恋愛心理学入門
とある文学賞に応募したが、賞にかすりもしなかったのでやけくそで投稿しやした。
ちくしょう……別に期待なんてちょっとしかしてなかったから悔しくねぇし……。
窓の外では雲一つない青空に真上より少し下りてきた太陽が爛々と輝き灰色の大地にギラギラと照りつけていて、蝉が儚い命を燃やしながらミンミンと泣き喚いていた。
今日は旧暦なら秋も深まる八月の後半だというのに、東京都の気温は38度にもなっていて憎らしいほどの暑さだった。
大学の心理学教授である生粋のインドア派な僕が、手ぶらで散歩なんてした日には卒倒間違いなしだろう。
今年は、というか今年もと言うべきか、温暖化の影響で夏期の平均気温が高く、日本全国民はこの暑さにうんざりしていることだろう。
実際に今年はこの暑さの影響で熱中症患者も多く、朝のニュース番組では毎日、色白の女性アナウンサーが「水分塩分をこまめに摂ることをお忘れなく」と、決まり文句で注意を促していた。
まぁ、言われるまでもなく僕は毎日魔法瓶に入れた冷たい麦茶と塩飴を常備しているので大丈夫ではあるのだが……うちの学生たちは夏休みの奔放さに愉悦し、油断した結果、数人病院送りになったらしい。
まったく、これだから最近の若い者は――と、思ってしまうがよく考えてみれば20代後半の僕もまだ比較的に若いと言える年齢であったことに気がつく。
自分で言うのもなんだが、若くして才能を開花し、大学教授に上り詰めた僕は秀才という称号を得た代りに若さという物を失いかけているのかもしれない。
僕はこの歳で感じるとは思わなかった老いをしみじみと感じながら、クーラーのきいた個人研究室で小さめのバックから冷たい麦茶の入った小型の魔法瓶を取り出し、デスクの隅っこに置いてあったコップに注ぎ、ずずっと啜った。
「うん、やっぱりこんな暑い日は冷たい麦茶が一番だな」
と何気なく呟くと、コンコンッと個人研究室の扉をノックする音が聞こえた。
僕がデスクにコップを置いてから扉に向かって「どうぞ」と言うと、来訪者は扉を開けてから丁寧に「失礼します」と言い、可愛らしくお辞儀をして個人研究室に入ってきた。
「教授、お時間大丈夫ですか?」
入ってきて早々そう言った彼女は、普段よく見ている顔だった。
彼女はうちの大学の一年生で、僕の講義をほぼ毎回受講してくれている子だ。背丈は少し小さく、背中の半分くらいまである綺麗な黒髪が印象的で、化粧はあまりしていないが整った顔立ちをしている。
僕の講義では受講態度も成績も良い優等生で、名前はたしか――
「――佐伯さん、僕になにかご用かな?」
僕が立ち上がりながらニコリと笑ってそう言うと、彼女は僕の前まで近寄ってきた。
「夏期休暇で出された課題のレポートをどうまとめればよいか分からなくて質問しにきたのですが……」
僕の顔色を窺いつつそう言った彼女に僕は「まぁ、立ち話も何だから」と、来客用の椅子を彼女に向けた。
彼女は少し戸惑いながらもその椅子に腰かけた。
「えっと、僕が出した夏期課題のレポートと言えば……『心理学的観点から見た人間の恋についてまとめよ』だったかな?」
椅子に座って僕を見る彼女に尋ねると、彼女は静かにコクリと頷いた。
「そっか、今回はいつものお堅い題材じゃなく今風の題材にしてみたのだけど……少し抽象的過ぎたかな」
僕が柄にもなく不慣れなことをしたからだな、と内心反省していると彼女は慌てて僕の言葉を否定してくれた。
「いや教授は悪くないです! 私の力が足りないだけで……」
そう言って俯く彼女に、僕はどう返せば良いか少し悩んでから、暗い雰囲気を切り換えようとこう言った。
「取りあえず本題に入りましょうか。レポートについての質問ですよね? 僕に答えられることなら何でも答えますよ」
フフンと微笑んで胸を張ると、彼女も少し笑みを浮かべ「……ありがとうございます」と呟くように言った。
少し内気だけど素直で良い子なのだな、と率直に思った。
彼女とは何度か顔を合わせていて、なんとなく真面目な子だなという印象はあったのだけれど毎回事務的な挨拶や会話程度しかしたことがなかったため、こうやって面と向かって言葉を交わしてみると彼女の人間性の良さがそこはかとなく伝わってくる。
「で、どんなところが分からないのかな?」
「えっと、根本的なところなのですが……『心理学的観点から考えた人間の恋』って具体的にどんなことを調べれば良いか分からなくて……」
そう言った彼女はまた少し俯いて、申し訳なさそうに右の人差し指でおでこの横を軽く掻いていた。
「そうか……まぁ、何をどう調べてどんな風にまとめれば良いか、すぐに答えを教えてしまうのは簡単だけどせっかく佐伯さんが来てくれたことだし……そうだね、まずは『恋愛心理学』の話しでもしてみましょうか」
僕はデスクの上に乱雑に置いてあるいくつかのファイルから改めて、恋愛心理学について調べ、まとめておいたものを手に取った。
「それでもいいかな?」と、僕がそう聞くと彼女は顔を上げた。
そして、「は、はい!」と何故だか少し嬉しそうに返事をした。
僕は手元のファイルを数ページ捲り、恋愛心理学の基本についてまとめてあるページを開いた。
「まず 、佐伯さんは恋愛心理学というものをご存知ですか?」
「いえ……名前だけは知っていますが、詳しくは……」
「そうですか、それは良かった。もし佐伯さんがご存知だったら僕の話がまったくの無意味になってしまうところでした」
少しふざけたようにそう言うと、彼女はクスリと小さく笑ってくれた。
「ええと、それではまず心理学的観点から人間の恋を調べるためには絶対に欠かせない『恋愛心理学』とは何か、というところから軽く説明していきましょう」
「はい、よろしくお願いします」
彼女は座りながら可愛らしくお辞儀をした。
「まぁ、ざっくりと説明すると『男女関係』や『恋愛』、『結婚』などの人間の恋に関することを心理学的に考えていこうというのがコンセプトの分野です」
「心理学的に……ですか?」
「ええ、あまりピンとこないかも知れませんが、具体的には『好き』と『愛している』の違いや、恋愛の定義なんかを心理学を用いて分析したりしているのですよ」
「なるほど、結構今風の分野なのですね」
彼女は興味を持ったのか、少し身を乗り出して話を聞いていた。
「では手始めに先ほど例に挙げた『好き』と『愛している』の違いについて話していきましょう」
僕は手元のファイルを数ページ捲って、意気揚々と話し始めた。
「では佐伯さん、ここで問題です! 恋愛心理学から見る『好き』と『愛している』の違いとは何でしょう? 分かったら挙手をして答えてください!」
「い、いきなりですか!?」
僕が右の人差し指をビシッと立ててそう言うと、彼女はあたふたしながら「えーっと……」と呟きつつ頭を抱えながら考えていた。
「制限時間は5秒ですよ~5、4、3――」
「えっ? 短くないですか!?」
僕が人差し指を立てていた右の手をパーにして、親指から人差し指にかけてゆっくりと折り曲げながらカウントダウンをし始めると、彼女はさらに慌てふためきつつも、僕が小指を折り曲げるのとほぼ当時に「は、はいっ!」と勢いよく挙手をした。
「では、佐伯さん、答えをどうぞ」
「えっと、『好き』はたとえば色とか、食べ物とか……そういう一般的な好みについての言葉で……『愛している』は 好きよりももっと重い感情を意味している言葉――みたいな感じですか……?」
彼女は言葉の所々で少し考えつつも、ある程度纏まった答えを出してくれた。
「さすが佐伯さん、大雑把に言うとその答えで正解ですよ」
僕がそう言うと、彼女は顔を綻ばせながらほっとしていた。
「詳しく説明すると、『好き』というのは恋愛心理学において、自分にとって価値があるということ。例えば美味しいリンゴ、かっこいい車、可愛い服……そう言った所謂自分にとって価値のある好みの物のことを『好き』という言葉で表すのです」
僕は一呼吸置いてから、ファイルを一ページ捲って次の説明を始めた。
「そして、『愛している』というのは恋愛心理学において、相手の幸福を願うということ。例えば好きだった車も壊れてしまえば捨ててしまいますが、愛している人のことはたとえ歳をとっても病気になっても破産しても、愛していれば決して捨てることはない。佐伯さんの言う通り『好き』のように気軽に使える言葉ではなく、もっと想いの詰まった言葉ですね」
僕が詳細を説明し終わると、彼女は口元に手を当て少し真剣な眼差しでこう言った。
「なるほど……そんなに明確な意味の違いがあるのですね……」
「ええ、恋愛心理学ではもっとも知っていなくてはならない違いですからね」
僕は手元のファイルを一旦デスクに置いた。
「恋愛心理学では、他にも最初に言った恋愛の定義や男女の付き合いに関するタイプ、恋愛の四条件など、若者にも取っ付きやすいテーマを分かりやすく解説しているのですが……詳しいことは自分で調べたほうが面白いと思いますよ」
「はい、勉強になりました!」
彼女は小さくお辞儀してお礼を言った。
彼女と話していると、何故だかいつもの講義以上に言葉がすらすらと出た。真剣な眼差しで僕と向き合って話してくれた彼女はよほどの聞き上手だったのだろう。
ここで彼女を帰してレポートに専念させてあげれば良いのだが、聞き上手な彼女ともう少し話していたいと思ってしまった。
「……佐伯さん、ちょっと真面目な話が続きましたし、雑談でもしましょうか」
僕のいきなりの言葉に彼女は少し困惑しつつも、「私なんかで良ければ……」と控えめに承諾してくれた 。
「それは良かった! それでは……そうですね、さっきまで恋愛心理学の話しをしていましたし、恋バナでもしましょうか!」
「こ、恋バナですか!?」
僕がニコリと笑ってそう言うと、彼女は少し顔を赤くして驚愕を顔に浮かべていた。
教授の僕からそんな話題を振られるとは思ってもみなかったのだろう。
「と、言っても僕は色恋沙汰には全く縁がありませんし、ましてや恋に落ちた経験なんてないですからね……佐伯さんはどうなのですか?」
僕が自分で言っておきながら悲しくなるようなことを言ってから彼女に尋ねると、彼女は少し俯いてから自虐気味にこう呟いた。
「わ、私も恋愛経験なんてまったく……私は地味で暗いですから……」
「そうですか? 佐伯さんと話していると楽しいですし、可愛らしいと思いますよ」
彼女は僕の率直な言葉を聞くと顔を耳まで真っ赤にしながらさらに俯いた。
「え、えっと……その……あ、ありがとうございます」
恥ずかしがりながら可愛らしい声でそう言った彼女をお世辞抜きにして魅力的だと思ってしまった。
そして、何故だか彼女ともっと話して、彼女のことをもっと知ってみたいと思った。
彼女とは今日までちゃんと話しをしたことすらなかったはずなのに、彼女と親密になりたいと思ってしまった。
――しかし、僕はその感情の正体がなんなのかはよく分からなかった。
僕はその経験したことのない感情をとりあえず頭の隅っこに置いて、彼女と早く話すことにした。
このまま彼女と話していれば、この感情の正体が分かる気がしたから。
そして、彼女との雑談は続いた。
趣味の話や好きな食べ物の話、兄弟がいるとかいないとか大学から家が近いか、とかそんなありきたりな会話ばかりをした。
そんな会話でも、趣味が両方とも読書で好きな作家がかぶっていたり、彼女のカレーの辛さは甘口派だったけど僕は辛口派だったり、彼女も僕も一人っ子でどんな兄弟が欲しかったか論議したり、家のある地域が意外と近かったり、やっぱり彼女は聞き上手で言葉を交わすのがとても楽しくて、時間を忘れるほどに話し込んでしまった。
ふと窓から外を眺めると太陽がずいぶんと降りてきていて景色を真っ赤に染めていた。
「……もう日が暮れてきましたね、暗くなる前に帰ったほうがいいですよ」
「あ、もうこんな時間だったのですね……」
彼女もこの時間を楽しんでくれていたのか、時間の経過に今気づいたようだ。
「校門まで送りますよ」
僕がそう言いつつ立ち上がると、彼女も慌てるようにすぐに立ち上がった。
「あの、今日はありがとうございました」
そう言って彼女は丁寧にお辞儀をした。
「いや、僕が教えたことなんて大したことじゃないですよ。むしろ楽しませてもらったのは僕ですからね、今日は楽しかったですよ、佐伯さん」
僕が扉の方に歩きながらそう言うと、彼女はなんだか嬉しそうな微笑みを浮かべながら扉の方に歩いてきた。
「私も今日は楽しかったです」
僕の前でそう言って微笑んでいる彼女はやっぱり魅力的だった。
迂闊にも少し赤く染まってしまった頬を隠すように、僕は急いで扉を開き、廊下に出て校門までの道のりを歩き出した。
彼女は僕の後ろに黙って付いてきていた。
個人研究室から校門まではほんの数分でついてしまうのだが、彼女と別れる場所が徐々に近づいているのだと思うと、自然と足を運ぶ速度も遅くなる。
別れが近づいているのに、結局頭の隅っこに置いていたものがなんなのかは分からなかった。
何故こんなにもどかしい気持ちになるのだろう、何故まだ一緒にいたいと思うのだろう、全てが分からず、頭の中で思考がぐるぐると渦巻いていた。
そうやって考えているうちに、いつのまにか僕と彼女は校門までたどり着いていた。
「……それじゃあここでお別れですね、レポート制作頑張ってくださいね」
僕が今日一番の下手糞な笑顔を浮かべながらそう言うと、部屋から校門に来るまでずっと黙っていた彼女はまるでこの瞬間を待っていたかのように口を開いた。
「あの、さっきまで教授の研究室で話していたときに、恋愛経験についてのお話しをしましたよね?」
「え? あ、ああ……そうですね」
いきなりの質問に僕はつい戸惑ってしまった。
「――実は、私好きな人がいるのです」
そのいきなりの言葉に何故だか心がズキリと痛んだ。
何故彼女が好意を持っている人がいるというだけで、心が痛むのかは分からなかった。今日は分からないことだらけだ。
心の痛みといきなりのカミングアウトに対する困惑で頭がついていけなくっている僕を無視するように彼女は言葉を続けた。
「その人は私より年上で、とても頭が良いんです。それに笑顔が素敵で皆に優しいんです」
彼女の一つ一つの言葉が心に刺さった。
何か言葉を発したかったけれど、上手く喉が動かなかった。
「でも、私の一方的な片思いでちゃんと喋ったことも無くて……今までは遠目で見ていることしかできなかったのです」
なんて健気な恋なのだろうか、きっと彼女は本気でその人のことが好きなのだろう、そう思うとまた心が締め上げられた。
「だけど、今日はその人と初めて二人きりでお話ができたんです。どんなありきたりな会話でもすごく楽しくて、つい時間を忘れちゃうほどでした……この気持ち、今日言わないともう言えない気がするんです。だから、今日その人に私の気持ちを伝えようって思いました」
「……え?」
彼女が言ったその言葉の意味がすぐには理解できなかった。
僕が頭の中で混ざり合う考えをまとめ終わる前に、彼女は僕の元にそっと近づいてきた。
僕の目の前に来た彼女は両手で僕の両腕を掴み、目を瞑りながら背伸びをした。
そして――僕の頬に優しく口付けをした。
彼女は背伸びをやめて半歩下がってから、頬を少し赤く染めながらも僕の瞳を真っ直ぐ見据えて、こう言った。
「教授、好きです」
その一言で、僕の心に突き刺さっていたものや心を締め付けていたものが全て消えてなくなった。
そして、彼女ともっと話したいと思ったことも、別れが近づいたときのもどかしさも、一緒にいたいと思ったことも、全て何故だか分かった気がした。
しかし、僕が言葉を出せないでいると、彼女はいきなり顔を真っ赤にして、くるりと後ろを向き校門の外へと駆け出した。
「さ、佐伯さん!」
僕がとっさに名前を呼ぶと彼女はぴたりと止まった。
言わなくちゃいけない。
彼女は勇気を出して言ったのだ。
僕が知識と理論でしか捉えていなかったこの感情を、彼女に教えて貰ったこの感情を、何より彼女の想いに答えるために、自分の言葉で伝えなくちゃいけない。
「佐伯さん、恋愛心理学の説明で、『好き』と『愛している』の違いについて話しましたよね?」
――この歳になってこんな感情を初めて実感した。不器用で、理屈っぽい、僕の想いを込めた言葉――
「佐伯さんとは出会ってからそれほど長くもないですし、二人きりでちゃんと話したのも今日が初めてでした。それなのにこの言葉は少し重いかもしれません……ですが、僕のこの気持ちは軽いものではないのです、だから、あえてこの言葉を使います……」
僕は大きく深呼吸をして、彼女の背中に向かって叫んだ。
「佐伯さん! 『愛しています』!」
彼女は僕の心からの言葉を聞くと暫く俯いてから、勢いよく僕のほうに振り向き、目にいっぱいの涙を溜めて今にも泣きそうになりながらも満面の笑みを作った。
「私もっ!」
そう叫んだ彼女は空に浮かぶ真っ赤な夕日よりも綺麗で、僕が今までの人生で見てきた全ての物よりも輝いていた。
そしてこの時、僕は確信した。
僕が彼女に抱き、彼女に教えて貰った感情が何なのかを。
相手のことをもっと知りたいと思い、もっと一緒にいたいと思い、相手の幸福を願うこの感情の名前。
この感情は――そう、恋だ。
僕は夕焼けに染まる校門で彼女に――恋をした。
この校門で、僕と彼女は恋愛心理学の入門編を終えたのだ。
そして、僕はこれから続く中級編、上級編へ憎らしいほどの胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
なんか最後は自分で読んでても恥ずかしくなるような感じでしたが……皆さん最後まで真顔で読めました? 私は無理ですね。 恥ずかしすぎて自分を殴りたくなります。




