三日目:後輩を迎えに行きます
平沼家を出て都電の駅に家族で向かった。
太陽が傾き、日射しが和らぐ時間帯になりつつあった。刺すような暑さは感じないものの、代わりに湿気の混じった暑さが身体に届く。浩太はシャツをばたつかせた。彩希の額にもうっすら汗が滲んでいるが、平然を装っているのか堪えている様子はない。
昼寝を済ませた優美は、元気があり余っているらしく、まっすぐな道を走っていく。弾んだ声を出しながら走り、少し遠くまで行くと、足を止めて後ろを振り向く。
「おとーさーん、おかーさーん、はやくきてー」
ぴょんぴょん飛び跳ねて促す優美。
「子どもらしいなぁ」
と、月並みの感想を漏らす浩太。
「いいことじゃない、元気で」
彩希は足を速めて優美に追いつこうとする。
すると優美は、お母さんが来るとわかると、また走り出して差を広げ出した。
「わーい」
「よーし、お母さんと競争よ!」
驚かせないように足音を立てないようにしているものの、追いつくには十分なスピードである。
「車に気をつけろよ」
と、父親らしいことを口にした。彩希もその辺を心得ているようで、優美に追いつくと、肩をタッチして優美を止めた。
優美は疲れを思い出したかのように息を切らして、彩希に縋りつく。にひひ、と笑った。
「お母さんの勝ちかな」
追いつくと、明るい声音を作って声をかけた。
「はあーはあー」
「起きてすぐこれだから疲れちゃったかな」
彩希はしゃがんで優美の頭を撫でる。
「さあ、もう少しで駅に着くぞ。帰りはお父さんが肩車をしてやる」
浩太は優美を見下ろして口角を上げた。
「いこー」
優美は駅の場所がわかっているかのように浩太に手を伸ばして促す。
浩太はその手をつなぐと優美の歩く速度に合わせて駅に足を向けた。途中、優美がちゃんと歩けているか心配になり、ちらちらと視線を下げた。優美はまっすぐ前を見て歩いている。
線路に突き当たると、角を曲がり駅に向かった。出口のあたりで黒目がちで童顔の男が鉄柵に寄りかかりながらスマホを眺めている。彩希と同じぐらいの身長で男としてはかなり小柄である。
「あ、いたいた」
彩希の声が後ろから聞こえる。振り向こうとすると、彩希の手が横から伸びてきた。
「よう、武雄」
浩太は向き直って右手を上げて挨拶をした。
「あ、どうも」
神名武雄はスマホをポケットにしまい、浩太に向き直った。
「てーか、なんで都電に乗ったんだ? 歩いて来れるだろ」
高明大学の最寄り駅からここまでなら、歩ける距離のはずである。
「いやあ、ここら辺に来るの初めてなんで、とりあえず都電に乗れば迷子にならなくて済むじゃないですか。僕、彩希さんの家に行くの初めて――ん?」
武雄は頭に手を当てて苦笑いを浮かべてから、優美を見下ろした。やはり、浩太と彩希が小さな女の子を連れているのが気になったのだ。
「ちゃんと説明するよ」
浩太は優美がここにいる経緯を話した。その間、優美は顔を交互に向けて不思議そうに見上げている。
「なに言ってるんですか、こんなガキが浩太さんと彩希さんの子どもなわけないっしょ」
「ガキって言うな。もうちょい丁寧に言え」
「それに、彩希さんがなんで浩太さんと結婚してるんですか? 釣り合わないでしょ、どう考えても」
「はっきり言うなぁ」
浩太は後ろ頭をかく。
童顔の後輩神名武雄は見ようによってはイケメンなのだが、口が悪く生意気なところがある。とはいえ、悪気がないとわかっているので浩太も口うるさく注意する気はない。
「信じられないなら、ほら」
と、彩希が手紙とアルバムを武雄に渡した。
「また持って来たのか?」
「しょうがないでしょ。そうしないと信じてくれないんだから」
浩太と彩希はお互いに顔を見合わせる。
「うーん、どうなんですかねぇ。フェイクじゃないんですか」
武雄はアルバムを見ながら、わざとらしいしかめっ面を作った。
「まあ、そうなるわな」
と、浩太はあえて否定しない。信じろという方が無理だから時間をかけて納得してもらうしかなさそうだった。
「だれー?」
足元の優美が浩太を見上げる。
「お父さんとお母さんのお友だち。ほら、あいさつ」
浩太は優美を見下ろして頭を撫でる。
すると、優美は眉を八の字にして困り顔を浮かべると、とっとと足を動かして彩希の後ろに隠れてしまった。彩希の脚から覗き見るようにして武雄を見る。
「照れているのか?」
浩太は物怖じしている優美に顔を向ける。いかつい風貌の玄太郎にはすぐ懐いたのに、陽平や武雄のような怖さのない顔立ちの男に物怖じするのはなぜだろうかと思った。
「躾がなってませんね。ちゃんと挨拶もしないなんて」
はっきりものを言いながら、武雄は優美に近づくと、その場にしゃがんだ。
「ほら、ガキ、ちゃんと初対面の人には挨拶をしないとダメだぞ。わかったか、うりうり」
武雄は人差し指で優美の額をツンツンとつついた。少し強かったのかつつかれるたびに優美の頭が後ろにかたむく。
「う、う」
優美が涙目になってしまった。いじめられたと思ったようだ。
「武雄、悪いことは言わない。ちゃんと優美に謝った方がいいぞ」
浩太は呆れ交じりに忠告した。目線はしっかと優美と武雄に向けている。視界の外から黒い影がちらついた気がするものの、そちらに目を向けられなかった。
からかわれた優美は武雄を怖いと思ったのか、だんだん表情が崩れてきた。
「う、うあああぁぁぁん」
ついに泣き出してしまった。
「なに泣かしてるんだよ。ほら武雄、ちゃんと優美に謝れ」
浩太は強い口調で促した。
「なに言ってるんですか。そもそも浩太さんの躾がなっていないから、このガキがあいさつしない――」
「武雄……」
鈍く、冷たい声音が耳に届いた。
浩太は覚悟を決めて彩希に視線を移した。やはり、武雄のからかい方がよくなかった。彩希は蔑んだ目つきで武雄を見下ろしている。
その気配を察したのか、武雄はすっくと立ちあがった。彩希から視線が離せなくなるほどの固まりようだった。
「お父さん、優美と一緒に先に行ってて」
彩希がにわかに笑顔を浮かべたが、隠しようのない怒りが滲み出ていた。
浩太は自分の顔が強張るの感じ、変な笑い声が出そうになる。
「さ、さあ、優美。お母さん、武雄さんとお話があるから」
浩太は上ずった声で優美を促し、半ば強引に彩希から引き離すと、抱っこをしてやった。よしよし、と優しい声を出して、軽くゆすった。
お父さんの胸の中にいて安心したのか少し落ち着いたようだ。
「ぐすっ。おとーさーん」
優美は浩太のシャツを掴んで顔を寄せる。
よしよしと、浩太は優美を揺すりながらそそくさと足を動かして路地に入った。
すると、武雄の悲鳴が遠くから聞こえてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と早口で謝る声も聞こえてくる。
腕の中にいる優美は不思議そうな顔つきで見てくるが、浩太は何も言えずにただ脚を動かすだけだった。