『Remaneret voluntas diu torquentes』
ーー声に一応の幕引きが敷かれた後、一方で白い息を切らしながら雪原を走り抜ける者が居た。
「うわあああっ」
只管走るサクモの背後には数匹の狼。狙った獲物だ逃すな殺せ、と言わんばかりの爛々とした金の瞳を宿して彼女を追い掛ける。
「ヴォウッ、ヴォウ、ヴァヴヴグルル!!!」
「ひいぃっ、き、聞いてないよおおお!!!!!」
復讐者達との邂逅の後、ペールアに救出されて間も無く大折檻を喰らった彼女は、指定された場所を目指して只管走り続けて危機を掻い潜りながら北西の地に辿り着いた。
不定期な焔の花の雨、復讐者達に見付かる危機……思い出してはヒヤリと背筋を冷たさが伝う。
脳裏を様々な恐怖が過ぎる中で何か先程よりも背後からの気配が増した気がして、徐にチラリと背後へ視線を送る。
「うわっうわあああああああああああああああああっ!!!!!?!!!???!!!???!???!?!?」
ああ、後ろを振り返るんじゃなかった。
サクモの背後を追っていた数匹の狼の数がもっと増え、途轍も無さそうな行列を作っていた。
まだ夜闇にすら転じていないと言うのにサクモを筆頭とする統率も取れていない可笑しな遊行は加速的に勢いを増してゆく。
(ひいいいいっ死にたくないいいいいいい!!!)
サクモは恐れ恐れて涙目になりながら出せる限りの速度を出して逃げ回った。
が、狼達の方も必死だ。日々を生き抜く為には已むを得ない。
…其れはさりとてサクモ自身も同じだ。彼女だってペールアの命に動き、取り敢えず死なずに過ごすだけで必死になっているのだ。可笑しな話だが宙ぶらりんに流されながら生きていた彼女が今や必死に縋り付いているのである。…あのシーフォーンと違って、自力な分評価の余地はありそうだ。
「………っ。」
己を追う獣のあまりの多さに辟易を超えてとうとう我慢ならなかったサクモは、
「っっっごめんなさーーーーーい!!!!!!」
大きな叫びと共に手に持った何かの一部を外し、其れを背後の狼達に投げ付けた。
ドーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
彼女の背後で大きな爆風と爆炎が発生する。
「べぷっ!!」発生した圧に押し退けられる様に吹き飛ばされてサクモは顔面から転び、不幸な事に雪の無い地面に顔を擦ってしまったのだった。
狼達の殆どが吹き飛ばされ、爆炎に巻き込まれずに済んだ残りの狼や獣達も慄いて情けない声を上げて逃げ去って行った。
追い掛けて来た獣達が去ったのをそっと見届けた後、擦り傷の出来た己の顔を痛そうにそっと指で触れながらサクモは離れを見詰める。
ーー先程の爆炎が生じた所は黒く焦げて、周囲の雪は溶けていた。
(…流石ペールアさんだなぁ………「何かあったら躊躇わず使え」ってくれた爆炎瓶がこんなに…)
サクモは渡された薬瓶が役に立つとは、と感心に耽る。
…ーーサクモが先程使った爆炎瓶とは復讐者が作っていた火炎瓶を元に火力のみを極端に底上げ、更には手軽さを少しばかり取って瓶自体は小さくしたものである。
然し欠点として瓶自体の耐久性は復讐者の火炎瓶と然程変わらず、中に詰められた爆薬の威力には耐えられない。
其処で、ペールアは己の持つ「炎」の力に纏って、起爆の魔術様式をコルク蓋に施し、極端な代物であった此の道具に安全性を付与したのである。
蓋に取り付けられている花のピンを外して投げ付ければ魔術様式による起爆、そして瓶中の高火力の爆薬に着火、爆発……という仕組みだ。
然しペールアが一日に作り出せる個数には限りがあり、また安全性はあっても確実とは言えない為一人が所有出来る個数も限られていた。
今回、サクモが使用した1つを除けば残っているのはあと2つ。………もし、此の状況で復讐者達や別の何かに遭遇でもしてしまえば最悪どうにもならない。
「大切に扱わなきゃ……大切に扱わなきゃ………」サクモは呪文の様に同じ言葉を繰り返して脳裏に必死に叩き込む。ーー兎に角楽したくても楽するより徹底的に対策を講じなければ楽する所では無いのだ。
サクモは立ち上がって己の汚れた顔を袖で拭く。
(そろそろ汚れが目立ってきちゃったなぁ…)袖の汚れを一目見てぼんやりと思いながら、彼女は嫌でも直走る。
走らなければ、進まなければ楽なんか出来無くて、怠けていたら此れ迄の分の竹篦返しを全て受ける事になる。
彼女は自分が流されて生きてきた事をもう一度後悔した。
ちゃんと自分の意思で物事に取り組まなかったツケだ。人の間を緩やかにやり過ごして流されていたばかりに自力を求められる時にこんなにも苦しい。
サクモは何度目の溜息を吐きながら、先へ先へ仕方無く進んでゆく。
答えなんて未だに見付からない状態で、彼女はペールアから与えられた役目のみを全うする。
ーー零れ落ちた欠片、或いは散らばった灰。
女神シーフォーンの生命の断章。
歩き続けた其の先で、女神の灰らしきものをとうとうサクモは見付けた。
「えっと……確かペールアさんは…灰の収められている瓶の蓋を開ければ良いって………」
サクモの行動でキュポ、と小気味の良い音が其の場で鳴り、彼女が灰の散らばる方へ中身を溢さぬ様瓶の入り口を恐る恐る向けると、瓶の中の女神の灰と散らばる女神の灰が呼応し合い、次の瞬間には散らばっていた女神の灰が瓶の中へ勝手に収まっていった。
「!!!!!」サクモはあっと驚いた様子で一連の流れを見詰めた。言葉すら失い只静かに灰が収まってゆくのを見る。
散らばった灰の全てが瓶の中に収まった時、慌てて蓋を閉めて懐に収め直した。
「……………………!!」彼女は言葉を発する余裕さえ出せず、目の前で確かに起こった出来事に驚嘆しながら其の儘で居る。
一種の焦りから来る浅く小さな呼吸が彼女の心拍を上げ、ひやりとした汗をたらりと流した。
サクモは、ペールアに言われた通りの行動をし、そして今回目的の一部分を達成させた。此の調子で何とかやって行けば、サクモ之身柄は絶対的に安全なものとなり生き永らえられ、そしてペールアの望みも同時に叶う。
ペールアの望みの詳しくは理解したくなかったが、サクモは生きる為なら仕方が無いのだ、と自分に無理矢理言い聞かせた。
「と…取り敢えず1段階目は達成した…と……、ペールアさんの所に一度戻らなきゃ…」
一先ずは本拠地へ、とサクモは其の場から即座に立ち去ろうと身を翻して動き始める。
ーー然し、彼女は己の迂闊さに気付いていなかった。
サクモが其の場から離れ、数歩先を行こうと地の一部に足を踏み入れる。
此れが迂闊であった。
彼女が全ての状況を理解するよりも早く、魔術的な拘束と捕縛が彼女の身に掛けられる。
「わーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!」
サクモは精一杯叫び声を上げたが、残念な事に誰にも届かない。
…と、誰にもという事は訂正しよう。彼女が捕縛され大きな網が彼女と共に吊り上げられると、小さな者達がぞろりぞろりと木陰から現れてきた。
「おっおー、捕まえられたぞ」
「人だねえ」
「見たことない人だなー」
ーー興味深そうに、網の中のサクモを数体のツブ族が見詰めていた。其れが彼女が見た最後の光景である。




