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二日目のマリーと赤い花、白い花

長いです。

コンコン、コンコン、と木槌を鳴らしてフローラ姫が宰相を呼び出すよう命じると、間をおかずドアの開く音がして。

「入るわよ。マリー、悪いけどそろそろ起きてちょうだい」

「は、え!」

すっかり寝坊したマリーは見た夢も忘れて母親の声に飛び起きた。


二日目も雲ひとつない快晴。

万が一を考えて母親に声をかけておいてよかった。

こんな大事な約束を守れなかったら、人でなしもいいところだ。

真っ赤な花一輪を小さな花瓶に指してドキドキしながら門に向かう。

(とうとう私もこれをする時が来たのだわ)

飾り気のない門の柵に花瓶をくくりつける。完成。昼に何とか間に合った。

昨日はニーナと最後の仕上げをして、執行部やアナスン劇団とひとまず成功おめでとうの乾杯をして、随分遅くに帰宅した。母親が嬉しそうに「部屋に入れておいたわ」と言うので急いで部屋に戻れば、机の上に赤い花、ルセルの花束とカード。

   『今日の成功おめでとう。あなたの情熱に心から賞賛を。

    私の情熱もあなたの心に届きますように。

    二人の明日が実り豊かに素晴らしくありますように。

    愛をこめて                    トーニ』

頭がわく、とか、身悶えする、とか、マリーは初めて実践することになった。

わーわー言って部屋の中を何周も歩き回ってしまうなんて行為をまさか自分がしようとは。

散々動揺し終わった後で、カードの裏に『俺は無理だけどマリーはちゃんと眠ること!』と走り書きしてあるのを見つけて、マリーは何となく、トーニがどんな気持ちでこれをくれたか想像できた。

ドレスを整えたり髪型を考えたり支度をする度に、マリーが真っ先に思うのは、ウィルが来てくれるということ。恋人みたいに、二人で舞踏会に行けるということ。長年の気持ちを伝えるその時にどうなるのかと考えること。ウィルは決して、トーニのように花もカードもくれないと思うこと。

自分の残酷さが嫌になる。でも、きっとトーニは全部分かっている。

「トーニ、いつもありがとう」

門に添えた、レースを何重にも重ねたような赤いルセルの花弁を見て、トーニを思う。

(今日がトーニにも実りある良い一日になりますように。楽しもう、思いっきり)

まずは、マリー今日は特別綺麗だねって、言わせる支度をしてみますぞ!

「よし!」

せっかく気合いを入れたのに、家に入る前に外から呼び止められた。

「待って! マリー、待って、ちょうど良かった」

荷馬車を後ろに、街の花屋が駆けよって来た。

「あら、コンラッドさん。どうしたの」

花が荷台に山盛りになっている。仕入れて、これから街に向かうのだろう。

「どうしたのって、こんな日に花っていや一つしかないだろう」

おや、真っ赤なルセルだなんてどこの色男だい、なんて門を見てニヤりとするコンラッドは筋骨隆々の大男で、街の誰もがなぜ花屋かと不思議に思う有名人だ。

「はい、お届けです。白のミルカは純真、初恋。照れるねえ」

門を開けると、ばさっと大きな花束が降ってきた。小さな五弁の花が両手いっぱい、雪のように太陽に白く光る。

「何で?」

断ったのだ。数人から声をかけてもらったけれど、トーニとの約束どおり「ゴメンネ」した。

「何でかは手紙を読んでくれ。昨日の早馬で依頼があったんだ。じゃ、確かに渡したよ」

予定が詰まっているのだろう、慌てて去るコンラッドに急いでお礼を言って門を閉じる。

白い花にまぎれるように、白い封筒が挟まっていた。


   『マリー様

    いよいよですね。明日行きます。

    ちゃんと花を贈るべきだと思い、急ですが用意しました。

    計画を狂わせて迷惑になるなら遠慮せず捨てて下さい。

    去年までの分も楽しみましょう。

    明日も実り多い素晴らしい一日になりますように。

                          ウィル』


「…嘘、じゃ、ない」

本当に急いだのだろう、いつになく乱れた字で伝わる。

ウィルの字だ、と思った瞬間、背筋が震えて花を落としそうになった。

遠い街で多忙を極めるウィルには気持ちがあっても無理だと思ったから。

書いたのだ。手紙に、計画にあわせて花は自分で用意するから不要だと。

それなのに、贈ってくれた。

「嘘みたい」

こんな粋な計らいができる人じゃないのに。

「夢みたい」

好きな人から、花を贈られた。

きっと気のきく周囲の誰かが「それでもこういう時は花を贈るんだ」とかウィルに助言してくれたに違いないと、心のどこかで分かってはいても、でも、こんなに嬉しい。

急用で明日来られない可能性だってあるけれど、もうこれだけでも十分だ、とマリーは感謝の気持ちで爽やかなミルカの匂いを感じようと瞼を閉じた。





* * *





日が落ちて、舞踏会会場にランプの花が咲く。

会場はもくろみ通り、仮面舞踏会の様になっていた。顔が見えない非日常はドキドキを増やしてくれる。

「今日はどうやって始まるのか」

大勢が話の筋を知るだけに、予想を競わせ、待っている。


トーニは時間通りにマリーを迎えに来てくれた。

母の「来たわよー」の声に、マリーは緊張で返事もできず部屋をでた。

赤いルセルに合わせるように選んだ深い色味のドレスは、大人の女性らしい体に沿う形をしている。スカートにたっぷり布を使っているので、踊ると綺麗に広がるのが気に入っている。花に負けないように何度も櫛を通した髪は結わずにおろした。化粧もはっきりさせたので、トーニに厚化粧と言われないかヒヤヒヤして前に立つ。

トーニはほとんど黒に見える濃い緑のチュニックに焦げ茶のズボンとマントという姿で、しっかり髪を整えて後ろに撫でつけているから、いつもよりずっと大人びて見える。

『マリー。…参ったな』

いつも明るく声をかけてくれるトーニが顔に手をやり視線を外すから、慌てるほかなかったマリーに、トーニも慌てて否定しながら近づいた。

『マリー、違うよ。俺さ、色々想像してたんだよ。どうやってマリーが綺麗か言おうって。でも、出てこないわ。綺麗だ。本当に…綺麗だ』

いくら経験のないマリーにだって、こんな近くから、熱い視線でじっと見つめられれば心から褒められていると分かる。

『あ、ありが、と…』

真っ赤になって俯くしかないマリーの助け舟は、玄関を開けたまま存在を忘れられていた母だった。

こっちが照れちゃうわ、と笑った母に、我に返ったトーニが「きちんとお送りしますので」と約束して、家を出る。恥ずかしかったね、と笑い合えば、後はいつもの会話になった。


マリーとトーニもおしゃべりしながら会場の片隅で舞台を待っていた。

トーニは昨日、警邏として会場をずっと回っていたそうだ。

「マリーを探したんだけど、見なかった理由がこれで分かったよ。あの豪快な一発がマリーか」

マスクをしたトーニはタレ目が隠れると別人のような男前度だった。もともと鍛えていて痩せてはいるが貧弱ではない。鼻筋が通り、見上げる顎のラインもすっきり逞しく、笑っていても、口元は男性的な力強さにあふれている。

(ニーナ、非常によろしいわ)

後で報告会だと心に刻む。ニーナもきっと恋人と楽しく口げんかしながら時を待っている。

「昨日さ、アーチの所で遅くまでマリーとニーナが衣装の受け付けしてただろ?皆、今年の仕掛けはウェスベック商会かって噂してた。昼間も、すぐ用意した分売り切れて、ニーナの店の前に人だかりができてたもん。親父さんじゃなくて、娘の方が発案して実行はマリーって聞いたら皆驚いてアゴ外すよ」

もちろん言わないけど、とトーニが笑う。

「皆、それなりに楽しんでくれた感じだったから、ほっとしたの。警邏は大丈夫だった?」

「問題なかったよ。会場にいた奴ら、フローラ姫がすごく近くてめちゃくちゃ美人だったとか、騎士の方にマスク手渡しされてたのに気がつかなかったとか、ずっと盛り上がっててさ。今日が楽しみだし、こういう企画を実現させたすごい人は、今俺の隣にいて俺が独占してるんだぞって、自慢したい気分」

マリーが口を開こうとした、その時。


グワーン!


銅鑼が、舞台の開始を知らせた。二日目の、幕開けだ。

皆が一斉に静まり、舞台を見上げる。

「おい、貴様! 怪しい奴め、警邏、ひっ捕らえよ!」

舞台から向かって右側の会場から声が上がった。わっと歓声があがる。

どいてどいて、と人が入り乱れる。

隣のトーニが「あれ、あいつら」呟くので近づくと、一人の男が地面に抑えられており、2人ほどが人ごみの中から近づいている。腕章をつけた警邏隊は、どうみてもこの街の住民だ。

「さあ、こ奴を早く連れていけ!」

「はい!」敬礼をして舞台に引き上げていく二人に拍手。今日の仕掛けはこれらしい。

トーニが「非番のやつらだ。後で大騒ぎだな」と囁いて教えてくれた。

また人ごみから小柄な影が出てきた。見事な金髪、折れそうに細い腰、眼を惹く美貌のフローラ姫だ。

「なんと、もう捕まえたと申すか。そなた…ヘンリーか」

残っていた男が仮面を取ると、横柄な方の大臣の息子だった。

「全く他愛もない。取り調べれば、おのずと尻尾も掴めましょう。さあフローラ姫、美しいあなたにそんな顔は似合わない。せいぜい今宵を楽しんでやるとしましょう」

ニヤついて差し出される手は、いくら見た目が良くても気持ちが悪い。宰相はともかく、二人の大臣の息子はさすがと言おうか、見栄えが良かった。

ぐ、と険しい顔をしたフローラ姫、一瞬で気持ちを切り替え、周囲に笑いかける。

「皆、迷惑をかけた。もう心配ないそうだ。せっかくの夜、こんな騒ぎなどかき消えるほど楽しもう。 さあ、音楽を!」

声を合図に、おなじみの音楽が始まる。フローラ姫もヴェールをして踊りに加わるようだ。

近くの人がうらやましいと思いつつ、マリーはトーニを見上げて手をさしのばす。

「トーニ、私のメチャクチャだった立志式をのぞいて、人生で初めての踊りが、これなの」

「光栄です、マリー姫。私の忠誠を、あなたに」

トーニはマリーの意図に的確に答えた。

昨日の騎士のようにマリーの手に口づけるトーニのリードで、マリーは最初の一歩を踏み出した。


『花姫と夕星の騎士』の舞台も進む。もう一度踊りの最中にフローラを狙う人間が現れ、仮面の騎士が助けに入り傷を負う。毒や矢の犠牲も増え、寝室にまで刺客が忍び込む事態。婚約者の誰かが真の黒幕であると悟ったフローラは、婚約者一人ずつを呼び出し、告げた。

おりしもまた収穫祭の時期となった。その場で結婚相手を公表する、と。

「宰相、これまで懐に入れ続けたものを返さない限り、あなたとの結婚は無い」

「ヘンリー、既に庶子を持つあなたとの結婚は、国の将来のためにも有り得ない」

もう一人は、呼び出しに応じなかった。収穫祭に来て証をたてよと手紙を送った。

「さあ、準備は整った。事件も恋も、すべての幕を、下ろしましょう」

フローラの宣言で、舞台の明かりが消され、ランプを持ったアナスン団長が残った。

「皆様と作り上げたこの素晴らしい舞台も、明日でいよいよ終幕と相成ります。見事フローラ姫が大団円を迎えることができるのか。宵の明星の災いが降りかからぬよう、仮面をご用意の上、大勢でお集まり下さい。最後の舞踏会を盛り上げましょう! では、この後はごゆるりと皆様の時間をお楽しみください」

お辞儀とともに大拍手。音楽が始まり、大きな踊りの輪が咲いた。


マリーは、時間も忘れて足が痛くなるまで踊り続けた。

…という展開を想像して気合いを入れていたにも関わらず、両手に収まるくらいの曲しか踊らず、トーニに連れられて帰宅の途についていた。

家の明かりが近づく頃には、足のふらつきもようやく消えた。脱いでいた靴をはく。

「トーニ、本当に何て言っていいのか…」

楽しかったのだ。踊って、喉が渇いて、お腹もすいて、ニーナやトーニの友人たちと一つのテーブルで大いに盛り上がった。楽しくて楽しくて、気がついた時にはマリーは吐くほど酔っていた。

乙女のプライドを総動員して、ぎりぎり口から出さなかっただけが救いだった。

ヒールを脱いで、トーニに介抱されながら休み休み歩き、夜風に当たって何とか落ち着いた。

「連日大忙しで、疲れてたんだろ? 酔いも回るって。こんな生まれたての仔馬みたいなマリーも見れて俺はサイコーだけど? マリーの歌うのも、初めて聞いたけど…」

ぶっと噴出した後は肩を震わせていて、トーニは言葉が続かないようだった。

赤くなっていいのか青くなっていいのか、とにかくマリーは、自分が相当に残念な乙女だったという自覚は持った。痛いほど。

「トーニ、こんな目にあわせた後じゃ何の説得力もないけど、私、本当に嬉しかったの」

トーニに顔向けできないマリーは、手に持った赤いルセルの花冠、ヴェールを見つめる。

「トーニはステキな人よね。まっすぐに気持ちをぶつけてくれて、でも気遣ってくれて。いつだって、私、大切にされてるなあって思ってた。真っ赤なルセルだってカードだって、自分が特別な、一人前のレディとして扱ってもらえた気になって、ものすごく恥ずかしかったけど、それ以上に嬉しかった。トーニがしてくれたみたいに、私もトーニに喜んでもらいたくて、楽しかったって思ってもらえたらって、なのに…自分だけ楽しんじゃって、情けないったら」

「マリー」

やめて、と両手を握られた。大きくて熱い手。

「俯いてないで、こっち見る。ほら」

門までもう少しのところで立ち止まる。家が少なくて暗いけれど、トーニの優しい表情はよくわかる。

「ちゃんと聞かせてよ。マリー、今日は俺といて楽しかった?」

「もちろん、とっても」

伝わってほしいと思って必死に見れば、トーニはふっと微笑んだ。

「花とカード、嫌じゃなかった?」

「嫌だなんて!ドキドキした。嬉しかったわ」

「ドキドキしてくれたんだ」

あ、とマリーは正直すぎた自分に赤くなる。今更ごまかせない。

「し、しました」

トーニは嬉しそうに、くっと肩で笑う。

「頑張って贈った甲斐があった。ちょっと引かれるかなって心配だったんだけどさ、でも、マリーの初めての花束だろ? こう、思いっきり、絶対忘れられないようにしてやろうと思って。記念になった?」

「なったわ。絶対忘れないわよ」

「それは何より。じゃあ、俺に惚れた?」

「はっ?」

すっとんきょうな声が出てしまった。マリーの乙女度がまた下がった。

「ちょっとは…俺のこと、好きになった?」

握られた手に力がこもるし、タレ目の笑顔は優しいけれど、眼差しが熱くて、マリーは頬にジリジリ熱が集まるのを自覚する。目をそらしたくなるけれど、ここは逃げてはいけないと心が告げる。

ずっと言わなければいけなかった言葉。

前よりずっと深くトーニを知ってから、色づくものもできたけれど。

マリーの変化をじっと見ていたトーニが、囁くように言った。

「俺は、君が好きだ」

二人の間の余りに濃い空気に、マリーは泣きそうになって目に力を入れる。

「わ、私は、ウィル兄さんが好きなの。だから、だから、ごめんなさい! こたえられない」

泣くな!と自分に喝をして何とか言い切った。少しの後に、ふっとトーニの眼差しと空気が緩む。

「…うん。知ってた」

ポン、と一回つないだ手を叩かれて、マリーの両肩からも力が抜けた。

「マリー、ごめんな。それを聞きたかったんだ。とっくに、って言うかさ、初めて会った時からマリーがウィルさん好きだって、知ってたよ。俺もバカでさ、マリーがウィルさんといる時の、大好きだーって顔いっぱいの笑顔に惚れたんだもん。最初から勝ち目ないっての」

「え」と固まるマリーにトーニは笑う。

「え、じゃないよ。マリー顔に出るし、皆知ってるよ。知ってて声かけたの。レオンさんにウィルさんに先生だろ。あんな人外みたいな人たちに普通についていってる時点でマリーだってすごい奴なんだ。しかも可愛いし。皆好きにもなるよ。ウィルさんがあんなだから、マリーがどうしようもなかったって見てて分かるんだけど。俺も勝手で、マリーからちゃんとウィルさんが好きだって聞けば、ふんぎりつくだろうと思ってさ。迷惑を承知でしつこく誘った。だから、ごめん」

「迷惑なんかじゃなかったわ! 本当に嬉しかったし、楽しかった」

「俺も。どうせならウィルさんには絶対真似できないようなキザな事やってやれって、色々やれて悔いなし。今日のマリーもすごく綺麗で、俺のためだって思えば嬉しかったし、楽しかったよ。泥酔されるなんて思い出も貴重だろ?」

それって信頼されてるってことだし、と笑う姿は心からのもので、マリーも情けないなりに笑顔になれた。

トーニは気軽な動作で、胸元のルセルを取り、マリーに差し出した。

「マリーは、ちゃんと俺の気持ちにこたえてくれたよ。だから、ありがとうの花、かな。応援してるからさ。明日、頑張って。そしてもし辛いことがあったら、いつでも俺のところにおいで?」

ありがとう、とすぐに言うつもりだったマリーは、ルセルを受け取ったところで、急に涙がこみ上げて困って俯いた。一生懸命目をパチパチして散らす。

どうしたらこの優しい気持ちにこたえられるのだろう。

「トーニに、恥ずかしくないように、頑張るわ。私も、何かトーニの役に立てたらいいのに。私…」

手中のルセルを見る。少ししおれた姿も愛おしい。トーニがくれたときめき、喜び。

トーニはすっきりした顔で、マリーの言葉を待ってくれた。

「トーニ、ありがとう。私、自信もってウィル兄さんにぶつかれる。トーニが自信をくれたのよ。きっと、私、今日、ウィル兄さんのことがなければ、あなたに恋をしたと思うわ」

どれだけトーニが素敵な男性かということを伝えたかった。

トーニの目が大きく開く。

「マリー」

呟いて、顔がくしゃっと崩れる、と思ったところでマリーは勢いよく引かれて、抱きしめられていた。

力強くて、熱くて、痛い。どうしていいかわからない。

「計算じゃないところが参るよなあ」

「え」

顔が見えなくて、耳元の声なのに聞き取れない。

「独り言。思いっきりキスされたくなかったら、ちょっとじっとしてなさい」

「き」

す、とは言えなかった。

じっとするのよマリー!

マリーは本能的なところで、岩のようにじっとしていようと一瞬で決意した。

固まる体に気がついたトーニは、マリーの首元に顔をうずめて笑う。

「そうそう。ちょっとだけ我慢してよ。俺がその何倍も我慢してるんだって、きっと10年くらい経ったら分かるから」

マリーはじっとしていた。心臓だけは体から飛び出しそうになっていたけれど。

「ウィルさんは、ずるいよなあ。先ってだけで」

やっと、トーニのおそろしく早い鼓動にマリーも気がついた。

「俺の頭の中、今すごいことになってるよ。せっかくカッコよく立ち去ろうと思ってたのにさ、はあ」

ため息の後の時間は気持ちの整理をしているのだと分かるから、マリーはとにかくじっとした。

それは多分、感じるより遥かに短い間だったはずだ。

「よし、何とかする」

上を向いたようだ。子供にするように、トーニの手がマリーの後頭部をポンポンと叩いた。

「顔見れないから、このまま喋る。とにかく俺は、今日の結果に非常に満足しています。いい?」

マリーは思わず頷いて、しまった動いちゃったと血の引く思いをしたが、大丈夫だった。

「マリーにひどいことする気は全くない。でも、マリーのせいで余裕がゼロ。とにかく、マリーは明日頑張れ。俺は気持ちの整理がつくまでマリーから離れるけど、またちゃんと声かけるからさ。ただ、うーん、はっきり言うわ。ウィルさんとダメだった時は俺、動く。俺に惚れてよ? いい?」

よくない。

「ちょっと。頷いておくとこだよ、ここは」

声が笑っていた。ポンポン、とまた頭が叩かれる。

「よし、じゃあ、行くよ。今日はありがとう。ちゃんと寝て、明日頑張れ?」

やっぱりトーニは優しいとマリーは頷きながらまた涙ぐむ。

マリーの肩を掴んで、トーニが離れた。視線が合ったのは一瞬。

「おやすみ」

トーニは素早くマリーの額にキスをして、走り去った。

「おやすみなさい!」

慌てて返したマリーの声は、トーニの背中とあげた片手が受け取った。

暗闇に一人。

手の中の赤いルセルをくるりと回せば、踊りで広がるスカートのようで、マリーは楽しい思い出に、笑って門をくぐった。

真っ赤なルセル。情熱の花。




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