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草の歌声

作者: 稲本 楓希

 ネクタ・グリクヒ・シセ・ラカタ



 歌声が聞こえる。僕のよく聞き慣れた歌声だ。


 水晶のように透き通っていて、でも不思議と日なたのように暖かくて、けれどどこか夜の闇のように空虚だった。



 ヌリクハ・クゼセ・ターロバク

 リムサコス・イスズマイェ



 その自然で不自然な声に惹かれて、僕は歌声の後を追って目の前に建つ屋敷の二階にある窓に目を向けた。


 窓は開かれていて、清潔感のある白いカーテンが風に煽られてはためいている。



 ナムユーユ・テレミトト

 イヌマニヌ・ナラカトゥ・リティフダトゥ



 そのカーテンの向こうにあの人がいる。生きている。そう思うだけでにわかに胸が高鳴った。



 ネクタ・ナエユ・クラセ・トゥイモルコ

 リムサコス・イスズマイェ



 これは僕の心の奥底に残る、僕の物語の、最初の追憶――






「――残念ですが、お嬢さんの病はいまだにはっきりした原因が分からないんです。とりあえず今処方している薬で進行を遅らせることはできているはずなんですが、とにかく引き続き――」


 ドアの向こうからお父さんのくぐもった声が聞こえる。


 こんなに申し訳なさそうなお父さんの声色は、ここ以外の場所では聞いたことがない。


「ほら、エル、そんな暗い顔しないでよ。このことはあなたのせいでも、アルハルトさんのせいでもないんだから」


 ベッドのへりに腰掛けていたあの人は、努めて明るい声で言った。


「そんなこと言っても……」


 僕は(うつむ)きがちにつぶやいた。責任を感じる必要はない、というあの人の言葉は頭では正しいと思ってた。


 でも本当はそれだけじゃなくて、僕は悔しかったのだ。お父さんをもってしても病気の原因さえ分からないというのは初めての経験だった。


「じゃあ、マナお姉ちゃんはどうしてそんなに明るくしていられるの?」


 僕はいつもそうやって尋ねた。


「悩んでもどうしようもないって分かってるからよ。今の自分にできることを精一杯やろうと思ってるの」


 そしてあの人はいつもそうやって答えた。






 あの人と出会ったのは、あるうららかな春の日だった。その日、お父さんは薬草園の種まきをしていて、僕も手伝わされた。


 種まきの仕方は薬草の種類によっていろいろ違って、ただパラパラと撒けばいいものから、決まった間隔ごとに指で決まった深さの穴を作って、そこに種を入れてから土を柔らかくかけてあげなければいけないものまで、そのやり方は事細かに決まっていた。


 僕が少しでもやり方を間違えると、お父さんは怒りはしなかったけど、どうしてそれが間違っているのかということを答えさせて、それでも僕が分からなかったら植物に関するややこしくて面倒臭い話を始めた。


 お父さんはここにある薬草はどれもとても貴重なものだから、大切にあつかわないといけないといつも言った。


 そのたびに僕は、だからといってどうしてこれほど細かい取り決めを守らなければならないんだろう、と思った。




 家の戸を叩く音がして、お父さんは土で汚れた手をタオルで拭きながら玄関に出ていった。


 かすかに聞こえてくる話し声からすると、どうやら診てほしい病人がいる、という仕事の依頼だった。


 お父さんは僕に一緒について来ないかと尋ねた。僕が嫌だというと、じゃあ留守番して種まきの続きをやれと言われた。仕方がないのでついて行くことにした。




 着いたのは町中に佇む大きなお屋敷だった。それなりに儲けている商人の別荘、という感じだった。


 でも周りにある他の同じような家と違って、不思議と威圧的な感じがしなかった。お父さんを呼びに来た使用人に連れられて、僕らはその屋敷の門をくぐった。




 その時だった。僕が初めてあの歌を聞いたのは。


 二階の窓から漏れ聞こえるその歌は、奇妙で神秘的なメロディーだった。それに歌詞は僕の知らない言葉だった。ミストレア語という昔の人達の言葉なのだと、あとでお父さんが教えてくれた。


 ともかく僕はその旋律と音色に心を奪われていた。お父さんのあとについて屋敷の中に入って、お父さんと屋敷の人が話し込んでいた時も、その言葉は僕の耳に入らなかった。


 やがて僕はお父さんに連れられて屋敷の二階へ上がった。歌声は少しずつ近づいてきた。廊下を進んだ奥の扉を使用人がノックすると、だんだんはっきりとしてきていた歌声が驚いたようにぴたりと止んだ。扉の向こうから声がして、了解を得た使用人は扉をしずしずと開けた。


 部屋の中には天蓋つきの立派なベッドがあった。そしてその支柱にもたれ掛かるようにして、あの人は立っていた。


 綺麗な人だった。こんなありきたりな言い方しかできないことが悔しく思えるほどに、綺麗な人だった。僕より四歳か五歳くらい年上のようだったけど、幼心に僕は一目でこの人を好きになった。






 あの頃の僕は、お父さんの仕事が嫌いだった。人を助ける大切な仕事だということは分かっていたけれど、かといって楽しんでできるものとは思えなかった。だから僕は、ただの町の薬師として一生を終えたくないと思っていた。


 旅に出ることが夢だった。この町を檻のように囲む山や海を越えてその先にあるなにかが見たかった。そこには今までと違うものがあると思った。


 僕は広い世界が欲しかった。




「マナお姉ちゃんはさ、いつもこんな狭い部屋にいて、退屈しないの?」


 僕はあの人に聞いた。そういう質問があの人にとってどれだけ辛いことかは、あの時の僕は考えてもいなかった。


「そりゃあ退屈するわよ。でもこの部屋だって、そんなになにもかもないわけじゃないわよ」


 あの人は言った。


「ここにいればたくさんの本を読めるし、窓から外を見ればお屋敷の庭も、ヴァルシアの町並みも、その先の内海だって見えるわ。チョウチョとか小鳥が遊びに来てくれることだってあるし。それに君もね」


 あの人に微笑みかけられて、僕はなんだか胸がどきどきした。


 そうしてあの人は僕に、庭に咲くいろんな花や、植えられている木のこと、その枝の上に巣を作る小鳥の話をしてくれた。


 あの人の話し方は独特で、まるで自分がその木や花や小鳥そのものになりきったように話した。おとぎの世界で冒険しているみたいだった。


 お父さんから聞くとあんなにつまらない植物の話が、あの人の口から聞くとどうしてこうも魅力的に感じるんだろう。そう、いつも思っていた。






 初めて聞いた時から、僕はあの人の歌が大好きだった。そしてそう思っていたのは、僕だけじゃなかった。


 屋敷にはよく、あの人の歌を聞きたいという人がやって来ていた。そういう人たちは屋敷に上がりたいと言っては断られて、あの人の部屋の軒下に座って窓から流れる歌に耳を澄ますことになった。


「体さえ丈夫なら、彼女は歌姫として一躍有名になれるだろうに」


 聞いた人たちは誰もがそうつぶやきながら、名残惜しそうに帰って行った。




「わたしは歌うのが好き」


 あの人はそう言う時、いつもどこか遠くに別の世界を見るような目をした。


「この部屋から出て行くこともできないわたしが自分を外に出せる、ただひとつの方法だから」


 どうして歌が好きなのかと聞くと、あの人はそう答えた。


「わたしの歌なんてたいしたものじゃないけれど、それでも聞きに来てくれる人がいる。だからわたしはせめて、思いをこめて歌うの。その歌が聞く人の心に少しでも残ったら、歌に込めたわたしの思いは、その人と一緒に世界を旅することだってできるわ」






 後になって思うと、あの人はそう思うことで自分を守っていたんだと気付く。どこにも行けないあの人は、そのことで自分が絶望してしまわないように、今あるものの中に、広い世界を見つけようとした。


 それに比べて、やっぱり僕はまだまだ子どもだった。今あるものに満足できなくて、どこか別の場所に僕を待ってる広い世界があると思っていた。


 だからお父さんの仕事の手伝いをしている、それしかできていない自分にあせって、もどかしかった。






 でもあの人も、今あるものだけで本当に満足できているわけじゃなかった。


「……エル、わたしね、一つだけ、行ってみたいところがあったの」


 たった一度、本当にたった一度だけ、あの人は僕にそう言った。いつも通り他愛のないいろんな話をして、僕が帰ろうと思った矢先のことだった。


 アンリアの町。内海を挟んで反対側にある、ファルスト王国西岸の港町だった。そこはアクレアス大陸のなかで一番音楽が栄えていて、町中はいつもすばらしい音楽に包まれているという話だった。


 いつかその町に行って、歌を歌ってみたい。それがただひとつの夢だったと、あの人はとつとつと話した。その時のあの人は、僕があの人に出会ってから見てきたなかで一番、寂しそうだった。


 いつも明るいその顔が泣き濡れているのを見たくなくて、僕は急いで部屋を出て行った。






「あの子の病気はね、不治の病なんだよ」


 お父さんは机に向かったまま、僕に言った。


「お父さんも最善は尽くしているけれど、正直なところいつまで生きていられるかも……」


 そういいながら、お父さんは机の上に開かれた本のページをめくった。そしてそのページで見つけた何かを、ノートに書き取る。


「……僕には、何も、できないの?」


 目が潤み涙が零れるのを堪えきれないまま、僕は聞いた。


「薬草学に出来ることには限りがあるんだよ。いいかい、エル」


 お父さんはふいにペンを机に置き、椅子を動かしてエルに向き直った。


「お父さんはこの町で十年近く薬師をやってきた。その中でいろいろなことを学んできたが、本当に大事なのは病気に気持ちで負けてしまわないことなんだよ。たとえ正しい薬を処方していても、その患者が希望を持てないままだと思ったように効かない時もある。逆に本人が気持ちを強く持っていたら、治らないと言われていた病気が治ることだってあるんだ。お前はそばにいて、いつもあの子の心を支えようとしてくれているじゃないか。それはお前が思っているよりずっと大事なことなんだよ」


 それでも僕はまだ納得できなかった。自分が何もできていないような気がして、焦ってた。なにかしなきゃいけないと思って、お父さんの目を盗んで薬草学の勉強を始めた。いまさらお父さんにお願いして教えてもらうのは気恥ずかしかったのだ。


 お父さんがいない時に本を持ち出して読んでみようとしたけれど、思った通りの細かい文字の羅列にめまいがした。しかももともと書かれている文字の間に、お父さんのメモ書きがぎっしり書き込まれていた。


 本当に、どうしてお父さんはこんな面倒なものを真剣に勉強できるのだろうと不思議でならなかった。






「植物って本当に面白いのね」


 あの人はある時から、本格的に植物に興味をそそられるようになっていた。


「この前本で読んだんだけれど、ロンドール王国には、ヤミジソウっていって、夜中に光る花があるそうよ。いったいどうやって、何のために光ってるのかしらね」


 どうやら僕のお父さんからも本を借りたりしているようだった。といっても僕が無謀にも読もうとしたような難しい学術本ではなくて、この大陸のあちこちにあるいろんな草花を載せた図鑑のようなものだ。


「そういえばエルも最近、植物のお勉強しているんでしょう?」

「え……どうして知ってるの」


 いきなり言われて、僕は面食らった。このことはなるべく誰にもばれないように気をつけていた。あの人の役に立ちたくて勉強していると知られるのが恥ずかしかったからだ。


「アルハルトさんが言っていたわ。うれしそうだったわよ。今まであんまり興味持ってくれなかったのにって」


 どうやらお父さんには見抜かれていたようだった。持ち出した本はなるべくもとと同じように戻しておいたのだけれど、注意深い性格のお父さんの目はごまかせなかったようだ。


「エルも、将来はアルハルトさんみたいな薬師になるの?」


 ちょうどその時ずっと頭を悩ませていたことだった。


「分かんない。ためしに本を読んでみたりはしたけど、僕には難しすぎて……」

「エルはまじめすぎるのよ」


 するとあの人は微笑んで言った。


「どうせまた、いきなり分厚い学術書でも読もうとしたんでしょう」


 図星だった。


「勉強だってなんだって、まずは楽しめるところから始めなきゃ、続かないわよ」

「でも、薬師になるんなら、難しいことだってちゃんと勉強しないと」


 僕はめずらしく、あの人に対して口を尖らせた。お父さんみたいに、という言葉はなぜか喉に詰まって言えなかった。でも、あの人はなんとなく察したみたいだった。


「だけど、きっとアルハルトさんだって、植物学を勉強しようと思ったのは、それがおもしろいって感じる理由があったからだと思うわよ」


 それは考えたことがなかった。あの頃の僕の目には、お父さんはただ人を助けるための使命感で薬師をしている、良くも悪くもまじめ一辺倒な人間としか映っていなかった。






「お父さんが植物学を学ぶことになったきっかけ、ねえ」


 僕はお父さんに質問してみると、お父さんは遠くを見るような目をして言った。よく考えたら、九年もこのお父さんの息子でいるのに、今まで聞いたことはなかった。


 お父さんは、机に向かって前屈みになっていた体を起こして伸びをすると、今度は椅子の背もたれに寄り掛かって短くため息をついた。


「そうだな……エル、聞いても絶対に笑わないでくれよ?」


 お父さんは僕のほうを見て、意味深に言った。


「うん。分かった」


 僕が誠意を込めた声で言うと、お父さんはどこか決まり悪そうに苦笑いした。そして、言った。


「……お父さんが子どものころな、好きな人がいたんだ。その人が無類の植物好きだったんだよ。その人に振り向いてほしくて、勉強した」


 僕は、直前に約束したことも忘れて、思いっきり吹き出した。


「笑うなって言っただろう!」


 怒ったような言葉とは裏腹に、お父さんの目にはなんだかんだいって面白がっているような色が見えた。


「だって、お父さんのこと、だから、もっと、人助けとか……まじめな理由が、あるのかと思ってたから……」


 僕はお腹を抱えたまま、止まらない笑いの隙間から押し出すように言った。


「エル、お前はまじめ過ぎるんだよ」


 あの人と同じことを、お父さんは言った。


「たしかに、誰かの役に立ちたいという気持ちも、実際に人の役に立つことも、とても大事なことだ。でも、お前自身が満たされていないで、他の人を幸せにできると思うかい?」


 その言葉は、不思議と僕の心に強く響いた。言われて見ればここ最近、あの人の役に立たなきゃ、という使命感だけが先走って、空回りしていた自分に気づかされたからだ。


「お父さんも最初はそんな理由で植物学を始めた。でもそんなくだらないきっかけでも、それがあったおかげで、自分がこの分野に向いていると気付けた。そしてそのおかげで、今こうして薬師として人の役に立てている。だからエル、お前も難しく考えすぎず、やりたいと思えることをすればいいんだよ」


 その言葉に僕は半ば励まされ、半ば意気消沈した。僕には、これといってやりたいことと言えるものがないように思えた。


 それはそれとして。


「……ねえ、お父さん、その恋の結末はどうなったの?」


 いくら聞いても、お父さんは答えてくれなかった。






「やりたいことが分からない?」


 あの人に相談すると、どうしてかあの人はちょっと面白そうに聞き返した。


「エル、前に旅に出てみたいって言ってたじゃない。あれは、どうなったの?」

「そりゃ……旅はしてみたいけど。でも、そんなのでいいのかなって思う。なんだか、目の前のことから逃げようとしてるだけなんじゃないかって」


 僕は自信のない声で言った。前にその話をあの人にしたあと、もう家から外に出ることもできないかもしれないあの人に対して、旅の話をするのは不謹慎だったんじゃないかと、自責の念にかられていたからでもあった。


「あら、素敵な夢じゃない。旅ってすばらしいと思うわ」


 あの人は弾んだ声で言った。その言葉に、僕は少なからず驚いた。たしかに前から、あの人は外国の話とかをするのが好きなのだろうと思ってはいたが、この家の外にいるあの人を、僕は想像できなかったのだ。


「言ってなかったかしら。わたし、貿易商の娘なのよ」


 そんな僕の気持ちを察してか、あの人は続けて話した。


「だから、病気になる前はいろんな場所を見てきたわ。わたしがよく歌ってる歌も、旅芸人の人たちから教えてもらったのよ。昔の言葉だから、もう誰も歌詞の意味は知らないらしいけど。でも、それもまた神秘的じゃない? 内容も分からないまま、ただ音の並びが持つ不思議な魅力によって歌いつがれてきた歌……」


 なにかに惹かれているかのようにぺらぺらとしゃべっていたあの人の声が、そこで少しだけ澱んだ。


「……いつか自分も歌い手になってみたいって夢を持ちはじめた、その矢先のことだったわ。気づけばわたしは家族からも夢からも見捨てられて、こんな部屋のなかでひとり……」


 病気であることが信じられないほど、普段はかげりを見せることのないあの人の瞳に宿る光が、ふっと揺らめいた。


「エル、『いま』を大切にしてね。すぐには、道が見えないこともあるかもしれないけど……そうして悩んでいる時間も含めて、ぜんぶ……」


 どこか懇願するようなあの人の言葉は、いいようのない深い重さを持って、僕の心に染み込んだ。




 ~~~~~~~




 どうして、こんなにも昔のことを思い出したのだろう。目を覚ました僕は、長いことひとり物思いに耽っていた。


 寝床に使っている狭い洞窟の入り口の方を見ると、星空が見える。外はまだ、真夜中だった。


 でも僕の心はいまだに、あの不思議に鮮明な夢、というより記憶の、昼下がりの光の中にあった。


 明日のためにゆっくり休まなければならないことは分かっていたが、このままもう一度寝付けそうには思えなかったので、僕は気分転換をしようと、寝袋からはい出て、星の光だけをたよりに洞窟の外に出る。


 夜の冷えた風が、僕の肌の上と、心の中を通り過ぎる。目の前には、はてしのない星の海と、その中に影となって浮かび上がるロンドール独特の山岳風景が広がっていた。


 あれから、何十年という時が経った。いろいろなことがあった。


 今、僕は本当にやりたいことを見つけられただろうか。たしかに楽しいことも幸せなこともあったし、やりがいのあることにも関わってきた。いくつもの旅を経験し、数えきれない人と出会い、多くのことを学んできた。


 でも僕はいまだに、本当の自分を知らないような気もした。生きていくなかで、自分というものは確立して行くものなのだろうと、昔は思っていた。生きてきて分かったことは、人は絶えず変わっていくものだということだった。


 でも、それが人生なのだろうとも、今は思うことができた。


 僕はこれからも変わっていくだろう。そして、変わっていくことこそが僕なのだ。


 それを、あの人は知っていたのだろう。だから、どうなるか分からない未来に不安になったりせず、『いま』を大切にしてほしいと言ってくれたのだろう。そのことが、いまならやっと少し理解できる。


 だからこそ、たとえ未来が見えなくても、『いま』を信じて、僕はこれまで歩んでくることができたのだ。




 ありがとう。




 その言葉が、自然と心の中に浮かんできた。たとえその真意を分かっていなかったとしても、あの時のあの人の言葉、思いが、僕をこれまで支えてきたのだから。


 今も耳に残る、あの人の歌。その歌に込められた思いが、僕とともに旅をしてきてくれていたのだ。


 ふいに星空が潤んで見えた。目を伏せて、涙を拭う。


 その時、ふと足元に光るものに気がついた。




 それは、宵闇のなか、たった一輪で咲くヤミジソウだった。




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