恋せよ少女 1
「どんな人だったか?」と聞かれると、とても芯のある人だったと答える他ないだろう。
少なくとも優柔不断で他人任せだった麻由里とは、天と地程の差があった。
あの人は自分の目指す地点を理解していて、その為の努力を惜しまない堅実家だった。
対して麻由里は、生まれた環境さえ恵まれていたものの、何かを成そうとする情熱も気概も無かった。もっと単純に云えば、自分は出来の悪い人間だったのだ──と、麻由里はそう思わずには居られなかった。
努力の可能性に限りは無い、と誰かが云っていた。麻由里自身もそう思っていた時期は確かにあったのだ。しかしながら、信じて疑わず、死に物狂いで一つのことに没頭した筈なのに、彼女に限ってその苦労は中々実を結ばなかった。
今になって考えてみれば、麻由里には決定的な何かが足りなかったのだろう。とある富豪の一人娘。有象無象に振り回されて、ただ同意するだけの人生だったのだから。
そう云うわけで彼女の目には、全てのものが灰色に見えていたのだった。あらゆる物事に関心が持てず、やれと云われたことだけを行うロボットのような存在。
周りのクラスメートと云えば、テストの点だの、好きだ嫌いだ付き合った、などで一喜一憂しているだけ。麻由里の心は、どんどん閉ざされてゆくのだった。
だが、そんなある日──麻由里の視界に色が映る。
それはまるで晴れた春空に、突然雷が迸る。あるいは凄まじい豪雨の中での、一瞬現れた太陽の光のように……。
何にせよ、それが麻由里の心に大きな衝撃を与えたと云うことは想像に難くない。今まで何事にも関心が無かった彼女が、ついに夢中になれることを見つけたのだから。
──それが野間悠希との出会いだった。
初めて悠希を見つけたとき──麻由里は二階の教室の窓から頬杖をつきながら、喧騒の聞こえる体育館を、どこを見るともなくぼんやりと、いつものように観察していたのだった。
しばらく見ていると、ベランダに一人の影が見える。
その人物は汗水だらけで体育館の壁に凭れかかっていた。天を仰ぐように瞼を閉じ、しっとりとした黒い睫毛に涙のような汗を巡らせながら、その人は長く、細く息を吐いた。
熱っぽい吐息に艶やかさが混じり、麻由里の目には、何だか周りとは切り離された存在であるように感じた。
その人だけに視線を奪われ、その他の景色は、倍速でもしたかのように目まぐるしく変化し、動悸は激しく、耳の裏でごうごうと鳴る血の巡りを聴いた気がした。
「あっ、」
──刹那、自らの視線と彼の人の眼光が、静かに絡み合う。
その瞬間だけは、熱くなっていた体も激しい鼓動も、全てが嘘のように凍りついた。
麻由里はその人を知っていた。
野間悠希──
この瞬間まで、麻由里がこれと云って意識したことのない、ただの『クラスメート』だった筈だ。
しかし麻由里は、この瞬間、まるで自分と悠希が一体となった感覚がしたのだった。心も体も、丸ごと自分は『野間悠希』になったのだと。
この一瞬の体験で麻由里はもう、全てが終わった気分だった。悠希の間には、もはや恋人も夫婦も必要ない。全てはあの対面で過ぎ去った。痛くない、苦しくない。熱などなく、ただ冷たい真理をまぐわった。
今の自分は『野間悠希』であり『海乃麻由里』だ。悠希と云う名の羊水に浸かる赤ん坊なのだ。
──そして麻由里は今日、胎生した。
しゅっ、しゅっ!
待遇アッパーカット!!




