マリーとウィルの舞踏会 ・後
昨日よりは長く、でも、最後まではいられず、マリーとウィルはのんびり帰り道を歩いていた。
「もういいだろ。マリーも。よこせ、ほら」
先ほどよろけてから、マリーはウィルにしっかり腕組みさせられている。
隣からひょいと手が伸びて、マリーの視界がはっきりした。
街灯のまばらな街のはずれに差し掛かれば、人もほとんど通らない。
マスクとヴェールをとると、思いのほか夜の風が爽やかに顔を撫でた。
「はあ、すっきりするな、やっぱ」
ウィルの引きしまった横顔を見て、いよいよ夢の覚める時がきた、とマリーは思った。
豊穣祭の三日目、というその意味を、実は二人とも分かっていなかった。
最初の方は賑やかだった。仮面を着けていてもアナスン劇団のメンバーは周知されていて、一曲終わるごとに大勢が動く。正体が分からないように、集団やパートナーが入れ替わる曲は避けつつ、ウィルの見事な「体さばき」でマリーは十分に踊りを楽しんだ。ウィルは有言実行した。
『どうして言う前に分かるの?』
『騎士ですから?最高のエスコート役としては当然の能力でしょう』
芝居ががって得意そうにしていたが、つまりは体重のかけ方やちょっとした仕草で、マリーの疲れ具合や「何か飲みたい」や「隣の人が話していた甘いものが気になる」などを実によく把握してくれていた。
そして、アナスン劇団の賑やかしも終わってしばらく、時間もだいぶ進んでから会場の一角で歓声と拍手が上がった。
ひざまずいていたらしい男性が女性を抱きしめ、熱烈なキス。
『あ!プロポーズ!』
もちろんマリーは初めて見たので目が離せない。
『上手く行ったみたいだな』
『…なんかちょっと照れるね』
ほのぼの笑っていたのが間違いだと、そうかからず気がついた。
会場のあちこちが。最初はマリーもニコニコ見ていたものの、粘度の増える空気に居たたまれなくなる。
(こんな? こんななの?!)
『マリー、耳まで赤い。…もういいな?』
踊りどころじゃないだろ、と囁かれて、急いで首を縦に振った。
『ちょっとは周りに配慮しろって言うのも、野暮なんだろうが、でも、なあ…』
マリーを抱えるようにして足早に花のアーチをくぐったウィルも疲れた声だった。
『こっちが場違いだったの。昨日とは雰囲気が全然違うのね』
とはいえ、途中退場のマリーは最後を知らないのだが。
『…マリー、楽しめたか?』
それは思いのほか不安そうな声だったから、答えを一つ、マリーはギュッとウィルの腕にしがみついて宣言した。
『夢のように、最高でした!』
さすが騎士様と言えば、そうかと笑って、ウィルはマリーの手をポンポンと叩いた。
マリーが想いを伝えるとしたら、それは本当に別れ際だ、と考えていた。
家には両親がいて、ウィルが挨拶もせず帰るなど考えられない。着替えも馬の支度もある。
だから、まだこの時間を楽しもう、と自分に言い聞かせながら、マリーは隣を歩くウィルを見上げた。
「ん?なんだ?」
すぐ気がついてマリーへ向く顔を見る。マスクがなければ何倍も優しい顔になる。
「やっぱり、マスクがない方がいいね」
「そうだな。大勢の中で、相手の視線が追えないっていうのは結構緊張するよな」
マリーは笑うしかない。
「ウィル兄さんてば!ほんとに色気ないわね。武術の話じゃなくて、マスクもカッコいいけど、やっぱり普通に顔を見ていたいって素敵な会話のはずだったのに」
これじゃあ確かに他の女性も苦労するだろうなと良く分かった。
「あ、あー…悪い。会場出て顔も取ったら気が抜けた」
確かにリラックスした顔だ。でも、こういう時間だってマリーは好きだ。
「いいわよ。気なら十分遣って頂きました。本当に楽しかった。ウィル兄さんのおかげね。ありがとう」
「俺も楽しかった。久々にこんなに踊ったよ。マリーだったから。あ、そこ気をつけろよ」
ひょいと引っ張られてみると、足元の土がえぐれていた。
「ありがと。…ふふっ。何だか、懐かしいね」
この道を、何往復しただろう。マリーは夢中になって喋るから、よくこうやって足元がおぼつかなくなっては怒られた。
「そうだな。実によくお転びあそばされたお嬢様が、随分立派になったもんだ」
「中身はどうだかしらないけど、って?」
「お、以心伝心」
「もう!」
ふざけている間に、家に着く。明かりが消えている。
「あれ?あ、まだ帰ってきてないのね」
そうだ、両親も水入らず中だったと思いだす。門を開ける。ウィルも後ろをついて歩く。
「カギは?」
「裏の勝手口から入れると思うわ。着替えるでしょう?お茶くらいは出せるけど、どうする?」
「先生たちはどこに行ったんだろう」
「多分、畑の向こうの丘に馬で行って夜のピクニックね。そんなに遅くならないと思うけど」
二人でお酒を片手に星でも見ながらゆっくりしているはず。意外と行動が若いのよね、とマリーは親ながら冷やかしたくなってしまう。
予想通り勝手口は開いていた。家の中は外の明かりだけで、暗い。
「なら、二人が戻るまで、いるよ。お茶頼める? あ、マリーも着替えるか?」
勝手知ったるで、ウィルもマリーを待たずに火起こしを持ち出し、ランプに火を入れる。勝手口のある台所が明るくなった。手元が分かればいいから、テーブルの上だけだ。
「ううん。先にお茶の用意するね」
ウィルは着替えてくると出て行った。足音が遠のく。
「…私、普通に喋れているのかしら」
マリーはふう、と大きく息をついた。時間が迫っている。
もうこのままでいいじゃないか、と囁く声が大きくなるのを振り払い、お茶の支度を始めると、程なくウィルが荷物も持って戻ってきた。マントをはずして、下を替えただけ?
ウィルは視線の意味が分かったらしく笑って頷いた。
「帰るだけだから、これでいいんだ。お茶、ここで飲むよ。マリー?」
戸棚から茶葉を取りだすマリーが振りかえると、差し出されたのは、小さなミルカの束。
「あ。ウィル兄さんに着けたままだったっけ」
受け取ろうとしたマリーの手を、ウィルの空いた手でとられた。
「まだ、着替えてもらわなくて良かった。こんな場所で悪いけど」
ふと笑ってマリーを見つめる、視線だけで雰囲気が変わる。
ランプの灯りで影が揺らめくウィルの顔に、どきりとする。
「花のように美しいあなたと、恵み豊かな美しい夜を過ごせましたこと、我が心の幸い。ミルカの花にのせて、どうかこの夢のような一時の思い出と私の思いを、あなたに」
(気が抜けた、とか言ってたのに…)
マリーが喜ぶだろうと思えば、こうやって振舞ってくれるウィルが、やっぱり大好きだ、とマリーの心が震える。熱くなるような熱はない、ひたすらに温かい、ウィルの眼差し。
マリーの熱が伝わらないのはなぜだろう。こんなに近くで視線を合わせて。
(こんなに好きだと思っているのに)
言葉を思い返しながら、花を受け取った。
「あなたの思いこそ我が喜び。今宵が儚い夢で終わらぬよう、あなたのお心が真の心でありますよう、ミルカの花に祈って明日の朝を迎えましょう」
ミルカにおいた視線をウィルに戻せば、マリーはいつもと違う顔に出会って戸惑う。
見られているのに、どこか遠い。影のせいだろうか?
「ウィル兄さん?」
呼びかければ、一瞬で表情が戻った。ウィルはマリーの手に口づけて、離した。
「楽しかったな。ありがとう」
「私も」
(ウィル兄さんも楽しかったって言ってくれた。喜びと感謝で終わって良かったんだ)
穏やかに笑いあえることにマリーは満足できた。握ったミルカに、ふと思い出す。
「ねえ、これ、そういえば、誰に言われたの? 贈った方がいいって」
もし女性が近くにいるなら嫌だな、と思う。ウィルはまともに驚いていた。
「え、何で」
「分かるわよ。何年ウィル兄さんと付き合ってると思うの。あ、座って。お湯沸いたみたい」
ミルカの花は枯れないようにコップに水を入れて挿す。お茶は温度を高く蒸らすことにした。
「マリー。こっちの領事館に知り合いが? 手紙もびっくりするんだ、いつも俺の生活がばれてる」
誰か見張りがいるのか、まで言うから笑ってしまう。
「まさか。忙しい時もゆとりがある時も、想像がつくだけ。今は、朝から晩まで忙しくて、書類が嫌になっては領地の見回りに行って、また何か厄介事拾って帰ってきて、領事館の人には怒られて、居残って書類書いてるうちに面倒になって、その辺で寝ちゃうのよ。あ。ちゃんと帰って休んでねって意味で書いたのに、仕事場にベッド入れたーなんて返事でガッカリしたわよ。それから、ウィル兄さんとお別れを惜しむんだって人が来ては断らないで宴会でしょ。二日酔いでしょ。それでまた書類が伸びちゃうの。後任の人、呆れてない?」
ペラペラと思いつくまま喋ったマリーに口を挟まず、むう、とウィルは腕組みして、黙りこむこと三拍。
俺ってそんなに単純なのか、とがっくり頭をたれるのがおかしい。
「そいつが、花を贈れって言ったんだ。呆れてる。確かに」
マリーもちょっとびっくりする。豊穣祭に来られるとウィルがくれた手紙には、若くて元気の余った騎士と書いてあったはずだ。
「ずいぶん気のきく人なのね。そういえば、全然その人のお話聞いてないわ」
ウィルの前にカップを置いて、お茶を注ぐ。はらりとカップに何かが落ちた、と思えば、髪にさしたミルカだった。「おっと」ウィルがお茶に落ちる直前にぱっと手で掴む。
「すごい!お父さんもそうなの。お皿とか、のせたものこぼさないで掴んでくれるの」
「先生に何てことさせてんだ」
笑いながら、ウィルはミルカの花をつまんで立ち上がる。
「この辺か?」
大きな手が首筋の髪をすくいあげて、そっと花を挿した。
マリーは驚いて言葉が出ない。男性が女性の髪に花をさすのは、求愛の行為。
ウィルはしみじみ手元の髪と花を見ている。
「いつもまっすぐなのに、こんな風にできるんだな。絡まるから花が落ちないのか。…あ」
ウィルがポットを持ったまま固まっているマリーに気付いた。
視線が合ったところで、マリーはウィルに恐い顔をしてみる。
「ウィル兄さん? まさかうっかりやったとか言わないわね?」
真っ赤な顔をしているだろうから、効果がないのだが。
ようやくマリーの睨む意味が脳裏に浮かんだのか、ウィルが両手をあげて飛び離れた。
「マリー、ごめん!わざとじゃなくて、うっか、いや、だから!ごめん」
マリーはウィルの慌てぶりに溜飲を下げることにする。
「いい。ウィル兄さんはそういう人だもんね。座って? お茶飲んでて。これ以上落ちても邪魔になるから、着替えてくるわ」
「いや、邪魔じゃない。待ってくれ」
ウィルの横をすり抜けようとして止められる。
「ごめん。悪気はなかった。せっかく綺麗にしたんだから、マリーが嫌じゃなければ、もう少し見ていたい」
ウィルはまっすぐにマリーを見た。マリーが動揺したのも全部見られてしまう。
「人に言われて贈るのも情けないけどさ、贈ってよかったよ。ミルカが似合ってて、可愛くて、綺麗だ。髪もそうだけど、指とかミルカの花の匂いが移ってるんだ。近づくと分かる。ミルカの花の精って言ったの、そういうわけ。…って、ちょっと恥ずかしかったか。俺が言ってもな」
こんな時はちゃんとマリーの気持ちを読み取るらしい。ウィルも照れたのかやや乱暴に椅子に座った。
「恥ずかしいけど…ありがとう。褒めてもらえるの、嬉しいもん」
マリーも直角の位置に座って、自分のお茶を用意した。二人で一服。空気はくすぐったいけれど、何とか落ち着いた。言葉がなければとても静かで、ランプの灯りがホッとする。
「なんの話してたっけ? そうだ、ユールのことか」
「それより、時間はいいの?」
両親の帰ってくる気配はまだない。いくら長閑な地域でも、深夜に帰るのは心配だ。
それに、あんまり遅いとマリーの一大決心がどんどん鈍ってきてしまう。
「大丈夫だよ。挨拶したらすぐ出るから。それより、そのユールって言うのが新しい騎士なんだが」
(きっと、これは私一人残して帰れないって言うことね)
口ぶりから察したマリーは、話に集中しようと気を持ち直した。
ユールはウィルやレオンと同じく若干二十歳で騎士になった。今度ウィルが行く領地の出身で、騎士には住んでいた土地にはすぐ配属されないという決まりがあって、任命と同時に転属が決まったのだという。
慣れないながらも堂々とした態度で論説鋭く、王宮ではすごいエリートが来たとレオンと話していたそうだ。豊穣節の王宮勤務に区切りがついたので、ウィルと一緒に領地に来て引継ぎを始めたところ、ウィルのスバラシイ騎士ぶりに被っていた猫がふっとんだ、と。
「あいつ、朝から晩まで勉強だって俺の後ろ黙ってついてきててさ、我慢の限界だったんだな。俺の第8回?送別会で弱いのに酒一気のみして、おい、オッサンいい加減にしろよ!って。無理やり家に帰らされた。港町で結構荒くれに育ったみたいでさ。後は結構ずけずけ言うようになって、花もそう。男なら何言われても花持ってくのが筋だろって怒られた」
「まあ、男らしい」
マリーには、オッサン、と怒鳴られているウィルがありあり浮かぶだけに笑えてお腹が痛い。
「引継ぎもさ、あいつ優秀だから、どんどん吸収して、自分なりにやろうとしてる。だから、大きなことは任せて、細かいところを自分で片付けてるだけなんだけど、この自分の分が終わらないんだよ」
細かいこと、と聞いて、マリーはきっとそうだろうなと、胸があったかくなる。
「ウィル兄さんが大事にしてきたことなんでしょう? 時計塔を建てるのにも、そこの空き地で遊んでた子供たちのことを考えちゃうのよね、ウィル兄さん。そういう細かいのが4年分なら、それは終わらないわよ。でも、ユールさん、家に帰らせたってことは、ウィル兄さんの体が心配で怒鳴ったんでしょ? そういう人なら、大丈夫ね。きっと分かってくれてるわ」
それは騎士の仕事じゃないでしょう、と領事あたりには怒られながらも気にするのをやめないウィルだから、毎日送別会になるのだ。ウィルの日常を想像すると、どんな場面でも気取らず人と賑やかしく過ごす姿ばかりになる。そういう騎士様が大好きだ。きっと皆も。
マリーは自分の想像に笑って、お茶を一口飲んだ。ぬるくなっても香りが残り楽しめる。
返事がないと思ってウィルを見れば、テーブルに肘をのせ手を組んだまま、じっとマリーを見ていた。
ランプの灯りで焦げ茶の瞳が赤く光を反射して、まっすぐにマリーを見つめるから、マリーは吸い込まれそうな気がする。時々、ウィルはこういう目をする。マリーの奥にある何かを見ているような。
どきん、とマリーの心臓が強く打つ。知っているから。この目の後に、たいていウィルはゆっくり微笑むのだ。そうすると、眼差しの色が変わる。
「マリーは、すごいな」
ほら。やっぱりそうだ。自分が世界一大事にされていると錯覚するような、きれいな目。甘い声。
マリーは気恥かしくて仕方ないのに、そこに都合の良い夢を見たくて、反らせないのだ。
ウィルが口を開きかけた、その時、ガタン、と遠くから音がした。
緊張はすぐ解けた。あれは、両親が帰ってきて門を開けた音だ。
話声と蹄の音も確認して、ウィルは大きく息をついて立ち上がる。
「戻ったみたいだな。煩わせても悪いから、このまま外で挨拶して帰るよ」
「じゃ、私も行く。両親には内緒で、ちょっと話したいことがあるの!」
慌てて言った。
言ってしまった、とマリーは後からドキドキし始めた。
「ん?そうか。じゃあ、ランプ持ってくれるか」
ウィルは当然だが全く気負わず荷物を持って勝手口を開けた。
籠を持った母親は、やはり丘に行っていたそうだ。
「久しぶりにゆっくりしてきたわ」と満足そうな母に「娘にのろけてどうするの」と返しながら、マリーはウィルを見送ってくるから、とランプを渡した。今日はランプがなくても十分明るい。
ウィルは厩舎で父と話すのだろう。門の所で待っていると、間もなく腰に剣を下げて馬をひくウィルが来た。ライハルトに挨拶は済ませたという。
逃げ出したい気持を必死に押さえて、マリーはすぐそこの四つ辻まで、と歩き出す。
街に向かう道に交差するように、隣の領へ向かう道がある。百歩も歩かない距離だ。
月明かりで景色ははっきりしている。誰もいない田舎道には、足音と虫の声。
「ウィル兄さん、今日は本当にありがとう。こんな遅くになっちゃってごめんね」
「大丈夫だよ。明日は午後からでいいし」
「お花もくれて、踊りも楽しくって、本物の騎士様と舞踏会に出られたなんて、全国の女性が憧れる全部を体験してしまいました。ウィル兄さんのおかげだよ」
ウィルは手袋をはめた手で馬の手綱を調整しながら、優しい声で笑う。
「大げさ、マリー。それに、マリーが企画してくれたんだろ?頑張ったよなあ、あんな大がかりに。俺も楽しかったし、ユールに自慢してやるよ。あいつ絶対こんな舞踏会は知らないはずだから」
微妙に花の件で対抗意識があるらしい。
「…最後に、こんなに楽しい思い出ができて、良かった」
なるべく普通に言ったそれは、きっかけの言葉だ。ウィルはマリーの想像通りに、返した。
「最後って、また機会はあるだろ?」
その軽やかな優しさを傷つけてしまうのが辛いと思いつつ、マリーは辻を前に立ち止まった。
「ううん。最後。もうウィル兄さんとは、踊れないと思うから」
「マリー?」
ウィルも気付いて立ち止まる。強張った表情のマリーを見ているはずだ。
「お話って、それなの」
戸惑うウィルを見上げれば、今すぐにでも「何でもない」と言ってしまいたくなるけれど、ニーナやトーニのくれた思いで、自分の背中を押す。
「転属になるって聞いて、もう何年も会えないだろうし、会えても数年に一度になるって分かった時に、私、このまま、今までみたいにはいられないって思ったの。だってそうでしょう? 私はもう18歳になった。ずっと家にいて、お父さんの手伝いをして、兄さんやウィル兄さんが来てくれるのを待つ生活が、何年も続くわけない」
「マリー…」
いっぺんに言ってしまわなければ心が折れそうだ、とマリーはウィルが口を開く前に続ける。
「でも、だからって、誰かと結婚して、子供を育ててっていう自分にもなれないの。今のままじゃ。だって、私が一番好きなのは、ウィル兄さんなんだもの!」
ブル、とマリーの勢いに馬が身じろぐが、ウィルは目を見開いて絶句していた。マリーはそれを頭のどこかで冷静に見ていた。
(それはそうだ。急に妹にこんなこと言われて、驚かないはずがない)
ウィルが好きだ、と口にした途端に、何か大きな荷物が肩から落ちた気がした。
「ずっと、好きだったの。一番側にいてくれて、一番わかってくれて、ずっと一緒にいたいのは、ウィル兄さんしかいないの。でも、私はずっと妹だったでしょう? ウィル兄さん、私のこと、恋人だなんて思ったことも、これから思うこともないでしょう? だから、言わないでおこうと思ったけど、でも、それだと私自身にも、私を気にかけてくれる人にも嘘ついて傷つけて、先にも進めなくなるって気がついたから」
一呼吸おいて、マリーは精一杯笑った。
「だから、ワガママなんだけど。妹の最後のワガママだと思って、聞いてください。今まで、見守ってくれてありがとう。大事にしてくれてありがとう。甘やかしてくれて、遊んでくれて、いつもウィル兄さんが励ましてくれて、頑張れた。可愛い妹のままでいられなくて、ごめんなさい」
(まだ、泣くな!)
こみ上げるものに、頬がひくつく。
「今はだめだけど、ちゃんと、戻るから。ウィル兄さん、私に時間を下さい。離れて、ウィル兄さんがいなくても、ちゃんとやっていけるように。他の人にも目を向けて、視野を広げて、ウィル兄さんと、ちゃんと妹で会えるようになるから。転属でちょうどいいでしょ? しばらくの間、私に離れる時間を下さい。兄離れの」
「マリー、それは」
ウィルも混乱したまま、口を開いたのだろう、続かない。
泣き出しそうなマリーに、条件反射のように慰めようとしているのかもしれない。
「今日は本当にありがとう。こんな話で終わってごめんね。お父さんには、普通に会いにきて。私とは喧嘩中って言っといてくれればいいから。忙しいと思うけど、体にだけは気をつけて」
もう、何も思いつかない。
マリーは、ウィルの顔を見て、しばらく会えないのだからと焼きつける。
ウィルもずっとマリーを見ている。困惑した顔。頭が真っ白になっているに違いない。
「それじゃ、気をつけて帰ってね。さよなら、ウィル兄さん」
何も考えられないまま、マリーは背伸びしてウィルの頬に口づけた。背が高いから、唇の脇が精いっぱいだった。
何とか笑顔でいられるうちに、マリーは家に走りだす。
「マリー!待て」
我に返ったウィルの声に、急いで振りかえる。離れてしまえば、顔は分からない。
「大丈夫!落ち着いたら手紙書くから、待ってて!じゃあね!」
元気な声を出して、走る。きっとこれで追いかけては来ないだろう。
急いで門を開けて錠をかける。居間に明かりがついている。両親がのんびり過ごしているはず。
勢いそのままに家に入る。玄関のカギをかける。
「ただいま! 急いで着替えたいから、部屋に行くね!」
居間に廊下から声をかけ、二階の部屋に駆け込み、カギをかけた。
「………」
ドアを背に、はあ、と、マリーは大きく息を吐いた。
全身が熱い。ドキドキしている。
「…ふふ、言っちゃった」
なぜだか笑える。笑ったら、急に力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。
「ニーナ、トーニ、私、頑張れたかな」
ウィルの呆気にとられた顔を思い出す。その前の優しい顔を思い出す。得意そうに踊っていた顔、マリーをドキドキさせて、いたずらっぽく笑った顔。大事なものを見るように、見つめてくれた顔。
もうあの顔には会えないかもしれない。ずっとずっと時間がかかるかもしれない。
涙があふれる。
ウィルを思えば思うほど、申し訳なさでいっぱいになる。
「ごめんなさい…妹で、いられなかった」
頬をぬぐった指先からは、確かにミルカの香りがした。
「好きになって、ごめんなさい」
ぼたぼたと涙がブラウスに染みを作るのにもかまわず、マリーは泣いた。