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無垢な罪  作者: 宮永文目
梟鵄守護章
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探偵は逡巡する 1

 ひんやりとしたコンクリートの温度を味わい、どこか物々しい雰囲気の階段に目を伏せた。その恐ろしさに、私は多分、冷や汗をかきながら上って行ったのだと思う。

 

 ドアを開けると待ち受けるのは、私とそれ程の年齢差もない──とある探偵だ。肩より少し長めに伸ばしてある黒髪に、所々花紺青の色が混ざっており、見る者が注意深く観察しなければ、その神秘性に気付けないだろう。ただし一度発見した者には、その心に不思議な印象を与えられるのである。


 この探偵、ひょっとすると身長だけなら私の方が高いのかも知れない。だがしかし、そんな野暮なことを口にしようものなら、私は徹底的に苛められてしまうだろう。

 椅子に深く腰掛けるように座る探偵──彼女は、特に負けず嫌いなのだ。いや、それは私の云い方が悪い。語弊の無いよう云っておくと、彼女は並大抵のことは受け流す性格だ。その代わり、彼女の定めた何かしらのルールに抵触すると、もうそれは激しく怒る。子供のように喚き散らすのでは無く、理知的な怒りを以って、完膚なきまでに相手を追い詰める。そのときの様子は、彼女の荒々しさと云うか、気性の激しさと云うか……、それらが一気に膨れ上がって表出する様でもある。


 あたかも寿命を削り乍ら怒っているのだと。


 ──いや、案外間違いではない。

 怒られて、寿命が縮まる思いをするのは、一般的には叱られている方だ。が、しかし彼女の場合、彼女自身が全身全霊をかけて怒っているために、側から見ても魂の数センチくらい消費して居るのではないだろうか、と思う程だ。

 そんな存在に私は心底怯えて居るのだった。

 見た目は小柄の筈なのに、それでも実際に対面してみれば、矢張り恐ろしい。いつもの口調や物腰は静かなのだから、余計に怒ったときは恐ろしい。

 こうして今、私が目眩を覚える程の曖昧糢糊とした様子で居るのは、決して夏の所為だけではないだろう。


「……先生。何故私は呼び出されたのでしょうか」

 緊張し切った私の面持ちを余所に、目前の探偵はのんびりとした動作で、如何にも不安感を募らせる様子だった。


「何だい、その他人行儀な呼び方は。いつものように『先輩』とか『子鈴ちゃん』で良いンだよ?」


「──()()。私はどうして、この貴重な休日の中、呼び出されたのでしょうか!」


 私は少しばかり憤りを覚えつつ、それでも呑気な顔をしている先生を睨みつけた。彼女はあくまで穏やかな様子だ。そんな態度が、ますます私の中の不満を募らせてゆくのだった。


「はァ。君は……そうか。折角の休日を潰されたから怒っているのだね。何て度量の小さな娘だ。そうやってぷりぷりして居るから、この歳になっても未だ男っ気が無いのだろう? 小さいのは胸だけにしておけば良いものを」


「余計なお世話です! セクハラで訴えますよっ!?」


「ほう。こんなもの、女同士のたわいも無い冗句じゃないか。これがセクハラになるのかね」


「セクハラと云うのは、異性だろうが同性だろうが、関係なく適用されるのです。先生も一応探偵なのですから、覚えて置いた方が良いですよ」


 私がそう云うと、彼女はすっかり関心した様子で、私の顔をじっと見てきた。


「……やっぱり小野崎くんは、良いなァ。うん。実に良いぞ」


「何がですか……変な云い方しないで下さい」


「いやいや。ただ、君は私の知らないことを知っているだろう。なら君には、私を支える権利がある。その器用貧乏とも云える万能さを使って、私のために働いてはくれまいか?」


 私は段々、彼女の云いたいことを理解してきた。要するに──


「──助手、ですか」


 私の言葉に、彼女の瞳孔が大きく開くのが見て取れた。彼女は小さな含み笑いをしいしい、椅子を立ち上がって、私の元まで近付いて来る。


「流石だ、小野崎くん。そうだ君の云う通り。私の元へ一つ依頼が来たのだ。君にはその仕事を手伝って欲しい。良いよね?」


「はァ、何で承諾すると思ったのか、相変わらずよく分からない脳回路ですね。本当、先生には振り回されっぱなしですよ。んじゃあ、ここいらで。私はそろそろ帰って寝ますね」


「──おいおいおい。おいおいおいおい小野崎くん。まさか若しやの話だが、君断ろうとしてるんじゃあないだろうね。

 えェ? おい。こんな自尊心の塊の様な私が、あるかどうかも分からない恥を忍んでお願いしているのだぞ。ここは素直に『謹んでお受け致しまする』とでも云う所だろう。それが自然の摂理。神の与えたもうた十戒にも書かれてある筈だ!」


 目くじらを立てて、早々と文句を云ってくるので、私はすっかり反論の隙を失うのだった。

 何せ彼女と云ったら、本気でそう信じているかの様な目をして云ってくるので、私としてもどう反応して良いのか分からないのだ。


「あ……えっと、どこから突っ込めば良いのか」


「何を迷う必要があるのだ。君は全てを私に任せて、ただ着いてくればいいのだよ。簡単なことじゃないか」


「え、嫌──ですけど」


 一瞬の間が空いた。


「………すまない。よく聞こえなかった。取り敢えず──」


「嫌です」


「………」


 有無を云わさない私の切り返しに、到頭とうとう黙り込んでしまう探偵であったが、哀れに思う必要はない。

 こうしてでも会話の主導権を握って置かないと、彼女の思い通りに事が進んでしまうからだ。強引な彼女の常套手段を封じる為には、此方も同じく攻めて行くしかないのである。


 そろそろこの問答にも飽き飽きしていた頃だったので、私は投げやりな対応をして、早く引き返そうとしたのだった。


 すると彼女は、私が助手をする気がないことを悟ったのか、意外にもこう云った。


「分かった、分かった。君は本当に助手をしてくれないのだね。酷い奴だ。今まで散々助けてきてやったのに。はァ……」

 

 そんなことを云われても、折れる気は無かった。

 大体、きっと助手の件だって自分の体裁の為だろう。あっても無くても変わらない──要するに気分の問題なのだ。ならばそんなものに付き合う義理はない。私はこの休日を謳歌する為だけに生きているのだ。


「しょうがない。暑い中済まなかったね。どうだい、もうちょっと涼んでいくかい」


「……何を企んでいるんですか」


「いやいや、本当に申し訳ないと思っているンだよ? ただの好意さ。有り難く受け取ってくれ」


「………」


 睨む私に対し、彼女は困ったような顔をして、一つため息を吐いた。


「やれやれ……君は人を疑う癖がついたよね。誰の所為だろう?」


「主に先輩とか、先輩とか、先輩の所為ですね」


「その『先輩』には勿論、私以外の人物も含まれているんだろうな」


「ハイハイ、そうですよう……」


 お分かりの通り、私はこのときかなり適当に返事をしていた。

 それはつまり──完全に油断していた、と云い換えることも出来るわけだが。

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