回想:去年の話です
青江浩太が高明大学ミステリー研究会に入会して間もないころの話である。
当時三年生だった戌井明乃が、ミステリー系の時代小説に出てくる必殺剣が実際に通用するかどうかを検証してみようと提案した。
会長の保科正憲が浩太と同じ剣道経験者ということもあって、その提案を面白がって何人かの会員を誘い、大学近くの公園で検証することになった。
浩太もいい暇つぶしになるかなと思い、誘いに乗った。
たしかこのときは、玄一郎がアルバイトで欠席、陽平は入会前だったな、と思い出す。
検証ではどこからか用意してきた木刀を使った。
正憲が必殺剣を繰り出す役、浩太が受け手となる。
小説では二人の因縁が複雑に絡み合い、主人公が果し合いに応じたという状況である。敵は主人公を斬ろうと殺気を漲らせて立ち向かってくる。主人公の遣う必殺剣は相手が殺到してくるところ、不意に構えを解き、だらんと両腕をたらして気勢を殺ぐというものだった。真剣勝負の場でいきなり相手に無防備な姿をさらすと、虚を衝かれて勢いが鈍る。その隙に横薙ぎを浴びせるというものだった。
描写通りに浩太は会長に切りかかった。会長もタイミングを見計らって両腕を下げてから片手で薙ぐも、浩太の上段からの打ち下ろしの方が速かった。寸でのところで浩太は木刀を止める。
「小説通りにはいかない感じですか?」
検証を見守っていた明乃が言う。
「手の内がわかっていると、通用しないな。小説だと敵はどんな必殺剣を繰り出すかわかっていないから、虚を衝かれたんだろ」
正憲が雑感を述べる。
「そうですね。構えを解くとわかれば、気勢を殺がれるなんてありません。自分から勝負を捨てるようなものです」
浩太も正憲に同調する。
その後も役割を交代しながら検証を続けたが、正憲と浩太の意見が変わることはなかった。
浩太はときどき、見物していた会員たちをちらちらと見ていた。
男の会員たちが検証そっちのけで平沼彩希に話しかけていたからである。あの瀬能紗雪とお近づきになれるきっかけが作れると鼻息が荒かった。
浩太は奥手だということもあり、彩希とあまり話したことがなかった。どこかで住む世界が違うと感じ、芸能界に何のかかわりのない地方出身の学生が芸能人と仲良くなれると考えるほど浮ついておらず、ときどき彩希と一言二言会話を交わすのが精一杯だった。
検証が終わると、駅前の飲み屋街へ向かった。仕事を終えた社会人たちが晩飯や酒を求めて通りを行き交っていた。すでに出来上がっている人もいて、赤ら顔のパリピが千鳥足になると仲間たちからからかい混じりの笑い声が上がった。東京の繁華街はどこもこんなものかもな、と上京したての浩太は思ったものだ。
正憲の提案で、学生が好む安価な居酒屋チェーンで飲み会をすることになった。ミス研でよく使う店らしく、先輩たちが迷いない足取りで歩を進め、浩太はその後ろについて行く形となった。
「あれ? 瀬能紗雪じゃね?」
横から下卑た声音が聞こえた。
浩太は横目で声のした方を見ると、悪ぶった男三人組がにやけた面を浮かべながらこっちを見ていた。帽子、日焼け、鼻ピアスの三人である。全員身体が引き締まって肩が盛り上がっていた。何らかのスポーツをやっているようだ。
会員たちはその声が聞こえなかったのか、三人組を無視して足を進めた。
だが、三人組は前に立ちふさがって彩希に近づこうとした。男の会員たちが彩希を守るように間に入った。
「おい、せっかく声をかけたファンを無視するのか?」
「ネットに投稿しちゃうよぉ。瀬能紗雪は冷たいって」
「ついでに合コン三昧ってかぁ?」
ぎゃはは、と三人組は一斉に笑い声をあげた。
「行きましょう、みんな」
彩希の冷淡な声がした。相手にする価値もないといった素振りだった。
「無視すんなってっつってんだろうがよ!」
急に鼻ピアスが怒声をあげた。
男子学生たちは慄いたように後退りする。
「お、ビビっちまったかぁ。情けねえ取り巻きだな、おい」
帽子が嘲る。
「こんな奴ら相手にしないで、俺らと一緒に遊ぼうじゃねえか」
日焼けがずいっと彩希の前に出てきた。
「やめてください!」
彩希の声があたりに響いた。道行く人たちが一斉にこちらを振り向いたのが、浩太の横目に見えた。
「あなたたちのような反社まがいの人たちと仲良くする気はありません。それにわたしの友達もバカにする人たちなんて許せるもんですか」
一歩も怯まずに、抗議をする彩希。
「チョーシこいてんじゃねえぞ! こら!」
日焼けが会員たちを押しのけ、彩希の手首を掴んだ。
――やばっ!
浩太は気づくと袋の中から木刀を取り出していた。さっと日焼けに近づき、切っ先を鼻面に向けた。
「うっ」
日焼けがより目になり木刀を見つめている。
「やめましょう。これ以上しつこいようだと――」
「だったらなんだ?」
鼻ピアスが素早い手つきで木刀を握ろうとした。
だが、鼻ピアスの手が届く直前、浩太は上段に木刀を振り上げると、唸りを立てて顔面に打ち下ろし、寸でのところで止めた。
三人組には浩太の剣捌きが見えていなかった。その証拠に鼻ピアスは木刀を見つめたまま動けず、残りの二人は後退りをした。
「お、おい、いいのか? 警察に駆け込むぞ」
日焼けの声が震えていた。
「その前に、あなたたちが平沼さんの手首を掴んだこと、法律違反じゃないですか? たしか暴行罪になるはずですし、こちらも正当防衛が立証できますよ」
浩太ははったりをかました。刑法について詳しく知っているわけではない。なんとか三人組をこの場から離すためのでまかせである。
「調子に乗るなよ、こら!」
帽子が殺到してきた。大きく振りかぶった拳に満身の力を込めて放ってきた。
浩太はさっと左に躱すと、帽子の手首に木刀を振り下ろした。骨折しないように力を加減した。
「がっ」
帽子が体勢を崩し、前のめりになった。
「こ、このやろう」
「やめましょう。周りの人が見てますよ」
浩太はそう言って三人組を制した。
すると、三人組は周りの視線に気づいたのか、辺りを見回し始めた。自分たちが嘲笑されていると感じたのか、にわかにバツの悪い顔つきになる。
「けっ、行くぞ」
と鼻ピアスが後ろを振り向いて地面をけり上げた。残りの二人も恨みがまし目つきを浩太に向けると、その場を去った。
「大丈夫? 平沼さん」
安堵する間もなく、浩太は彩希に向き直った。彼女は明乃に寄り添い、表情の読めない顔つきで、浩太をまじまじと見つめている。
――まずったなぁ。
木刀を寸止めしたところで三人組が引くと思ったのだが、仕方なく帽子の手首を打ってしまった。高校時代まで培った剣道の技術を喧嘩に使った罪悪感が一気に押し寄せてくる。彩希を守れた達成感はなく、虚無が胸の内を浸すように感じた。
「ありがとう、青江くん」
彩希がふっと微笑を漏らした。
「つーか、すげえな、青江」
と正憲が感嘆の声をあげる。
「頼りになるねぇ。というよりは、うちの男性陣が情けないというかなんというか」
明乃は呆れて会員たちを見回す。女性陣の目が厳しく、それをかわすかのように男性陣は苦笑いを浮かべる。
「とにかく、彩希も落ち着かないだろうし、このまま解散した方がいいかもね。青江くん、彩希を送ってやって」
「はい?」
明乃の提案に浩太は驚く。
「お願いできる?」
と彩希が優しい眼差しで見つめてくる。
「まあ、いいですけど」
戸惑いがちに承知すると、慌てて木刀を袋にしまった。彩希を伴って駅まで行くことにした。
繁華街を抜けて駅の入口に入ろうとしたとき、彩希に止められた。
「わたし、タクシーで帰るわ」
「そう。金はある?」
「ご心配なく」
と彩希は腰に手を当てて胸を張る。その仕草がどこか子どもっぽく見えて親しみを感じた。
「でも、タクシー来ていないみたいだな」
乗り場には、タクシーを待っている乗客の列があった。
「なら、乗るまで一緒にいてくれる?」
「いいけど」
二人は列の最後尾に並んだ。
「青江くんって、強いんだね」
と彩希が訊いた。
「これでも高校まで剣道やってたから。でも、あんなのダメだ。本当ならもっとうまくあの三人組を退散させたかったんだけど」
「うん。青江くん、少し困っていたもんね」
彩希は浩太の戸惑いに気づいていたらしい。
「木刀は凶器だし、下手をすれば取り返しのつかないことになる。平沼さんも俺が怖かっただろ」
「うーん、あのチンピラたちはともかく、青江くんを怖いって思わないかな。だって助けてくれたしね」
彩希は慰めるような笑みを浮かべる。
それからしばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。
浩太は今まで彩希と二人きりになることがなかったので、何を話していいかわからなかった。早くタクシーが来てくれと思いながらときどき彩希に目を遣る。何も喋らないのも失礼だし、かといって彩希にいろいろ訊いてしまうのも失礼な気がした。芸能関係のことや、プライベートな質問をするのもデリカシーに欠ける。
話しかけようか迷っていると、彩希が口を開いた。
「青江くんって、わたしのことどう思っているの?」
「え? ど、どうって」
不意の質問に、浩太の胸が一瞬強く叩かれたような感覚になる。
「他の人はさ、あの芸能人はどうなのとか、どれぐらい稼いだのとか訊いてくるけど、青江くんはわたしに興味ないのかなって」
「興味がないわけじゃないさ。俺だって下世話な話をして笑ったりもするし。ただ、話しかけると迷惑かなって」
「遠慮することないのに。もう引退したんだし、同じ大学生じゃない」
「でも……」
「でも?」
彩希は身体を傾けて浩太をのぞき込んだ。彼女の冴えた瞳が浩太の心臓を捉えるような感覚に陥りそうになる。
「平沼さんって、大変そうだから」
「え?」
彩希は目を見張った。
「プライベートなことを訊かれたり、知らない人に絡まれたりしてさ。それに……これは俺の想像なんだけど、ネットとかゴシップとかに誹謗中傷されたりもしたんだろうし、傷つくこともあるんじゃないかって思うんだよ」
気を遣いすぎてまとまりのない言葉を並べる浩太。
「そんなことないよ。そんなの適当にあしらっておけばいいだけだし」
彩希はそっぽを向いて答えた。気取ったふうを装ったのか、彼女の顔には微笑が浮かんでいた。
「そう、なんだ」
タクシー乗り場の列が少しずつ進んで行く。列の先頭になると、すぐにタクシーがやってきた。
「今日は助けてくれてありがとう」
「今度は上手くやるよ」
浩太は自戒を込めてそう告げた。
「それから、もう平沼さんってやめない?」
「え?」
「だって、いつまでもさん付けだと、他人行儀でしょ。同じサークルの仲間なんだし、これからは呼び捨てでね」
「あ、ああ」
思わぬタイミングで彩希との距離が縮まり、どう反応していいかわからなかった。タクシーが目の前に来ると、後部座席の扉が開いた。
「また明日な。平沼」
「うん。浩太も、お疲れさま。じゃあね」
と言って、彩希はタクシーに乗り込んだ。浩太は手を振って彩希を見送った。窓越しに見える彩希も手を振って浩太に応えた。
――浩太、か。
てっきり名字で呼ばれると思っていたので、虚を衝かれた気がした。
この日から多少の距離を感じつつも、彩希との友達付き合いが始まったと、浩太は今になって思うのだった。