『Caeruleis oculis meis』
ーーバサバサ、と資料が落ちてゆく。
ーー…手応えはあった。
己の持っていた硝子の短剣が、確かに復讐者の肉体を貫いたのだ。復讐者も身を屈めて其の場に立ち尽くしている。
(…やった、やったのね。……だけど、何故…?)
少女は異変に戸惑う。刺した筈なのに目的の復讐者が倒れない。寧ろ沈黙しているのが却って不気味だ。
…すると、ぬるりと生暖かな何かが少女の手に付いた。少女が思わず目を遣ると、短剣を伝って自分の手に真っ赤な血がべったりと付いていた。
「ひ………っ…!」
少女は思わず己の武器を手放してしまった。血に塗れた己の手を見て、小さな悲鳴を上げてしまったのだ。
「………っ、汚れた事も無いから、悲鳴を上げられるんだ」
刺されてから静かだった復讐者が喋り出す。少女ははっと我に帰って復讐者へ向かって怒鳴った。
「う…うるさい!!貴方は、貴方は!!沢山の女神や追従者を殺した手の癖に!!!」
殺害に失敗してしまった少女なりの牽制と虚勢を振るう。
「…ふ、ははっ。よく…言えるな、そんな事…………」
復讐者は俯いた儘口元だけを吊り上げて笑った。
「お前は、星の乙女教徒の一人か。随分と敬虔な奴だったんだろう、だが、私が殺してきた女神や追従者の数なんて高が知れてるぞ、ーー寧ろお前が信奉している女神達の方が私よりも遥かに多くの人間を殺している」
「違うわ!!女神様達は当然の事をしただけよ!!!!!貴方に何が分かるっていうの!!?」
少女の怒りは復讐者へ向けられ続いている。
「分かりたくも無いね!!私の大切な人を殺し、多くの人間から大切な人やものを奪い取り続けた奴等の事なんて。現に今も、"女神"は世界も人間も蹂躙し苦しめている!!!!!!!!」
身体を少しよろめかせながら、復讐者は立ち直る。…少女の短剣は彼の腹部を貫く事無く、彼の手を貫いていた。
「あ……………っ」少女は彼の手を見て驚愕する。己が彼の腹部を刺し穿とうとする瞬間、彼は咄嗟に自分の手で庇ったのだ。ーー然し思ったよりも深く刺さっているらしく、止めど無く血が流れ続けている。
「…貴方……自分の手で庇ったのね……!!自分の身体を………!!!」
少女を前に、復讐者は深く刺さった硝子の短剣を抜き取る。
短剣が抜き取られた手からは、ぶしゅりと沢山の血が溢れ出た。復讐者は何も手当てをせず、血だらけの手をぐっと握り締める。
更に溢れ出た彼の血が、足元に赤い血溜まりを作っている。
「………私は、私は此の程度では死なんさ。死線を潜り抜けた身だ、其れに死ぬ事は怖いとは思わない」
「思わない、ですって…!?」少女の赤紫の瞳が驚きで大きく見開かれる。
「そうだ。"約束を果たせなかった"事を悔やみはしても、死を怖いとなんて思わない。最早私が死を恐れる事はずっと昔に置き去ってしまった。ーー人並みの感性だろう。其れを取り戻す事はもう叶わん」
皮肉なものだ、と彼は己へ向けて嗤った。
「ーーだが、先程、お前が己の手に付いた血を見て恐れた其れはお前がまともに生きられたからだ。人並みの感性とは、そういう事なんだ」
「あ……………………」少女は己の両手を見遣る。真っ赤な血がぬるりとこびり付いた儘其の手を汚している。付いた血を見て、思い出す。黒い剣に貫かれた星の乙女の姿を。電飾の明かりの中でも見えた黒い染み。其れが彼女の血である事に気付いて、必死に止血しようと駆け出したーーけれど間に合わず、其処に辿り着いた時には既に彼女は息絶えてしまった。
息絶えて、光の粒になって消滅した。
…自分が侍女として星の乙女に仕える日であった筈だった。乙女が消滅した日。
一介の星の乙女教徒の少女であったサフィーが、彼女を殺した者へ激しい憎悪を抱いた最初の日。
力の弱い彼女が機会を窺い続けて、やっと巡ってきた今回。
…………なのに。
「あっ、いたー!!!!!!!!」
妙に気の抜けた声が回廊中を響き渡った。
「いたー!!いたよ、アムルア、あの子だよね???」
…エムオルが空気を読まず何だか少し嬉しそうにしている。
「…エムオル」
「こびと、さん………」二人が呆然としている様子を余所にエムオルは復讐者の姿を見て、あっと驚く。
「!!!?!?!?んん!!?おにーさん、おてて、けがしてるよ!!!」
颯爽と駆け寄って傷付いている復讐者の手を必死に抑える。
「あわわわわ」エムオルが抑えても其の手が小さ過ぎて残念ながら抑え切れていなかった。
「おねえちゃん、おねえちゃんがしたの?」アムルアが後から少女の傍へ寄り、事の元凶は君かと訊ねる。
少女は苦い顔を浮かべ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
ーー答えられない。
己のした事に対して、「そうだ」とたった一言さえ吐き出せないでいた。
ただ少女に出来る事と言えば、復讐者の傍らに落ちている己の武器ーー硝子の短剣を拾い上げ、其の場から駆けて離れる事だけだった。
「ッーー!!!」
何かに怯える様に、悔しそうに、其の場から走り去ってしまった。
「あ……」アムルアは思わず片手を伸ばして引き留めようとしたが、間に合わなかった。
(おねえちゃんの………)少女が落とした物を渡しそびれた儘、アムルアは立ち尽くす。
「んーもー、何でこうなっちゃったの、ねー」一方、エムオルは自身も血塗れになりながら応急の手当てを施していた。
「すまんなエムオル」復讐者は少し脂汗を滲ませていたが、どうという様子は無さそうに振る舞っている。ーーだが、彼の手は思ったよりも損傷が大きく傷は深かった。
早く医務室に向かわなくては。
エムオルは立ち尽くすアムルアへ、レミエを呼んでこいと一言だけ伝え、アムルアはレミエを呼ぶ為に走り去って行った。
復讐者とエムオルは、少女が付けた傷を見ながら医務室へ向かう。…そんな中で、復讐者は少女の持つ行動力に関心を向けていた。




