傘下
ーーーもうかれこれ三日に渡って雨が降り続いている。
気温は低いが、可也の厚着をしているので特段寒いと言うことはない。傘の下で暫く自分の白い吐息を眺めていた。雨の日は、孤独や憂鬱さに無意識の内に襲われるものである。瓦屋根から水が滴り、その音が絶え間なく響く。油断をすれば、路面に足を滑らせることもあるだろう。然し乍ら、私にとって雨がそれ程苦手というわけではないことは後述からお分かりいただける事だろう。
何にせよこんな日にわざわざ傘を差して家の外を出歩いているのである。よっぽどの物好きか或いは、浮浪者の身分であるのか。と言えども、後者にあたっては傘を差すこともしないだろうから、勿論私は前者の立ち位置にいると言える。
話を戻して、その理由が如何なることであるか、それを知るためにはまず私の幼少時代についての出来事をお話しする必要があるだろう。
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これは私が倅の頃の話である。私にとってその幼い時には『雨』と言うものが不思議でならなかった。何故空から無数の雫が落ちてくるのか、そんな疑念が幼いながらに浮かんできたのである。
ある人はそれを神様の尿であるとも言ったが、そうなると神もまた人間と同じように飲食をしていることになる。その頃の私にとっての神とは人間と似ても似つかぬ、食事と言う行為さえも行わない崇高な存在であると信じ切っていたので、どうもその説は信用し難いものであった。
そして最終的に至った結論は『雨』というものは、唯『有る』だけでそこに原因や意味を求めるのは誤りであると言った、何とも極端な答えであった。
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だが、今となってはそんな思考もその後の記憶の積み重なりもあってか年々色褪せていった。しかしその結論とも言えぬ答えに辿り着いたとき、私はどうしようもなく心地の良い気分に浸ったことは今でも鮮明に覚えている。
この妙な体験は今でも私の『ある現象』に対しての疑念に影響を与えている。いや言い方を変えれば寧ろその疑念さえも、もう浮かばなくなったのである。と言うのも、私の『雨』という現象に対して辿り着いた結論は、万物の『あらゆる現象』に共通するものだったからである。
その若々しい感性を有していた頃の自身を懐古しながら、この世の『あらゆる現象』に大して興味の念を抱かなくなった今の自分に対して、この『雨』を眺めながら失望しているのである。
だがそれと同時に、失望とは裏腹にある気分の良い感情が浮かび上がった。それは『懐かしさ』であった。『雨』の匂いやその音、そして何故その事象が起こるのかという疑念。その全てが私にとっては素晴らしい青春だったのである。
あの幼少の頃に見ていた景色を今でも愛するのはその為か、或いは唯憂いているだけなのか。それを突き詰めるのも無駄な事だと、またあの思考放棄とも言える思念が浮かび上がる。
絶え間なく続く雨の音に耳を澄ましながらこの問答を続けていたが、どうも何時までも答えが出ることはなさそうである。唯、その中で私はどうしてもやはり心地の良い気分になる。『雨』であるのに、まるで快晴のような、澄み渡った空のような感覚が私を支配する。やはり雨は良いものだと、直感がそう判断する。理屈では語ることのできない、そんな本能的な、動物的な欲求がこの『雨』を欲しているのである。
そのことに気づいたとき、私は考える事を止めた。ならば唯ここに佇んで、気分に浸っていた方がどんな事よりも良いだろうということを知ったからである。傘の下で、服のところどころを濡らしてまでこの雨の中にいたいという感情が今の私を支配している。
私が今尚こうして雨を愛し続けているのは以上の理由からである。未だ雨は降り続き、止む気配はない。その中で一人、私は傘を右手に持ち、その音やアスファルトや土の濡れたにおいをいつまでも味わっていた。もう少し、もう少ししたなら家へ帰ろう。唯今はもう少しだけこの『雨』の気分に浸っていたいものである。ーーー
前の作品と同じような題材ですがあしからず。相変わらず稚拙な文章で申し訳なく思います。もっとこれから文章の力を磨き上げていって「人間の心情」をより細かく描写できるように努力していきますので、今後とも応援よろしくお願い致します。




