。今までさんざん働いたし貯えがあるから」


「友達は?」


「優美も一緒に連れて行くよ。どうせ記憶が無くなるんだし、心配しなくていいでしょ」


「ほんとに大丈夫か?」


 そもそも優美が未来に帰ったら記憶が無くなるという話は本当なのかわからない。なのに、彩希がここまで自信を持って言い切るのは不可解だった。


「それよりも、喫緊の課題があるわ」


「え?」


 浩太は横目で彩希を見遣る。すると、彩希はすっくと立ちあがると浩太の傍に来た。そしてそっと浩太の隣に腰を下ろすと、身をよじりながら肌が触れるほどの距離に近づき、じっと見つめてきた。


「ひ、平沼?」


「ふふん、まずはそこからね」


 いきなりだった。彩希の両手が伸び、浩太の頬をやさしく挟んだ。真夏なのにひんやりとした両の手のひらが心地よく感じ、浩太の胸がまた高鳴る。


 そして、彩希が上目遣いでじっとのぞき込んでくる。冴えた瞳が浩太の顔と目をくぎ付けにしたまま離してくれなかった。


 そのまま、時間だけが過ぎてゆく。


 何か言葉を口にしようにも、胸の鼓動が声帯を御するかのように動かない。三十秒にも満たない時間に違いないが、浩太には長い時を刻んでいる感覚を味わっている。ただテレビの音だけが浩太の耳に届くだけである。


「いいかげんに、平沼って呼ぶのやめようね」


 いつも注意していることを、彩希は微笑みながら言った。


 浩太は顔を背けようにも、彩希のきれいな小顔に見惚れてしまい、身体が固くなっている。


「あ、ああ」


 と浩太は首肯するも上手く動かない。彩希の瞳の輝きが増して一層凄艶になり、見る者を魅了してやまない色気が滲んでいた。


「じゃあ、練習ね」


「練習?」


 浩太が鸚鵡返しをすると、彩希はにこやかな顔つきになる。この表情が優美に似ていてさすが母娘だな、と思った。


「まずわたしの目を見て」


「見てるぞ」


「うん。じゃあ次に、彩希って呼んで」


「え、ええと、彩希」


 と、浩太は視線を下げてしまう。


「ダメダメ。ちゃんとわたしの目を見て。ほら」


 彩希はさらに顔を近づけてくる。


 ――練習になっているのか?


 と口にしようとしたが、思うだけになってしまった。彩希の瞳が有無を言わせぬ説得力を帯びている気がして逆らう気が起きない。浩太は鼻先が触れるほどの距離にいる彩希に緊張するだけだった。


 意を決して浩太は彩希を見つめ、口を開く。


「さ、さき」


 今度はまっすぐ見つめて言えた。


「ちょっとたどたどしいかな。もう一度」


「ええと、彩希」


 戸惑いがちに彩希を見つめながら言った。彩希の手のひらが熱くなっているのに気づく。いや、浩太の顔の温度が上がったせいで彩希の手が温かくなったのかもしれない。彩希の手のひらに汗が滲んでいるのに、彼女は浩太から手を離そうとしなかった。


「慣れるまで何回も言ってもらうわよ。ほら、もう一度」


「彩希」


「いい感じ。次は一言添えて彩希って言って」


「一言?」


「なんでもいいよ」


「じゃあ……彩希、明日なにする?」


「優美が疲れているから家でごろごろするのも悪くないかも。はい、次。ちゃんと名前を呼ぶのを忘れずに」


「えっと、明日の飯はひ、彩希が買いに行くのか?」


「なにしてるの。いま平沼って言おうとしたでしょ。自然と彩希って呼べるまで練習するよ」


「この状態が自然じゃないけどな」


「人の目をまっすぐ見られないと、いざというときに自然と出てこないの。ほら、もう一度、一言添えて」


 どうやら彩希独特のメソッドがあるらしく、浩太もそれに倣えと言っているようだ。それにしても、いざ、というのは大げさである。


「彩希、英検の勉強は進んでいるのか?」


「ちょっとずつね。来年には一級は取りたいかな。はい、次」


「えっと、彩希のお兄さん、なんで北海道の大学院に進学したんだ?」


「なんとなく実家を離れて暮らしたかったみたい。広い大地の北海道にあこがれもあったのかも。はい、次」


「ううんと、彩希のおじいさんって何やってた人なんだ? これだけの土地と家を持つったらかなりの資産家だろ」


「株と不動産で稼いだのよ。老人ホームに移っても働いているわ。たぶん、死ぬまで稼ぐ気じゃないかしら。おじいちゃん、働くのが生きがいみたいな人だから」


「彩希の親は、継がなかったのか? たしか、海外出張中って言ってたし、おじいさんの稼業とは関係なさそうだし」


「ふふん、その通りよ。お父さん、あんまり興味がなかったみたい。詳しいことはわからないけど、大手企業に勤めた方がいいっておじいちゃんから勧められたみたいなの。はい、次」


 彩希の口調には強引に切り上げた感があった。なぜ三世代で同じ家に住んでいたのかとか、もう少し訊きたいことがあったが、あまり家族のことを根掘り葉掘り訊くのも無神経だと思い、浩太は話題を変えることにした。


「そうだな……じゃあ、彩希は俺と結婚する気はあるのか」


 言ったあとで、はっとなった。いずれ彩希の本心を訊いてみる気でいたものの、まともじゃない環境に身を置かれ、追い詰められて絞り出したのがこれだった。


 すると、彩希はきょとんとした顔つきで浩太を見つめる。


「わるい?」


「え?」


「だから、わるいって訊いたの」


「俺は――」


 言葉に詰まり、目だけ動かして彩希から視線をそらした。


「ほら、また視線が下がってる。ちゃんと見つめて」


 思いのほか彩希の口調が強い気がした。


「はい、次。なにか言って」


「えっと、飯の支度大変だろ。彩希の代わりに俺が作ってやろうか」


「ありがとう。じゃあ明日の晩御飯でも作ってもらおうかな。はい、次」


 と、こんな調子で「彩希」と呼ぶ練習が続いた。時には他愛のないことを訊いて彩希に笑顔がこぼれることもあった。


 後になって浩太は、結婚の話をはぐらかされた、と気づいた。あのときの彩希には戸惑いが生じたせいで、逆に浩太に質問したのではないか。


 ――はっきりしないとなぁ。


 その想いには、彩希に対してだけではなく、自分自身にも彩希の夫、優美の父親と自覚しろと言い聞かせている気がした。

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