最終章
二十年目の証明、あるいは世界で一番遅い「ただいま」
病室の空気は、澄んだ初夏の光に満たされていた。窓の外からは、校庭の喧騒を思い出させるような、遠い街のざわめきが聞こえてくる。湊は、ベッドの傍らに立ち、自分の震える指先をそっと白衣のポケットに隠した。世界を驚かせる人工心臓を開発し、死の淵から人を呼び戻す数々の奇跡を起こしてきた「神の手」を持つ男、水瀬湊。だが今の彼は、ただの一人の、臆病な少年に戻っていた。「……っ」モニターが刻む、規則正しい鼓動の音。それは、湊が二十年間、寝食を忘れて設計し、美月の胸に埋め込んだ「人工の命」が刻むリズムだった。その音が、一際大きく跳ねた。美月の睫毛が、蝶の羽ばたきのように微かに震える。そして、二十年という長い眠りのカーテンを押し開けるように、彼女の瞳が、ゆっくりと光を捉えた。「…………な……と……?」掠れた、けれど耳の奥にこびりついて離れなかった、あの愛おしい声。美月は視界を彷徨わせ、目の前に立つ、白衣を着た見知らぬ男を捉えた。「……だれ……? ここ、は……?」湊は、呼吸を忘れていた。目の前にいるのは、十七歳のまま、時間が止まってしまった少女。対する自分は、四十歳。髪には白いものが混じり、目尻には消えない皺が刻まれている。彼女が愛した「水瀬湊」は、もう鏡の中にも存在しない。「美月……」湊は、喉を締め付ける慟哭を抑え込み、絞り出すように言った。「……わかるかい? 湊だよ。……君の、旦那さんだ」美月は、信じられないものを見るように目を見開いた。彼女の記憶の中では、つい数日前まで、自分たちは世界中を旅し、夕陽を見つめていたはずだった。彼女は震える手を持ち上げ、湊の頬に、その温もりに触れた。「……おじ、さん。……皺が、ある……。髪も、少し、白くなって……」美月の指先が、湊の顔をなぞる。「……なんで。……どうして、そんなに、悲しそうな……誇らしそうな顔を、してるの……?」その瞬間、湊の決壊が崩れた。彼は美月の手を自分の両手で包み込み、その場に膝をついて、彼女の太腿に顔を埋めた。「二十年だ。……二十年、待ったんだ。……君が死んで、僕の隣からいなくなって……。どうしても諦められなくて、君を氷の中に閉じ込めて、僕は死に物狂いで勉強した……」「にじゅう、ねん……?」「ああ。……君を救う方法がないなら、僕が創る。君を治す医者がいないなら、僕がなる。……その一心だけで、僕は今日まで生きてきたんだ。……美月、やっと、やっと君を、あの日から連れ戻せた……!」湊の背中が、子供のように激しく揺れる。四十歳の男が、十七歳の少女の膝で、魂を削り出すように号泣していた。二十年間、誰にも見せなかった弱さ。自分を「生ける計算機」と化してまで封じ込めてきた感情が、美月の温もりに触れたことで、一気に溢れ出したのだ。美月は、驚きに目を見開き、そしてすべてを理解した。この男が、自分のためにどれほどの孤独を耐え抜き、どれほどの血を吐くような努力を重ね、どれほどの「正気ではない愛」を貫いてきたのかを。美月は、湊の白髪混じりの頭を、優しく、慈しむように抱き寄せた。「……バカ。……本当に、バカね、湊」彼女の瞳からも、熱い雫がこぼれ落ち、湊の白衣を濡らしていく。「学年一位の秀才が、二十年も……たった一人の女の子を追いかけるなんて。……計算が合わないじゃない。……効率が悪すぎるわよ」「……ああ。……僕の人生最大の、誤算だよ。……でも、後悔なんて一秒もしてない」湊は顔を上げ、涙に濡れた瞳で美月を見つめた。「美月……五歳の時に約束しただろう。……僕が絶対に、君を迎えに行くって。……遅くなって、ごめん」美月は、二十年前と変わらない、あの勝ち気で、けれどとびきり愛らしい笑顔を浮かべた。彼女は湊の首に腕を回し、自分の額を彼の額に預けた。「……おかえりなさい、湊。……私の、世界一かっこいい旦那さん」「……ただいま、美月」二人の距離が、二十年の空白を埋めるようにゼロになる。重ねられた唇から伝わるのは、科学が証明した「生」の感触と、それを超越した「愛」の重みだった。「ねえ、湊。……これから、またテストの続き、してくれる?」「ああ。……今度は、人生という名の、終わりのないテストだ。……二人で満点を取るまで、絶対に離さない」窓の外には、二十年前のあの日と同じ、燃えるような夏が始まろうとしていた。止まっていた砂時計が、再び動き出す。それは、一人の天才が、愛という不条理な力で運命を捩じ伏せた、最高に情熱的な「ハッピーエンド」の幕開けだった。
僅か3日間の投稿でしたが読んでいただきありがとうございました。




