前編:マロウ
やけに騒がしいなと思ったのは、お使いをすませたあとだった。
宿屋の親父さんから頼まれた品物はちゃんと買ってある。年頃の娘ひとりで行かせるのはと心配していたが、徒歩でも往復できる隣町だ。
親を亡くしてから今まで面倒を見てくれている親父さんたちの役に立ちたいし、町から出るのも久しぶりだからいい気分転換にもなる。
大丈夫大丈夫、行ってきます。と張り切って宿を出て、今は昼を過ぎたころ。
いろんな町の中継地点になる隣町は、自分のところに比べると遥かに人通りも多く賑わっていた。
だから、初めはいつでもこんな感じなのかなと気にしていなかったのだけど。
「すまない、荷袋を背負った赤毛の――」
ん? 自分に当てはまる単語が並んで、思わず振り返る。
すると、人混みをかきわけて一直線にこちらへ来る大きな人が周りの視線を集めていた。長い黒髪がくしゃくしゃになっていて、とても急いだのか息まで乱れている。あらわになった額からはすらりとした角が二本。
普通にしていると絶対に目が合わないくらい身長が高いのに、琥珀色の鋭い瞳はまっすぐとこちらを見ていた。
「わたしですか?」
まったくもって知り合いには程遠い。店に泊まったことのある人だろうか。それとも、今しがたの買い物でなにかあったとか?
急いで頭の中を探したけれどぜんぜん思い当たることがない。
首を傾げている間に、大きな人はすっかり目の前に立っていて上から視線を投げ続けている。
尋ねた声に、端正な眉がぐっと寄って皺をつくった。
「……突然呼び止めて申し訳ない。俺は、フィンネル。きみの、名を教えてくれ」
「え」
とても初対面の人相手の顔ではない。普通はこう、警戒心を和らげるためとかで笑顔にならないだろうか。ものすごく不機嫌そうで、自分がなにか粗相をしてしまったのかと心配になってしまう。
こちらがまごついたことに、相手はさらに眉間の皺を濃くして重々しいため息をついた。
「俺は、見たとおり竜人だ。我が番、きみの名を知りたい」
「つがい」
「そうだ。唯一無二の我が番、急だとは承知している。だが俺にとっては代え難い存在であり、この機を逃したくはない。名を教えてくれ」
竜人とは、その名のとおり竜であり人である者。
エルフと似たような寿命で魔力に長け、耳が尖っていて、大きくて頑丈な体。そう聞いたことはあるけれど、他の種族に比べて少ない。見るのも初めてだ。
たぶん町の人も似たようなもので、だからやたらと騒がしかったのかと勝手に納得した。
番とは獣人社会ではよく出てくる言葉だと認識している。人間でいうところの伴侶、夫婦、恋人、そういったもの。
目の前の美丈夫は、それが自分だと言う。
「マロウです」
ふざけている様子もないし、名前を教えたくらいで悪いことも起きないだろうとマロウは真上を見上げながら口を開いた。
「マロウ」
マロウ、マロウ。繰り返して、男はぐっとなにかを噛み締め、また大きなため息をついた。
「……もう、伴侶がいるのか? それとも心に決めた相手は?」
「と、とくにいません」
言えば、またぐっとその表情が歪んだ。
「では、親御殿へ挨拶に伺いたい」
「え。親はいません。あ、挨拶って、なんの」
「番だ。婚姻を結びたい。いないのなら、すぐにでも共に行けるのか」
「え、こんいん……待って、え? 本当に?」
混乱する頭で、マロウはなんとかフィンネルを町へと連れて帰ることになった。あのままではひょいと抱えられてどこかへ連れて行かれそうな勢いだった。嫌そうなのに。
親はいなくても親同然の人がいると言えば、渋い顔をしたまま彼は反対せずにマロウについてくる。荷物も持ってくれて、なんとも身軽な帰路となった。
まったくもって歓迎されている様子はないのに。口では番だと、結婚したいのだと言う。
わけがわからないままマロウは親父さんにただいまと声をかけた。そして、隣にいる大きな人をポカンとした顔の親父さんに乞われたとおり会わせたのだが。
「獣人の番だぞ。マロウ、お前が思っているよりずっと重要なことだ。軽い気持ちでは失礼にあたる」
めずらしく大真面目な顔をした親父さんは、フィンネルから話を聞くとなんとも言えない声で唸った。
マロウよりも親父さんは獣人たちのことを知っているらしい。マロウとフィンネルを見比べて、もう一度腕を組み直した。
「……とはいっても、嫌がっても番だからな。竜人の旦那、引く気などありますまい」
「当然だ」
「どうしたい? 店のことは気にするな。人手もあるしなんとかなる」
低く短い返事をしたフィンネルに頷いて、親父さんはマロウを振り返る。
番、婚姻、竜人。いきなりの話でマロウは正直なところついていけていなかった。フィンネルは、嫌そうだけど譲る気はない。マロウと結婚したいと言う。親父さんも反対しているわけではないようだし。
ふたりの顔を一回ずつ見て、マロウはへらりと笑った。
「まだよくわからないけど。この先、誰かと結婚できればきっとするはずだし、乞われて嫁入りするなら、まあ、そのほうがいいかなと」
果たしてこの表情で本当に乞われているのかというと、ちょっとマロウでも心配になるが。彼の本心が違うにしても、なにか事情があって望んでいるのならまあ前向きにとらえよう。あまり深く考えない質なのである。
そんなマロウの心境を察してか親父さんが呆れたように眉を上げた。そしてフィンネルへ肩をすくめて見せる。
「ご覧のとおり暢気な娘だが、私の子も同然。大事にしてやってくださいよ」
「心して承る」
低く短い返事に親父さんは頷いた。
「今日はもう日が暮れるから泊まっていくといい。マロウ、部屋の用意を」
「はーい」
「食事ができたら声をかけるから、旦那はゆっくりしていてくれ」
「感謝する」
部屋の支度をしているときも夕食の支度を手伝うときも、フィンネルはマロウについてきて不機嫌な顔のままじっとこちらを窺っていた。不機嫌なのになぜ。親父さんも親父さんでご機嫌を窺う素振りもないし、竜人とはこういうものなのだろうか。
やたらと豪勢な食事は彼の舌に合ったのかわからないが、表情は動かずに皿はどんどん空になっていったので不味くはなかったのだろうとマロウは思った。本当に不思議な人である。
食事をして湯浴みもして、すっかり夜になった宿屋。
この日は休みだった。だから泊まっている客はいないし、賑やかさとはかけ離れて静かな夜。
いつもよりずっとずっと不思議な静けさに包まれた夜が明けると、見事に晴れ渡った朝がやってきた。
「部屋は適当に片付けておく。持っていけないものはあとで取りに来てもいい」
「はい」
荷物を背負ったマロウに、親父さんが真面目な顔で言うからマロウも気をつけて真剣な顔をした。
傍には、黙ったままのフィンネル。
ああ、親父さんとお別れなのか。マロウは肩紐をぎゅうと握った。
「親父さん。手紙を書くね」
「……風邪をひくなよ」
もっと親孝行みたいなこと、たくさんしておいたらよかったなあ。口を引き結びながらマロウは頷く。
フィンネルがその横で深く頭を下げたのに、親父さんが肩を叩いて見送った。
竜人は魔法も使えるし、竜にもなれる。
フィンネルがマロウを連れて行く場所は、彼にとってはたいした距離ではないけれど、マロウにとっては7個の町を越えた山腹にある町だった。
風の神殿があり、精霊たちが祀られている風の町。
まずはその神殿で婚儀を挙げたいのだと言う。
フィンネルは神殿で守人をしているそうだ。精霊と神殿を繋ぎ、魔力の流れをよくする手伝いとのことで、マロウにはちっともわからないが大層な職なのだろうと受け止めた。
宿屋をあとにしたマロウをじっと見つめた金の瞳の持ち主は、ひとっ飛びで行くことができると前置きしてから、他の町を見ながら向かうこともできるとマロウに言った。どちらがよいのかマロウが決めるらしい。
これまでに行ったことがあるのは隣町だけ。マロウは相手の不機嫌さを忘れて、町をたくさん見てみたいと答えた。すると、のんびりした旅が始まったのである。
「わあ、おいしい!」
町に泊まれれば宿でゆっくり過ごし、市場を見て回り、名所があれば足を運ぶ。
不愛想で不機嫌な相手との道中ではあるが、思いの外フィンネルはマロウを気遣っているように思えたし、休憩もしてくれる。この日のように、野宿となったときはことさららしい。
彼は水辺の近くに薪をくべるとマロウを毛布の上に座らせて、道すがら仕留めた獲物を手早く調理した。マロウをひとりで置き去りにすることはなく、片時も離れないと言わんばかりに甲斐甲斐しく世話を焼く。
焚火で鶏肉を串焼きにし、香草のスープまで器に盛った。
湯気がくゆってマロウの腹が今にも鳴りそうなとき、よい焼き加減の一本を無骨な手が差し出した。礼を言って遠慮なくかぶりつくと、口の中に広がる肉汁。やわらかな歯ごたえ、香ばしいかおり。
「フィンネルさんも早く食べてください、冷めちゃいますよ」
自分のものを手に持ったまま、マロウのことをじっと見つめて止まっている相手。
もぐもぐしながらマロウが言えば、フィンネルがどこかギクシャクしたような動きで肉に歯を立てた。ぐいと串から肉を外しながら、次の肉をどんどん焼いていく。
もう食べられないと言うほど腹いっぱい食べることが、この旅では多々あることになるのだろうとすでに毎食そうなっているマロウが察するには十分だった。
苦しい、もう食べられない、と毛布に転がっているマロウと、まだ残っている料理とを交互に見たフィンネルはため息をこぼしてから湯を沸かし始める。残った料理を自分の腹に収めて、今度は湯の中に茶葉らしきものを躍らせた。
「すごく香りがいいですね」
ふわりと嗅いだことのない香りがして、マロウは苦しいのを忘れて体を起こした。
ほんの少し甘いような、けれどもさっぱりとしていて、不思議と深みのあるような。
フィンネルが茶の世話をしながら頷く。
「風の町の特産だ。慣れぬ旅だ、飲んで落ち着くといい」
器を渡してくれたので、もう腹にはなにも入らないと思っていたはずのマロウは、そんなことをすっかり思考の外に追いやってありがたく受け取る。熱そうだからふうふうして、そっと一口。
「おいしい」
湯気と一緒にふわりと笑った。
そんなマロウを月と同じ色の瞳が、じっと見つめて夜がどんどん深くなっていく。
宿と野宿の回数を増やしながら、町々を通りすぎておよそひと月。
あの夜から毎日寝る前にフィンネルが茶を淹れてくれるようになったから、もうすっかりマロウはあの茶を気に入っていた。一日の締めくくりにふたりで茶をゆっくりと味わうのは、ことのほかよいものである。
ぽつりぽつりと交わす言葉も、案外心地がよいものだった。
機嫌が悪そうなフィンネルは出会ったときから今に至るまで変わることはなく、きっと彼はこういう人なのだろうと思うと、この旅をとおしてなかなか慣れてきたなあとも思う。表情を気にしなければ、彼は面倒見がよくやさしかった。これならこの先もやっていけるかもしれない。
ようやく辿り着いた風の町。
マロウと会ってからフィンネルが仕事を休んでいるのが気になっていたが、どうやら手紙かなにかで連絡を入れていたようで問題はないと素っ気ない返事があった。そういうものなのか。守人の役目がわかっていないマロウには頷くほかない。
日暮れの時刻に着いたため、ひとまず休んで、翌朝神殿へ向かうことになった。
ここでもお腹いっぱい食べてから、フィンネルの茶で締めくくる。
朝、綺麗に晴れた空に気持ちよく背伸びをしたマロウは、荷物の奥底にしまい込んでいたワンピースを取り出した。
今日は婚儀である。
フィンネルに確認したところ、盛大な結婚式を挙げるというよりは神殿の祭壇で誓いを立てて腕輪を嵌め合うのだそうだ。腕輪はフィンネルが用意しているというので、マロウに準備するものはない。
それでも、人生に一度のことだから。
少しくらいちゃんとしようと、旅用の動きやすい服装ではなくてお気に入りの一着をまとうことにしたのだ。
「うわあ、すごい階段」
足元がすかすかするのは久しぶりだなあ、なんて思っているマロウを朝顔を合わせたフィンネルは穴が開くほど眺めてきた。
彼の前でこんな格好をするのは初めてだから、そういえばめずらしいのかもしれないなあと思う。高価なものではない、ただのワンピースだけど。
宿を出て、町の奥へ向かっていくと白い大きな石の門。
そこからは石段が木々の間に連なり、上のほうにまた白い大きな大きな建物があった。
もう何十年、何百年とそこにあるような木々に寄り添うようにそびえる神殿は、マロウが初めて見るものでなんと表してよいのかわからない。
「いろんな人が参拝するんですか?」
「神官や魔導士が多いが、精霊の加護を頼って旅人や町の人も来る。訪ねてくる者を拒むことはしない」
慣れた調子で上っていくフィンネルは、心なしか早足なのに息を乱すこともない。
この神殿に仕えているのは竜人やエルフなどの魔力が多い者が主だ。マロウにとっては少し大きすぎる段をよいしょよいしょと上りながら、ふうと息を吐く。
「わたし、神殿なんて初めてだから楽しみです」
「そうか」
「上に着いたら眺めもよさそうですね」
結構急だから、思ったよりも高さがあるだろう。
二段先にある背中に笑みながら、真ん中あたりまで上ってマロウは後ろを振り返る。
「すごい、もう町があんなに――あっ」
びゅうと吹いた風がスカートの裾を捲り上げたので、咄嗟に手で押さえたら。
石段の端を踏み外し、ぐわっと、勢いよく下へと引っ張られる。あれ?
「マロウ!!」
叫ぶ声が聞こえたけれど、それが覚えている最後のものである。