七章「揺らぎ」
帰宅してふと窓の方を見ると案の定大粒の雨が降っていた。
雨はザーザーと屋根にあたっては激しい音を立てている。
時計の針はちょうど5時を指していた。
爽は念のため「こっちは凄い雨だけどそっちは大丈夫か?」とメールを打ち、夏葵に送信した。
爽はそれからソファに座り、一息ついた。
『急に涙を流したり睨んできたり怒ったり、かと思えば哀しそうな顔をするし…あいつのことが全然わからねぇ』
一人悶々と考えていると玄関から「ただいまー」と姉である沙月の声がした。
「おかえり、姉ちゃん。帰ってくるの早いね。友達と遊んでたんじゃないの?」と言って沙月の方を見ると沙月の服はびしょ濡れだった。
沙月は「急に雨が降ってきたから早目に帰ってきたの」
と答え、更に「お母さんたちは?」と聞いてきたので爽は、「今、買い物に行ってるみたい」と返した。
沙月はふーんと言って爽を一瞥すると、
「もしかして夏葵君のこと?」と意味ありげに言ってきた。
急に夏葵の名前を出されて夏葵は一瞬固まってしまった。
「どうして…」
爽が言いかける前に沙月が「あんた今日夏葵君と出掛けるって嬉しそうに言ってたじゃないの」と呆れ顔で言った。
『そうか。俺が自分で家族に言ってたのか』
爽はなんだか恥ずかしくなった。
爽は心を落ち着かせるため用意したコップに手を伸ばし、麦茶を飲もうとコップに口を近づける。
すると沙月がサラリと「夏葵君ってさ、なんか可愛いよね」と言ってきたため夏葵は思わず自分のコップを落としそうになった。
その様子をきょとんとした顔で見つめていた沙月は、
「やあねぇ、男としてとかじゃなくて人として可愛いって意味よ」と言いながら笑った。
爽は『いや、男としてはもちろんだけど可愛いか?あいつ』と思ったが面倒なので代わりに、
「例えばどのへんが?」と聞いてみた。
沙月は、「うーん…。どこと言われてもねぇ…。」
と少し考えてから、
「素直なとこじゃない?」と言った。
「ほら、前うちに来た時に葉月と遊んでくれたじゃない?一緒に遊んでくれてる時の笑った顔がなんか可愛くてね」
爽は少し前に夏葵がうちに遊びに来た時のことを思い出した。
本当の目的はうちで一緒に勉強をすることだったが葉月が駄々をこねたため、結局早目に勉強を切り上げて葉月のお守りをすることになったのだ。
葉月は爽より13歳年下の妹で、仕事で忙しい母に代わって夏休み中は時々爽が面倒を見ていた。
夏葵は「ガキの扱いなんて分かんねぇ」とブツブツ言いながらも葉月に笑顔を向けられ、つられて笑顔になっていた。
二人が笑いながら遊ぶ姿は本当の兄妹のように見えて、爽は家族が一人増えたみたいで嬉しいような不思議な気持ちになった。
爽がその時の様子を思い浮かべながら口元を緩ませていると沙月が、
「あんたはどうなのよ」といきなり質問を爽に振ってきたので爽は、
「いや…別に…」としどろもどろになりながら言葉を濁した。
沙月は「何よーそっちから聞いてきたくせに」
とブツブツ言いながらさっさと自分の部屋に行ってしまった。
「素直なとこじゃない?」
爽は沙月の言葉を反芻していた。
夏葵は確かに素直だ。
『いや、素直…というか融通が利かないというか…』
しかし爽は真面目で嘘の無い夏葵の性格が好きだった。
弟のいない爽は葉月と無邪気に遊んで笑う夏葵を見ていると、『俺に弟がいたらこんな感じなのかな』
と何だか微笑ましくなった。
爽の視線に気づいた夏葵が「何だよ」と少し照れたような顔になって慌てて爽から目を逸らす。
『こんな顔もするんだ』
その瞬間、爽は無意識のまま夏葵に「可愛いな」と言っていた。
夏葵は突然の爽の言葉にポカンとしている。
『しまった』
「悪いっ今のはその…」
爽が焦りながら必死に言い訳の言葉を探していると、
「当たり前だろ」と想定外な返事が返ってきたので爽は思わず夏葵を二度見した。
「葉月は可愛いだろ。俺、ガキはあんま好きじゃねぇけど葉月のことは好き」
夏葵は葉月の頭を優しく撫でながら目を細める。
爽は一気に気が抜けて『夏葵が鈍くて本当に助かった…』と心の中で叫んだ。
思えばこれが夏葵を初めて意識した瞬間だったと思う。
『夏葵のことが知りたい』
伏せられた睫毛が幽かに影を落とした時、爽は夏葵を綺麗だと思った。
夏葵の照れた表情困ったような表情、子供っぽく拗ねた表情、夏葵のことを知るほど爽は嬉しい気持ちになったが同時に自分が夏葵へ抱く感情に戸惑いも覚えた。
『まずい。夏葵にすごく心を持っていかれる』
夏葵の髪に触れた時、夏葵が葉月と重なった。
それで葉月にするみたいに夏葵の頭を撫でた。
そう思っていたのに…
『あれも下心からだったのか?』
あの瞬間、心の内を見透かす様な鋭い目で見つめられ爽の心臓は大きく脈を打った。
『あの時俺は夏葵からも夏葵に惹かれる自分の感情からも逃げ出したんだ』
爽は拳を強く握りしめた。
『俺はずっと前から夏葵を…』
自分の感情に気付きたくなかった。
夏葵に気付いて欲しくなかった。
だから俺は夏葵から離れた。
夏葵のことを好きだと認めてしまえばきっと今のままではいられない。
夏葵を好きだという気持ちが今はこんなにも胸を締め付ける。
『鈍いのは俺か…』と爽は苦笑した。
『ごめん、夏葵…お前は大切な親友だけど、俺はもうお前を親友として見られない』
爽の瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。
『この状況…前もどこかで…』
思い出した。
夏葵もあの時泣いていた。
爽の目の前で急に涙を流した夏葵の表情が酷く哀しげだったのを覚えている。
『あの時あいつは何で泣いていたんだ?』
考えようとした途端玄関から「ただいま」と母の声がしたので慌てて時計を見るともう7時を回っていた。
葉月がパタパタと駆け寄ってきて「お兄ちゃん、ただいま」と嬉しそうに抱きついてきた。
「おかえり、葉月」
爽は葉月の頭を撫でた。
すると葉月が「お兄ちゃん、どこか痛いの?」と心配そうに聞いてきた。
「目がまっかだよ」と目をぱちぱちさせながら爽に知らせる。
爽はハッとして「大丈夫、何でもないよ」と急いで笑顔をつくった。
「爽、ただいま」
「夕飯の支度をするから手伝ってくれる?」
台所から母である結月の声がしたため爽は葉月に
「ありがとな」と言って急いで台所に向かった。
台所に入るなり結月が
「爽、どうしたの?目が赤いよ」と心配そうな口調で爽に聞いてきたので爽は「何でもないよ」と言ってすぐに夕飯の支度を始めた。
「そう…なら良いんだけど」と言いながらも結月の表情はどこか不安そうだった。
爽は「本当に大丈夫だから、ありがとう母さん」と言って母を安心させるが内心は焦っていた。
『葉月だけじゃなく母さんも心配してる』
爽は夕飯を済ませ、早めにベッドに入ったがなかなか眠気がやってこない。
眠ろうとすると余計に目が冴えてきたため爽は起き上がってベッドの端に腰を下ろした。
原因は分かっている。
このまま自分の気持ちを閉じ込めてしまえばいい。
『だけどこのまま自分の気持ちに嘘を吐き続けるのか?』
『その後、後悔するのは自分じゃないのか?』
伝えたい。
ただ一言、「好きだ」と。
近くて遠い夏葵に。
『どうせ傷つくならちゃんと夏葵に気持ちを伝えてからだ』
爽は強く目を閉じた。




