かえりたい
「かえりたい」
潮が薫り、さざ波の聞こえる場所で、体育座りをした少年は呟いた。
かえりたい。そう呟いた声は小さいものだったが、自然音くらいしかしないこの場所には打つように響き渡った。
「かえりたいなあ」
もう一度、今度は寂しさの滲む声で呟いた。
人のいないこの場では誰も聞いていないが、もう一度呟いた事で満足したのか、少年は立ち上がって歩き出した。
しかし、少しの時間をかけて足を止めたのは、少年の家の前ではなく、またしても真っ暗な洞窟の中だった。
少年は洞窟の中でひとり、ちゃぷり、ちゃぷりと水滴が落ちていく不規則な音を聴く。目をつぶり、音に耳を傾けると不思議と気分が落ち着くようだった。
しかし、ここは少年がかえりたいところではない。そんな当たり前な事実が突き刺さる。
だから少年は目を開けて立ち上がる。
真っ暗な洞窟を抜けると、外はもう真っ暗になっていた。この暗闇は少年の求めていたものと似ている。
だから、一人で外に出たら何かが変わると考えていたのだが……どうやら、思うような結果は出なかったようで、少年は一人ため息を吐いた。
少年は一歩足を踏み出す。舗装された道がなくなり、砂浜へと続いていた。砂に足をとられてそうになりながらも、堤防となっているかも怪しい緩やかな斜面を登り、なんとか海辺を抜け出した。
ぽつりぽつりと灯りが灯っている。少年はそれを少し眩しそうに見ながらも歩みを進める。数分も経つと建物が見えてきて、辺りから美味しい匂いが漂ってきた。
どうやらもう夕食の時間らしい。
それを認識した少年のお腹がなった。
生憎にも今の持ち合わせは、小さなガマ口財布に入れた雀の涙ほどの硬貨しかない。飲み物が一つ、それか少年の大好きな梅のおにぎりが一つ買えるくらいだ。
「買えるけど……」
少年は肩を落とす。
おにぎりを買えはするが、そうしたら飲み物が買えなくなる。飲み物を買ったならおにぎりが買えなくなる。喉がカラカラでお腹もペコペコな少年には、どちらだけの選択なんて出来そうもなかった。
「……帰りたい」
途端に少年は母親の手料理が食べたくなった。更に言うなら、温かい料理が食べたくなった。梅のおにぎりもあればなお良い。
現金な事を考えながら歩いていくと、見慣れた街並みに近づいていく。
「ただいま」
家に帰った少年は、お腹の膨らんだ少年の母親にこってりと怒られた。げんこつだって食らわされた。その後に説教を何十分もされた。しかし、その後には優しく抱きしめられた。
まだ少年は、自分を抱擁する母親のお腹に頭が当たる程度の背丈しかない。しかしそのお陰で、お腹の中にとくり、とくりと脈打つ存在がいるのを感じる事が出来た。
少年はひとりっ子だ。しかし、もう少しで兄になる。弟なのか、妹なのかはまだ分かっていないが、どちらにせよ、母親のお腹の中の鼓動は、少年に兄となるという自覚を持たせるには充分なものだった。
だからこそ━━少年はかえりたいと思うようになった。
産まれてきた下の子は、きっと喉が枯れるまでに鳴いてしまうだろう。母親だけに任せるのではなく、自分も下の子を泣きやませないといけないと少年は考える。立派な覚悟に見えるが、少年はただ、弟か妹となる存在と遊びたいだけだ。
しかし、そんな少し先の話よりもまずは目先の問題だろうと、少年はまだ機嫌の良くないように見える母親を仰ぎ見る。
何とか母親の腹の虫を治めようと、ご機嫌取りに夕食をついだお皿を食卓に運び、仕事が終わり家に帰って来た父親にも怒られて、それでも許してもらえて家族全員で食卓を囲む。
温かいご飯を食べ、お風呂に入り、上がった少年は頭まですっぽりと毛布に包まってもうひとこと。
「……還りたい」
小さな体躯を丸め、暗闇の中で幾度となく呟いた言葉を口にして、そっと目を閉じた。