降り続いた雨
「ごめん。でも、解らないの! ……好きなのかどうか。……七海ちゃんのことが好きなはずなのに、こんなことおかしいって、頭では解ってる」
泣きじゃくりながら、彼女は私にそう告げる。嗚咽を漏らしながら背を向けて、私の伸ばした手から逃げるように、彼女は走り去ってしまった。
彼女の制服が、廊下の矩形の中心で小さくなっていく。
追いかけることはしなかった。私も本当は感じていたから。
男の子と付き合うのが、暗黙の了解だと解っていたし、自分が変だと解っていた。
窓の外には、痛そうなくらい激しい雨が降り続いている。
今日は生憎の雨。人のため息から作られたような灰色の雲が空には広がっている。これじゃ、わざわざオープンテラスのある店を選んだ意味がない。
きっかけは、数日前のラインだった。もう一度も連絡をしないだろうと思っていた人から、急にラインが入っていた。
『来週の土曜日空いてる?』
という唐突な一言から始まって、色々と時間帯を決め、
『七海ちゃんの家に行きたいんだけど、どこか知らないから、待ち合わせして連れてって』
と、不躾に終わる。何も期待せずに、返事は『大丈夫』とだけ三文字。休日に予定ができるのは久しぶりだ。
真里亜からのラインは、嬉しいかと訊かれると微妙で、合わせる顔がないわけじゃないけど、どんな顔であったらいいのか分からない。それでも、一応は『旧友』に会えるわけだし、それなりの期待はした。今になって、彼女が私に会いたいという理由は分からないけど、たぶん、ちょっと雑談してバイバイ程度だと思う。
高校の時、私たち二人は仲が良かった。お昼休みはいつも一緒だったし、お互いの家にお泊りもした。でも、卒業してから、進路の違いで別々になってからは特に何もないまま。もっと正確に言うなら、あの雨の日から。
遠くから、カランカランと小さなベルの音がした。喫茶店のドアが開いた音だ。
真里亜は少し店内を見回してから、私と目が合うと、少し小走りで来て、私の前に座った。
「ごめん、先に頼んじゃってるけど」
「いいよいいよ、気にしないで」
コーヒーを注文して、ちょっと俯き気味に私をちらちらと見る。彼女がこの仕草をする時は対外、言い辛いことがある場合で、話しかけられるのを待っている合図。このどことなく漂う、ぎくしゃくした雰囲気は、過去の私のせいなのかもしれない。
「なんていうか、久しぶり。元気そうでよかった」
「うん、七海ちゃんも」
会話の接ぎ穂がない。私たちの頭上に沈黙を表す点々が見える気がする。
「それで、私に何か用」
言ってから唇を引き締めた。単刀直入に尋ねたつもりが、何かこの訊き方は刺々しい。私が真里亜を嫌ってるように聞こえる。
「本当にごめん。自分勝手に会おうだなんて」
案の定、真里亜は小動物が怯えるみたいに萎縮してしまった。
「諫めるつもりはなかったんだけど、ごめん」
「……」
「……」
また重い空気。店員が気まずそうにコーヒーをテーブルに置いて去る。
思えば、昔の私たちはどういう感じで会話してたんだっけ。なんかこう、もっと次の言葉が自然に出てきたような。
沈黙を先に破ったのは以外にも真里亜だった。私は啜ったコーヒーを若干慌ててソーサーに置く。
「ねえ、七海ちゃん。……今も私のこと好き?」
果てしない白が、頭の中に広がって、私の口から言葉が出ない。私の無言に、真里亜はもう完全に下を向いていた。
そのまま、言葉を紡ぐ。
「七海ちゃん、セックスして」
割と大きい声に、私は半立ちをして周りを素早く見回す。
何だろう今の。私、疲れてるのかな。
呆然と眺めた先で、木目のシーリングファンがくるくるしている。
「早く行こうよ」
視線を戻すと、反応を示さない私の態度を了承と受け取ったのか、真里亜はいつの間にか、嬉々とした表情でコーヒーを一口飲んだ。
「どこに……行く気?」
言葉の一言一言が口の中で乾いて流暢に言葉が出てこない。心の中で何かが渦巻いていて、身体の芯が金縛りにあったかのよう感覚に襲われる。目の前の景色がどんどん現実感を失っていった。
次に、真里亜がラブホテルなんてワードを使ったら、私はきっとフリーズする。
「もちろん、七海ちゃんの家だよ」
そういえば、そうだった。
私は一瞬肩をなで下ろすと同時に、状況は大して変わっていないことに気づいて、血の気が引いた。
電車を降りて、帰路を真里亜と歩く。意図的に彼女と距離を測っているわけじゃなく、雨で傘をさしているので、必然的に距離が空く。
雨で気温が低いおかげか、私は喫茶店にいる時よりも冷静になれていた。
真里亜と寝るのはいけないことだ。急に会って、急な申し出。前段階は一切なし。婚前交渉厳禁なんて古いことは言わないけど、身体から恋愛関係を始めてはならない。私はそう決めている。
では、なぜ私はあの場で断らなかったのか。そして、なぜこの帰路を 真里亜と歩いているのか。
結論を胸の内に秘めた思いに尋ねると、呆気ないほど早く、答えが出た。
初恋の熱が再燃してる。
私は思わず首を振った。熱で浮かされた頬が冷気に触れる。
「どうしたの?」
「えっと……いや、何でもない」
真里亜は不思議そうに私を数秒眺めてから、前に向き直る。今のタイミングで断ることもできたはずで、更に言えば、彼女は隣を歩いているのだから、私が自分から話しかけて断ればいいはずなのに、私は口ごもってしまって、上手く言葉が出てこなかった。
「ねぇ、七海ちゃんの家にお酒ってある?」
「いや、無いけど」
私はお酒の味があんまり好きではない上、下戸なのでお酒は家に置いてない。付き合いで飲みに行く時でさえ、舐める程度だ。
「ちょっとコンビニ寄ってってもいい?」
「いいけど、お酒買うの?」
「そう、ちょっと飲みたい気分でね。七海ちゃんも飲まない?」
「私はいいや。苦手だから」
「そう」とだけ、真里亜は呟く。その横顔は、冷たい雨の中で少しだけ悲しく映った。
「いいな、事務職は~。いや別に嫌味じゃないよ。も~ほんとにヤダ」
いい気分で飲んでいるご様子の真里亜が、テーブルにビールの勘を置くと、突然ばたりと後ろに倒れた。
愚痴をまさにぐちぐちと、お酒の勢いで溢しながら、時には意味の分からないことを喋る。
「大変そうだね。色々と」
素面の私は、緑茶を啜りコンビニで買ったプリンをちびちび食べながら、何となく相槌を返す。
瞼がとろんとしてきている真里亜は、今にも眠り込んでしまいそうで、あまりそういう流れじゃない。嬉しいような悲しいような、何か複雑。でも、ここまでの流れに任せてこの状況なら、たぶん諦めもつく。
程なくして、真里亜は静かになった。騒がしかった部屋に、いつも通りになった寂莫感が押し寄せて、急に雨音が響くようになる。
ため息をついて、自分のベットから毛布剥いでくる。毛布を掛けようとして、真里亜の顔と近づいた時、不意に私の胸の中で、熱いものが一瞬にして広がった。
高校生の時と今も変わらない濡烏の髪が床で乱れて広がる。長いまつげの瞼が人懐っこい瞳を包み、端正に整った鼻筋は高く、潤った薄い唇は魅力的に閉じられている。お酒のせいで上気した頬をほんのり赤らめたまま、可愛い寝息を時々洩らす。
毛布を掛けた私の手が真里亜の頬に触れる。真里亜はこのままずっと、ここに寝むりこくるつもりなのだろうか。
ここまでは、まだ今までの友達という線引き。この線を越えたら、私はもっと真里亜を欲してしまう。それなのに、もう、何も考えられない。私は、過去の恋心を裏切ることができなくなっていた。
暗闇になれた目の端に、穏やかな光が映る。机の上に置いたスタンドライトは、眠っていた私たちを照らし続けてくれていた。
いつの間にか呼吸は落ち着いて、真里亜の体温が布団の中で温い。首を傾けた右には真里亜の寝顔が仄かに明るく照らされている。
静寂だけだった。部屋の中には、もうそれしかない。記憶の中で木霊するさっきまでの嬌声が、外の雨音に重なっていく。
土砂降りの雨が降ると、いつも高校生の時のあの瞬間を思い出していた。それを思い出すと、そこから真里亜との日々の記憶が絶え間なく繋がって思い出されて、結局、報われなかったことに虚しくなる。そして後から、自分の女々しさに嫌気が込み上げてくる。今感じている温もりとはまったく別の、ざあざあ降りの雨みたいな、冷たく抉ってくるような傷心。
もう自分を難詰する気も起きない。意図的な誘惑だとも気づかず、無防備な真里亜に私から手を出して、ベットに二人で来た。狭い私のシングルベットに二人、諦めきれてなかった好きという気持ちで、汗を擦りつけ合うように交わった。
「どうしたの? 七海ちゃん」
天井を仰ぐ私の耳元で声がする。
「いや、ちょっと目が覚めちゃって」
真里亜が腕を私のお腹にまわして、すり寄って来る。
「ねえ、なんで私と、その……」
「セックスしたのか?」
熱を持った囁きが、耳朶に触れて少しくすぐったい。
「はっきり言わないでよ! こっちが恥ずかしい」
「七海ちゃんって結構、初々しいよね。セックスも、なんかこう律儀な情熱を感じた」
「それって、下手だって言いたいの」
真里亜がくすっと笑って、さらに抱きしめてくる。
「違うよ。愛を感じるってこと」
なんだか恥ずかしくて、上目遣いに見上げてくる真里亜から視線を逸らした。
「それで、なんで、私と……」
若干の返事の間を感じて視線を戻すと、真里亜の体温がゆっくりと離れて、さっきまでの明るい表情が翳に沈む。
「私ね、色々な人と付き合ったの。……でも、いまいちピンとこなかった。それは誰であってもね。……高校生の時の初恋、七海ちゃん覚えてる? 七海ちゃんは私にキスしようとして、私は逃げた」
はっきりと覚えている。私の初恋を忘れるわけがない。
「あの時の私は、恋が何なのかまだ全然解ってなかった。七海ちゃんを好きなのが、恋かどうかずっと悩んでた。おまけにあの恋は、普通じゃない。女の子同士だもん。……だから、あの時からずっと私は恋を探してた。そして、恋をすればするほど、これは恋に似た気持ち悪いものだって気が付く。男の人と付き合っても、女の人と付き合ってもそう。何かが欠けていて、満たされない。……ねぇ、みんながみんな、愛を求めて彷徨うの。七海ちゃんもそうでしょ」
淡々と他人事を諳んじるような真里亜の声音が、雨音に掻き消されるまでの時間が嫌に長かった。
そして、怒りが込み上げてくる。誰にも頼らず、寄る辺もなく彷徨した彼女の強がりと遠ざかる彼女の背中を追うことなく立ち竦んだ、私の怯懦に。
私は真里亜とは違う。今も昔も、恋の理屈はまったく理解できてないけど、真里亜のことが本気で好きだった。それは今も続いていて、雨が降る度、恋しくて、寂しくなる。
「ごめんね、なんか暗い話」困ったように真里亜が笑う。無言のままの私を察したのか、表情を繕った。
「私はあの時から今までで、一人だけと、付き合った」
真里亜は私の目の端っこできょとんとした。怒りを内包しているはずの声が、不思議と冷静に響く。
「でも、合わなかった。いい人だったんだけどね。……その人と会った後は必ず、どうしてか真里亜のことを思い出してた。今だって、私は恋愛が下手なままで、だめだめだけど、誰が好きで誰と一緒に居たいのかは解ってるつもり。私は今も、初恋をし続けてる」
私も、愛を探して付き合ったのかもしれない。でもそれは、常識に嵌る安心感と孤独を埋めるためだけに、愛だと自分を騙していただけだ。今なら、はっきりとそう言える。
雨水に浸った淡い恋が、記憶の中で淡く朧げになることはない。私はずっと真里亜と居たい。
「じゃあ、七海ちゃんは私と付き合ってくれるの?」
涙に濡れた声が、私の耳元で弱々しく囁かれる。そういえば、あの時は私から告白したっけ。
「もちろん。私も訊こうと思ってた」
真里亜が私の首筋に顔を埋めてくる。さらさらとした髪が頬をくすぐって、真里亜の乳房が私の腕に鼓動を伝えながら、柔らかく潰れる。
彼女が恋を探し終えたことを願って、私は真里亜を抱きしめた。
「今日はしないよ」
「えっー! なんで?」
真里亜が、寝ようとする私の頬を指でつつく。
「明日、旅行でしょ。今日は早く寝る」
一ヶ月ほど前から、明日は温泉旅館へ行くことを予定していた。事の発端は真里亜で、仕事の疲れを癒したい、とすり寄ってきたので、私が提案してみた。真里亜は一瞬、そうじゃない、というような顔をしたけれど、すぐに「いいかも」と表情を変えた。真里亜とは修学旅行以来初めての旅行だ。
「七海、遠足前の小学生みたい」
「睡眠は大事でしょ、寝不足だったら、明日楽しめないよ」
「確かにそうだけど……」
悪戯道具を没収された子どもみたいな声で、渋々真里亜は食い下がる。明日は旅行だというのに、体力のある真里亜に付き合っていたら翌朝起きれない。
付き合ってからというもの、真里亜は度々私の家に来るようになっていた。そして、自分の女子力の無さに拗ねたくなるほどの、美味しい晩ご飯を振る舞ってくれる。小さなテーブルで一緒に食べ、小さなベットで一緒に寝る。
「なるほど、お楽しみは明日ってことだね」
「そういう意味じゃ……」
自分でも顔が熱くなるのを感じる。私はそっぽを向いて、自分の顔を隠した。真里亜は時々、こうして私を揶揄うのだ。
「ねぇ、七海。……愛してる」
真面目な口調で、真里亜が私の髪に触れる。振り返って、私は同じ言葉を返そうとした。
「やっぱりちょっと顔赤い。ほんと、可愛い」
意地悪に笑う真里亜に、私からキスをする。真里亜が少し驚いたように小さな声を漏らした。
「意地悪だからお返し。……私も、愛してるから」
私は目を逸らし、恥ずかしくて衝動的に布団に顔半分を隠す。真里亜は優しく微笑むと、私の手に指先を絡ませるようにして手を繋いだ。これは所謂、恋人繋ぎ。
「おやすみ、七海」
「……おやすみ」
そうは言うものの、眠りに落ちるまでの真里亜の体温が愛しくて、すぐには寝れない。私は目を閉じて、明日のことを考える。
明日は、春麗らかな陽気になるらしい。
読んでいただき、ありがとうございます。
お久しぶりです! 長らく(おそらく去年の九月程から)投稿しておりませんでした。
というのも、去年は色々と忙しく、ついこの間、戦争とすら比喩されるほどの場所へと赴いてきました。あの場での緊張感は、心臓に悪いタイプのものです。確実に。
さて、今回私はかねてより書いてみたかった百合を書こうとしました。しかし、百合の持つ独特で崇高な甘美さをいかんせん書き切れず、「もっと百合を読まなくては!」と痛感しました。やっぱり奥深いですね。
これが今年の初投稿です。今年は去年よりも多く書いていきたいと思っています。今年もよろしくお願いします。