『Desperandum de virgine』
「う……………………、」鳩尾に受けた一打で意識を暗い海の底に沈めたサフィーが目を覚ましたのは、乾いた風が少しばかり冷たくなり戦いだ時の事だった。心無しか柔らかな風が彼女の閉じた目蓋を開かせんと睫毛を擽って、そして少女は目を覚ます。
「…………!?」少女が目覚め、意識を太陽の下へ引き上げた後、辺りを見回すと其処は只の荒野の上、遠くに、星都が見えている。
ーー風は僅かばかりに生えた草を揺らし、そして灰に塗れた赤い空は青さを少し取り戻していた。
「あ……………………」サフィーは久し振りに青を取り戻してゆく空を見た気がした。リプレサリアで見た筈なのに、彼処はまるで一つの常世の様に現実味を感じられなかったからかもしれない。
「目が覚めましたか」
少女の頭上から、柔らかに降り注ぐ光の様に掛けられた声。レミエだ。どうやらサフィーの様子を彼女は気に掛けて見ていてくれたらしい。
「…………っ、!!!星の乙女様っ!!星の乙女様はっ!!!?」
がばりと身を起こしたサフィーが慌てて辺りを見回す。…目的の人物は居ない。彼女は、傍に居たレミエの服を掴んであの方は何処!?と問うた。
「……サフィーさん、其の方はーー貴女は、現実を見るべきです」レミエの眉尻を下げた悲しそうな表情を見て、サフィーは戸惑う。「星の乙女様は…何処……」と呟く少女の声は小さく、芽は摘み取られそうな程に脆い。
現実を見るべきだ、というのは少女なりに理解している。だけど、やっと黄泉帰りを信じれた愛おしい御方。少女はまだ幼かった。だからこそ現実を受け入れ見るのは苦しい。
「そ………ふぃ……さま……………………」少女の微かな言葉は空気に溶けて、傍に居る筈のレミエにすら届かなかった。
少女はただ呆然と、何かをするという程の力も無く、レミエ達と其処に留まり復讐者がやって来るのを待った。少女がまるで虚空を見詰める様に星都の亡骸の如き廃墟を遠くに見ていると、黒い影が一つ此方に向かってきている事に気付いた。
(あれは………?)正体なんて当の昔に知っている。復讐者に決まってる。だけど其処まで考え抜いて割り出す気にはなれなかった。
「あー!おにーさーん!!!」エムオルが我先に復讐者の所へ駆けて行く。
「待たせたな」復讐者は飛び付いたエムオルの両手をしっかりと掴んでエムオルが喜ぶであろう、メリーゴーランドの様にエムオルを振り回してやる。
キャッキャと喜ぶエムオルの相手をしながら一行の様子を見て彼は安堵した。
「…ふく……しゅう…しゃ…………」少女はぼんやりと其の場に座り込んだ儘、復讐者の姿を見詰めている。
エムオルの相手をしながらエイン達の相手をしている彼がサフィーの視線に気付く筈も無く、彼が少女の視線に気付いた頃には既にサフィーは疲れ果てて、其の場で眠っていた。
ーーパチパチ、と焚き木の燃える音がする。
「疲れていたんですね……………………」少女が眠りに落ちた事に気付いたレミエが、不躾ながら野宿でもしませんか?と持ち掛けた事で一行は帰路に着く前に一旦野宿をして疲労の溜まった身体を労る事にした。
とは言えペールアの目を気にせねばならない状況下、焔の花教団や女神が襲撃して来ないとも言い切れない。
早めに火を消し、そして朝日が出る頃に此処を発とう、と約束をした上での休息だった。
「夜も深いな」
「珍しく涼しめですね」馴染みの両者が遣り取りをする様は宛ら親しい親類同士のそれであり、或いは家族の様なものなのかもしれない。
レミエは先に眠りに付いてしまったエムオルの頭を優しく撫で、眠った儘のサフィーを見守りながら二人の会話に耳を傾ける。こんな日も悪くないな、と彼女が思う頃、復讐者の「そろそろ火を消そう」という言葉が聞こえて、エインが火を消した。
辺り一面が暗くなり、空には輝かしい無数の星々が夜の帳に煌めきを与える。三人が空の星を見ながら、次の事について其々の視点で思考を巡らせ、先の世界に思いを馳せた。
決して気持ちが一致しているとは言い切れない方だが、団結が無い訳では無くて。
元々「女神への復讐」を目的に、そして「世界の解放」も決意して、彼等は揃った。
ーーリプレサリアのアムルアは寂しくしていないだろうか。
ーーユイルとオディムはどうしているのだろうか。
市場の商人達は、
科学者や医者達は、
信仰者達は、
其処に生きている皆は。
同じ空の下に生き、同じ空を見ているのだと理解すればする程に、女神達の思う様にさせてはならないと彼は決意出来る。
…………居なくなったニイスも、同じ空を見ているだろうか。
ーー場所不明、とある辺境
『…………。』カサリ、と葉を踏む足音。
か細い幹を掴んだ、青年の手。
『……復讐者?』
何処かで、自分の名を呼ばれた気がして、青年は振り返る。
其れでも、"彼"は立ち止まる事は出来無い。
探さなくてはならないものがあるから、其の為に復讐者の傍から離れ、敢えて危険に陥りやすい現出という形を取っているのだから。
(本音を言うと姿が明確に見えてしまう状態は不本意だがーー)
…でも、あるものに見付けてもらうには一番最適な状態でもある。向こうに見付けてもらう事が理想だが、向こうも一筋縄ではいかないだろう。だからこそこうして其れを探している訳なのだがーー
『そう簡単には見付からない、か…しぶといな。態々こうして寝首を掻き易くしているのにな……』
はあ…と深い溜息を吐いて、青年は更に奥深くへと進んで行った。
「う…………ふぁ……わ……………………」
少女が目を覚ました時、空は明るみを増し、目映い太陽が空の上へと登ろうとしている最中だった。
夜明け前の穏やかな青さと、まだ残る星達がまるで星の乙女を思わせる。
「星の乙女…さま………」
少女の空へ向けた呟きは誰にも届かず、また虚空に溶けて消える。
「…起きたか」
「ひゃっっ!!?」後ろから不意に声が聞こえ、驚いて身体を跳ねさせる。少女が振り返ると其処に立っていたのは黒衣の男ーー復讐者だった。
彼の蒼い瞳が、長い前髪越しに覗ける。夜明けの太陽の眩しさを宿していた其の蒼は、心無しか寂しそうに映った。
「復讐者…っ………!!」サフィーは敢えて虚勢を張った。敬愛する者の二度の死について何も知らない儘、少女は牙を向いて噛み付こうとしている。
「……………………。」そんな彼は、目の前の少女が、「星の乙女教」というものに生き様を歪められた年少の狂信者が、酷く憐れに思えた。
信仰故に歪み、そしてこういう結末を辿ってしまう事になるなんて、と。
「星の乙女様は!?星の乙女様は何処なんです!!?吐きなさい!!まだ星都に…っ」
「もう星の乙女は居ない。此の世界の何処にも、あの崩れ果てた星都にも」
ーー星の乙女はもう居ない?
「う………そ……………嘘嘘嘘!!!そんな筈は無いわ!!!!!星の乙女様は、だって、生きていたのよ!!!!!あの御方が居なくなるなんて…有り得ない!!!きっとまだ星都に居るんだわ……早く保護しなくちゃ……………」
「私は嘘を言っていない。現実を見ろ、サフィー」
少女の動揺を、幻想を否定する復讐者の言葉。
レミエに言われた様に、サフィーに向けられた「現実を見ろ」という言葉ーー
打ち明けられた真実に、打ちのめされる狂信者の少女。
(う…そ………嘘だ……そんなの…信じない…………!!………でも…でも………此の人は…一度も嘘を…言って…いなかった…)
少女は混乱し、拒絶と肯定を繰り返す。信仰者として認めたくない事実と、嘘を言わなかった男の言葉の偽りの無さに戸惑い、揺れて、錯乱の手前に押しやられる。
「じゃあ…私は………何故……………」サフィーの口から、ぽろりと言葉が漏れた。
まるで、少女の流す涙の様に。
(…私には、もう、役目なんか無くなってしまった。私が生きる必要性って、もう何も残ってない………)少女は酷な真実を知らされて尚、表に出さまいと苦痛を呑み込んだ。
だけど、呑み込んだ苦痛は深い絶望となって、少女を蝕む。思い知らされる度に何度も引き裂かれた様な感覚に陥る。
今更、彼等に靡く事は叶わない。少女はせめて敬愛した者の二度の死に付き従おうと、溢れそうになる涙を堪えて、仇である復讐者に殺されようとして嫌味な少女を演じる。
「…ふんっ、私を殺さなかったなんて。…っホント、愚かですね。あの時に私を殺していれば、貴方が殺される危難は無くなった筈でしょうに!!」
そう発した少女の言葉は震え、心許無く、寂しそうで、虚勢であると見抜けてしまえた。
「虚勢を張るな。殺せと言っても絶対に殺さん」
「じゃあ私をリプレサリアまで連れて、其処で拷問の類でも?」
「そんな事をする趣味は無いし、女神と一緒にするな。頼むならペールアの所に行くか……それか…スノウル……辺りにしておけば良い」
死ぬなら女神か、スノウルという者の所へ行けーー
「っ……………………」少女は苦しそうに眉を顰めて、悔恨の情を見せる。
死ねなかった、守れなかった、生き延びてしまった……そう云う感情が、少女の胸の中を交錯する。
「……………………。」復讐者は瞳を細めて、そして少し沈黙した。
沈黙を経て、他の仲間が起き始めた頃、彼は口を開く。
「そろそろ帰路に着くぞ、準備しろ、お前も帰るんだ。リプレサリアへ」
失意の少女へ、彼の静かな言葉が重く降り掛かる。




