追わないと決めたのに…
結局、俺は来てしまった。
もう追わないと決めたはずなのに。
日曜のショッピングモールは人で溢れている。由奈と並んで歩きながらも、頭の中は真っ白だった。美姫の顔が、どうしても消えない。あの日の、あの表情が胸に居座って離れやしない。
「ほら、朔夜。ぼーっとしてないで。ちゃんと選べよ」
由奈の声で現実に戻される。適当に笑って返す。仮面をはめて、店のウィンドウを眺めるふりをするだけだ。
本当に渡していいのか。迷惑じゃないか。そもそも、俺にそんな資格があるのか。頭では分かっている。あいつには蓮がいる。聞いただけの情報で、もう答えは出ている──それでも足がここに向かっていた。
ふと、昔のことが蘇る。小さな手で土をかぶせたあの日。あの桜の木の下。夕焼けが長く伸びて、俺たちは笑っていた。タイムカプセル。缶の中に子供じみた願いを詰めたんだ。今でもあの場所の匂いだけは忘れられない。
「朔夜ってさ、本当に美姫のこと好きだよね」
由奈がからかうように言う。言葉は軽くても、胸に刺さる。
「……ああ、好きだよ。今も昔も――ずっと」
素直に頷くと、由奈は少し責めるような口調になる。
「だったら、なんで何もしないの」
できない。できるはずがない。自分のことを守る資格すらない気がしていた。あいつが好きだと名乗ることは、もう彼女の世界をかき乱すだけだ。
その時、俺の喉から出たのは別の言葉だった。由奈を振り向いて、思わず問い返す。
「そういえば、確かめてくれたんだろ? どうだったんだ?」
由奈が息を吸い直し、少し俯いて答える。
「うん……美姫と蓮、付き合ってるって。二人でそう言ってた」
言葉が耳を通り抜けて、体の中心に落ちる。――やっぱり付き合ってんだな。
胸に、冷たい実感が広がる。頭では分かっていたはずなのに、誰かの口から確認されると現実味が重くのしかかる。
「いいのか? これで本当に諦めるのか?」
自分で自分に問いかけるように、俺はつぶやいた。声は低く、震えていた。由奈は一瞬だけ黙り、そして小さく息をついた。
「まだ、間に合うんじゃないかなって思うよ……でも、どうするかは朔夜次第だけどね」
由奈の言葉には優しさと諦めが混じっていた。俺はそれを聞いて、肩が落ちるのを感じる。
人混みの向こう、ふと視界が裂けた。そこに――美姫がいた。隣には蓮。二人は肩を寄せて、穏やかに笑っている。笑顔が、鮮やかすぎて胸が押し潰される。世界が足下から崩れ去るみたいだ。
「なんでいるんだよ……」
誰に言うでもなく呟いた。逃げればよかったのか。来なければよかったのか。現実を見なければ済んだのかもしれない。けれど、視線は勝手にあいつを追っていた。
美姫と目が合う。時間がゆっくりと止まったように感じる。互いの距離は変わらないのに、世界だけが遠ざかっていく。美姫はすぐに視線を逸らすが、その顔は苦しげで、どこか不自然に見えた。
その瞬間、胸の奥の何かが粉々に砕けるのを感じた。怒りでも嫉妬でもない、もっと複雑で鈍い痛み。喉の奥に詰まった本音が、うまく言葉にならない。
「朔夜、大丈夫?」
由奈が寄せる声に、俺は返す言葉を持たなかった。美姫は無理に笑おうとするが、笑顔はどこかぎこちない。俺はその姿を見て、ますます胸が締め付けられる。
「──美姫」
呼びかけようとして、声が風に消える。言えばすべてが終わる。終わるのは多分俺の側だ。だから言えない。言ってはいけない。
俺は一歩下がる。人波に紛れて、距離を取る。由奈の手が肩に触れる。振り払うことはしなかった。触れられる痛みが、唯一の存在証明だから。
胸の奥で、小さく囁く。タイムカプセルの中に詰めた願いが、まだどこかで揺れているような気がする。中身はもう思い出さない。思い出してしまえば、きっと戻れなくなるから。
――追わないと決めたはずなのに。
自分に問いかける。答えは出ない。だが、足はまた動き始める。逃げられないなら、せめて真っ直ぐ歩こうと、嘘みたいに思う。
美姫の背中が遠ざかる。俺はその後ろ姿をずっと見送った。
「――美姫」
その声は、届かずに人混みに消えた。
手が届く距離のはずなのに、
二人の距離は、もう埋められない。それでも目は離せなかった。




