オマケ:フィンネル
なぜ。
出会ったときからこの言葉がフィンネルの頭から消えた日は一日たりともない。
番がいた。
間違いなく、己の番だ。今までに嗅いだことのない甘く、かぐわしい匂い。気になって気になってしかたがない方角、体の奥底から感覚すべてがひとりの人間へと向かっていた。
そう、人間。人間だった。
なぜ、天は我が番を違う種族に、まして短命で非力な人間にしたのか。
フィンネルが人間とかかわることは少なくないが、深い付き合いがある者はこれまでにいなかった。
細い手足など触れば折れそうだし、寒さ暑さでも具合が悪くなると聞く。
何日でも雨風に当たろうが灼熱の火山にいようが、微塵も影響のない竜人には信じがたい存在だ。
せめて、獣人のいずれかであったなら。
はたまた、エルフやドワーフのように、寿命が己に近いものであったなら。
――なぜ、人間なのだろう。
番の概念もない彼らには、その存在がどれほど大事なものなのか伝わりづらいとも聞く。
中には番として出会ったときに、相手が同じ人間と結ばれていたなんてこともあるそうだ。いないと首を振る彼女を前に、そんなことにならなくてよかったと心底安堵し、浮かれようとする心を抑えなくてはと念じた。
できることなら会ったその瞬間から愛を交わし、どこまでも互いを分かち合いたいのに。人間には、こちらのそんな思いなど理解できないのだから。
フィンネルは燃え滾る激情を必死に押し殺し、マロウに危険がないよう触れることは極力避けて、それでも片時も視界から消えないよう、そして彼女に災いが届かぬよう気を配ることしかできない。
マロウは、頷いてくれた。
あまりわかっていないことはフィンネルにも伝わっていたが、それでも彼女は自分と共に来ることを選んでくれた。
浮足立つ心を叱咤したのは、もう何度目か。
それにもかかわらず、自分を律することがおろそかになっていたのだと突きつけられたのは、誓いを立てる目前であった神殿の、あの白い石段である。
なぜ。
なぜ自分はあのとき、マロウから目を離した。楽しみだと笑う彼女にもうすぐ揃いの腕輪をはめることができると、心躍らせていた愚かな男は。それならそうと彼女を離さず抱えて歩けばよかったものを。
番を分かり得ない人間とは、性急に関係を深めようとしてはいけない。彼女の歩みに合わせるのだと念じていたのは間違いではなかったと、短い旅のなかで思ったのは確かだ。
あの日、ふわりとした衣服をまとったマロウがまぶしくて、もう婚姻は目前で、抑えきれない気持ちにふたをするために見ないようにしていたら。この様だ。
こんな馬鹿なことがあってたまるか。
嘘だ、なぜ。なぜ笑わない、目を開けてくれない。
ついさっきまで、あんなに瞳を輝かせていたのに。
楽しみだと言ったばかりの神殿の目の前で。
なぜ彼女は、自分を置いて呆気なく旅立ってしまったのだ。
人とはこんなにも儚いのか。段を踏み外したくらいでその生を終えるほど弱いのか。真っ赤な血を滴らせ、事切れた我が番。
隣を歩いていたら、せめて自分が振り返っていたら、もっとその弱さをわかっていたら。
なぜ、なぜ、なぜ。
人目もはばからず声を上げて嘆くフィンネルに、このとき声をかけられる者など誰ひとりいなかった。
一生に唯一とされる番。
それを目の前で失った獣人の、喪失感たるや。
まして、こんな、唐突で馬鹿みたいに呆気ない最期で。
マロウの体を抱えて離そうとしないフィンネルを、司祭がどうにか説得して墓を立て、埋葬して、人々は哀れんだ。飲まず食わずで墓の前に膝をついて動かない竜を、慰められる者もまたいないのだ。
力尽きて倒れても、もとより頑丈である竜人は数日ベッドに臥せって食事を流し込めば立ち上がるまでに回復する。酷い顔色の竜人を誰もが心配し、哀れみ、同情した。
命を落とすのではと噂されたフィンネルだったが、彼女がそれを望むのかよくよく考えよとの司祭の言葉に繋ぎとめられることになる。
心を閉ざして、抜け殻のようになったままただただ日々の職務だけをこなし、毎日朝晩と墓の前に膝をつく。
時はゆっくりとすぎていき、知っている顔が入れ替わっていってもフィンネルは淡々と毎日を過ごした。
思い起こすのは、たったひと月の甘い甘い日々のこと。
鈴を転がすように笑った彼女が好んだ香茶に、頬張っていた鶏肉、教えてくれた親父さんとの思い出話。流れていく月日に対して、フィンネルの持っているマロウとの時間はあまりにも少なかった。
繰り返し繰り返し思い出すたび、覚えていたものが変わってしまうのではないか。
擦り切れるほど振り返っても、もうあの声を聞くことも笑みを見つめることもできない。
なぜ、こんな、日々が。
「馬鹿だなあ……本当にあいつは暢気で、ちょっと抜けてて…………階段ってまったく……ちょっとなにかが違えば今だって笑ってここにいただろうに」
そう言って震えた声を湿らせたのは、彼女の養い親だった。
墓前で倒れて、それでも憎たらしいほど頑丈な体はすぐに元に戻り、そこでようやく親父殿のことを思い出す。
あの似合いだった彼女の服を包んで夜更けの宿屋を訪ねると、憔悴しきったフィンネルを迎えた親父殿はなにかあったと察して緊張に顔を強張らせた。
膝をつき額が床につくほど頭を下げてマロウの死を告げた男を、彼は責めるでもなく、あんたも辛いだろうにとその肩を叩いた。
「フィンネルさん、これはあんたに必要なものだ」
遺品だと差し出した彼女の服を、親父殿は丁寧に断ってフィンネルへ返した。
「私には番を失うということがどれほどの悲しみなのか、想像することしかできない。少しでも心の慰めになるものは多いほうがいいだろう。――あの子の話が聞きたくなったらいつでも訪ねておいで」
あの町では、フィンネルを憐れむばかりでマロウの死を悼む者はいなかった。こうして心に寄り添う人も、いなかった。
語りかけてくれた司祭でさえ、マロウのことを知らないのだ。
だからフィンネルはあたたかさに咽び泣く。子を失った親だって身を裂かれるほど辛いはず。それにもかかわらず、親父殿の言葉に救われてしまった。マロウを思わせるそのあたたかさにフィンネルはどうしようもなく胸を締め付けられる。
そんな親父殿ももういない。
マロウを知る者などどこにもいなくなって、フィンネルだけが取り残されていく。
しかし、どれだけ経ったのかと思い返してもまだ百年。生きていく先のほうがはるかに長い。
マロウはフィンネルが死ぬことを望まないのだろうか。
もうその問への答えさえもフィンネルにはわからなくなっている。マロウがどう答えるかなんて、あのわずかな日々しか過ごせなかった己にわかるはずがないのだ。
ただただ、悲しむかもしれないと思っただけ。あの明るく笑っていた顔が曇るのではと思うと、自らの手で己の生涯を閉じるにいたらなかった、ただそれだけだ。
それにもかかわらず、なぜ。
なぜ、また番の匂いがするのか。すべての感覚がひとりの相手へ向かうのか。
フィンネルは信じられなかった。人混みに紛れているはずなのに、彼女しかいないみたいに鮮やかに映し出される姿が、信じられなかった。
どうして。自分には、マロウがいるのに。なぜ。なぜ新しい番など現れるのか。
一度は神殿へと戻るために引き返した。
けれども、惹かれるそれに抗い切れず足が止まる。
遠目に栗色の髪をふわふわさせた彼女を見て、うまそうに肉を頬張る姿に、瞳を輝かせて町を歩く姿に、どうしようもなく惹かれているのに。自分の中のマロウが遠ざかっていることが許せなくて許せなくて。
ああ、なぜ。なぜ、こんなにも酷い。
嘆きと己の感情に、打ちひしがれる日がまた続くのか。
どうすればいい? どうすればこの絶望の淵から抜け出せる?
答えなど出ずにフィンネルは奥歯を噛み締めたまま彼女を見守ることしかできない。
そんな持て余した感情に揺さぶられて、またしてもフィンネルは過ちを犯すところだった。奇しくもまたあの白い石段で。
けれども、今回は踏みとどまれた。不甲斐なさのせいで取り返しのつかないことになる前に。
「フィンネルさん、大丈夫です。わたしはもうここに埋まっていませんから。たぶん、土に還ってそれから巡り巡って、今あなたの横にいますよ」
そう言ってへらりと笑ったマーロは、マロウの墓の前で膝をついた男を慰めた。
まだ早朝ともいえる時刻に、服の袖に腕をとおしたフィンネル。ベッドの中で眠そうに目を擦った彼女が、どこに行くのかとふにゃふにゃと尋ねた。
迷った末に隠さずマロウの墓だと答えると、わたしも行きたいと勢いよく起き上がったのは先程のことだ。
町の裏手にあるそこは、木々が切りひらかれ明るい日差しに墓石がやわらかく照らされている。
いつも悲痛な思いしか持ち合わさずにいたのに。今、信じられないほど穏やかな気持ちで冷たい石を見下ろした。
「もしかしたら、風の精霊が気をつかってくれたのかも。フィンネルさん、たくさん泣いたんでしょう」
「……泣いていない」
嘘ばっかり。
静かでさみしいはずのこの場所に、響く明るい笑い声。
昨日も無理をさせてしまったから、体が辛くないようにとマーロを抱き上げると過保護だと腕の中でため息をつかれた。
家へ帰ると眠気が戻ってきたのか、マーロが大きなあくびをこぼしたのでまた少し眠って、目が覚めた昼前に果物とスープと小麦料理を腹に収める。
市場で買ったものと、フィンネルが仕留めた獲物をマーロは上手に料理した。
ちょこちょこと動き回るマーロに負けじとフィンネルも肉を焼いたり果物をむいたり。番には自分の手にかかったもので腹いっぱい食べてほしいと思うのだが、首を傾げたマーロにそれならわたしだって同じだと少しずれたことを言われた。
うれしいことには変わりないので、彼女の作ったものばかり腹に収めるとにこにこしたマーロがこちらを見つめていて、大きなため息がこぼれる。こんな時間が訪れるなんて。
ぎゅうと抱きしめてマーロの香りを堪能し、そのまままたベッドへ行き、なんだかんだと夕暮れを迎えるとまた食事を共にする。穏やかに過ぎていく一日がまだ信じられないものに思えて、フィンネルは心配になるたびにマーロを見つめる。
眠る彼女の息が止まっていないか確認するのだって、もう何度したかわからない。
彼女が現世に生まれてくれて、フィンネルを訪ねてくれて、階段で伸ばした手が間に合って、本当によかった。
フィンネルは機嫌よく茶器を傾けているマーロを眺めて、心の底から安堵する。あのまま彼女が落ちていたら。自分が間に合わなかったら。また、失っていた。大事な半身を。
「明日からお仕事ですよね? お昼は神殿で食べますか?」
丸々きっちり10日の休みで念願の挙式をすませ、短いながらも蜜月をすごしている。まさに今がそれだ。
そして、明日は仕事へと復帰しなければならない。
すっかりくつろいだ様子のマーロは、茶を飲み干すと揃いの腕輪を撫でながらなんとはなしにそう言った。
少し乱れたままの髪をそっと直してやりながら、フィンネルは首を振ってみせる。
「いや、戻って来る」
「じゃあわたしが作って待っていますね。宿屋の手伝いですが――」
「それは俺も付き添うから、明日はまだ家にいてほしい」
「……だから今日行きましょうって言ったのに」
フィンネルと一緒にここで暮らすと決めたマーロは、家にいるだけでは忍びないと働くつもりである。しかも、町の宿屋の人手が足りないという噂まで仕入れていた。
蜜月くらいはふたりきりがいい。それがフィンネルの本音だ。しかし、マーロに乞われるとそうもいかずに何度か町を見て歩いたが、最後の今日はもう家から出ないのだとフィンネルが譲らなかったのだ。こういった番へ向かう気持ちもマーロはあまりわかっていない。
これからどうしたって自分以外の誰かとも関わりながら過ごすのだから、この10日間独占するくらいいいではないか。
聞こえないふりをしたらちっとも痛くない力で小突かれた。なんだこれは、力なんて入っているのか? 逆に心配になる。
「明日先に話を通しておくから、明後日の昼には行ける」
「市場に買い物へ行くのはいい?」
「……もちろん」
「フィンネルさん、顔と言葉を合わせてください」
嫌なものは嫌なのだからしかたがない。
憮然として鼻を鳴らすとマーロがからからと笑う。その笑い声にくすぐられて胸が軽くなるから不思議だ。
「長居はしませんよ。買ったらすぐに帰ってきます」
「ああ」
「じゃあそろそろ寝ましょうか。明日は寝坊できませんよ」
もう今日を終いとするのか。
惜しすぎて軽くなったはずの胸がずんと重くなった気がして、フィンネルは眉を寄せて黙り込む。
すると、マーロが小首を傾げてフィンネルを見上げた。
「あれ、一緒に寝てくれないんですか?」
「寝る」
即答すればはいはいと笑いをまとって踊る声。
マーロの小さな手がフィンネルの手を引いてベッドへといざない、ふたりそろってやわらかな寝具に包まれた。
すぐそこで、若草色の目が輝く。
「明日も楽しみですね」
「……ああ」
「フィンネルさん、おやすみなさい」
「おやすみ、マーロ」
悲しみしか待ち受けていないフィンネルの生涯へ、約束と希望をくれたマーロ。
それを胸に抱きながら、また巡り会うのを待つのはずいぶんと楽しいかもしれない。
けれどもまだそれは先の話だ。
彼女が気に入っている茶葉は神殿の奥で採れるのだと、売っているのは神殿の入り口だけだと、教えるのもまだこれから。
今はまだあたたかに脈打つ彼女を抱きしめて、明日へと想いを馳せるのである。