第9話 滑落
「さあ、女……かかって来い」
ジョーが珍しく口を開いている。
仕事に必要な時でもしゃべることのないジョーなので、盗賊仲間で彼の声を聞いたことがないという者も多い。ましてや敵である女に声を掛けることなど、これまで全くなかったのだ。
エルザが返事をしないでいると、ジョーが馬を前に進めてエルザに接近し、ぞんざいに斧を振り下ろしてきた。エルザはそれを避けながら斧を横から叩いて受け流すと、そのまま馬の右前足を両断した。
「ムっ!」
馬が絶叫するかのように嘶きながら前へ倒れていったので、ジョーは体勢を崩しながらも飛び上がって、地面へフワリと降り立った。
そしてエルザは、その着地の瞬間を狙ってジョーの背後へ接近し、振り返り見るジョーの眉間へ、渾身の力を込めて剣を打ち下ろした。
「ええええい!」
ジョーはそれを斧の腹で受けたのだが、エルザの打ち込みが思っていた以上に強かったので、斧の背中を兜にぶつけ、ガツンと大きな音を立ててしまった。
「おおっ!」
ジョーはもう一本の斧を振るが、その時はもうエルザは後ろへ飛んでいた。
「むうぅ、侮っていた。女とは思えない重い力……」
ジョーは唸っていた。
だが、渾身の振り下ろしを受けられたエルザも少しショックを受けていた。上には上がいる……エルザは心臓がドクドクと激しく波打ち、冷たい汗がダラダラと吹き出して来た。
リールの騎士団たちを全滅させた黒い戦士に、力で劣る自分がどう戦えばいいのだろう。
「何か……何か付け入る隙はないのか!」
エルザは全身で黒い戦士の動きに集中した。
だがそこに、エルザの油断があった。
後ろから素早く忍び寄る三人の男がいて、エルザの首に腕を巻き付けて、首を締めてきたのだ。
「きゃああっ、何なのっ!」
エルザはうろたえて叫んだが、屈強な男が三人がかりでおさえつけてくるのである。一人は剣を持つ手を、もう一人は足を押さえつけている。三人が三人……かなり強い力で押さえつけるので、エルザは全く動けなくなっていた。
「がははは、ジョー、女相手になんてザマだ! 無様な真似をさらしやがって! 腕が鈍ってるんじゃねえのか!」
そう叫んでいるのは黒い蝙蝠の副団長・メスラーである。
エルザを両脇から押さえ付けている力自慢は、リッキーとトニーだった。二人はエルザを押さえつけながらニヤニヤ笑っている。
「俺たちをバカにするからこんなことになるんだ!」
リッキーはそう言うと、エルザが持つ剣を「てこの原理」で外して地面へ投げ捨てた。
リッキーとトニーは、左右からエルザの腕をねじって後ろ手に回し、関節を痛めるように締め上げてくる。そして足をからめて、逃げられないように拘束した。
メスラーは、さすがのエルザも身動きが取れない様子を見て満足気だった。
「おい、女。エルザとか言ったな? よくもガスタ親分を殺してくれたな。今日はその礼を言いに来たぞ!」
エルザは思い出した。
ガスタを倒した時、そばにいたインテリ盗賊のことを。
「おまえはあの時の盗賊か……!」
エルザは息を絞り出すようにいった。
「覚えていたか……あの時親分の横にいたのがこの俺さ。会いたかったぜ」
エルザの首を後ろから腕を回して絞めながら、メスラーはヘヘヘと笑った。
その一部始終を見ていたジョーは大声で怒鳴った。
「メスラー! その女は俺の獲物だ! 俺は今、その女と戦っていたんだぞ! 邪魔するな!」
ジョーがしゃべっているのを久しぶりに聞いたメスラーは、ジョーを二度見しながら驚いていた。ジョーがメスラーに口答えすることなど、今まで一度もなかったからである。
ジョーがなぜ、この女に固執するのか、メスラーには全くわからなかったが、せっかく拘束した仇のエルザを、手放す気は全くなかった。
メスラーは目を剥いて怒鳴った。
「何言ってやがる! バカかてめえは!」
メスラーは唾をペッと地面へ吐いた。
「お前の仕事は一体何だ? セラスを殺すことだろうが! こいつは俺がもうとっ捕まえてんだから、お前はさっさと貴族の娘を殺してきやがれ!」
雇い主にそう言われると、ジョーはぐッと押し黙った。
口下手なジョーはうまい返しも出来ず、無言でそのあたりの馬へ飛び乗った。そして、名残惜しそうにメスラーを見た後、セラスを追うべく山道へと走って行った。
エルザは筋力でメスラーの首絞めを耐え、血管を圧迫されないよう、常に首を動かした。メスラーは、なかなか意識を手放さないエルザに苛立ち、首筋に犬歯を立てて甘噛みした。
「うううっ」
エルザはメスラーの行動に寒気がしたが、それ以上に息が苦しい。
エルザは声を振り絞って言った。
「……なぜ、貴族のお嬢様の命まで狙うのよ……あなたは私を殺せば満足なんでしょ……」
メスラーはせせら笑った。
「そりゃ、あの女の命を望むお方がいるからに決まってるだろ! それが俺たちの仕事なのだからな」
メスラーはそう耳元でつぶやく。エルザの意識も少しづつ朦朧としてきた。
「さて、そろそろ、落ちる頃か」
そうメスラーが言った時、なぜだかエルザは怒りに震えた。こんなところで殺られてたまるかと、そんな怒りに目がカッと見開いたのである。
「うおおおおおおおっ! ふざけるなぁぁ!」
エルザは身体を左右に揺さぶると、押さえつけているリッキーとトニーの腹かどこかの肉を指先で思いっきりつまんで、もぎ取らんばかりにつねりちぎった。
「ああーーっ!」
「いだだだだ、痛い、痛い、痛いっ!」
二人は飛び上がって痛がったので、瞬間的に男の拘束が緩む。
その時エルザの体が、知恵の輪を外すかのようにブルブルと動いて、両腕の関節技を解除した。
エルザが活路を見出そうと周囲に目をやると、視界の端に谷が映った。
男3人の両腕は、まだエルザの身体に巻き付いたままだったが、エルザはそのままリッキーとトニーの服を握りしめて持ち上げ、地面を蹴って、すぐそばの崖へとダイブした。
「馬鹿! 死ぬ気かっ!」
死ぬ気もなにも、このままではエルザ一人が死ぬだけではないか。
リッキーとトニーは手を離して逃げようとしたが、エルザがそれを許さなかった。
エルザは飛んだ。リッキーとトニーが悲鳴をあげる。
フワリとした……宙を浮く感覚が数秒間続いた。
エルザ達は空中で暴れ……もみ合いながら……二メートル下の斜面へと落下していく。
そしてリッキーとトニーをクッションにして、エルザは斜面へと落ちた。
ドン!
「あああ!」
落ちた衝撃で、リッキーとトニーがはじけ飛んで離れたが、メスラーだけはしぶとくエルザの首に腕を巻き付けている。四人はそのまま斜面をシュルシュルと滑り出した。
「しつこいわね! いい加減離しなさいよ!」
「お前が死んだら離してやらあ!」
エルザたちは、50メートルはあろうかと思われる草の斜面を、時速20キロほどの速さで滑り落ちていく。エルザが思っていたより斜度はキツめである。
「落ちた勢いで加速しているのか!」
思っていたより滑るスピードが速い。早くメスラーからの拘束から逃れて、ブレーキをかけないと、このまま仲良く谷底だ。
滑りながらエルザは、首を絞めているメスラーの左指を掴むと、ボキボキと二、三本折った。
「う痛っうう!」
堪らずメスラーがエルザの首筋に噛みついてきた。エルザは足を上げてメスラーの顔めがけてガンガン蹴りつける。
「ああーっ!」
メスラーは思わず顔を離した。エルザはそのままメスラーの顔をギューッと押してメスラーの身体を引きはがそうとするが、肩と首を掴まれていて離れてくれない。エルザは歯を食いしばった。
「ふうーっ、ふうーっ!」
エルザは振り返って、斜面の先に目を凝らす。
崖の切れ目までもう少ししかない。
「いい加減、離しなさいよ!」
メスラーは隠し持っていたブーツナイフを引き抜いて、エルザに突き刺そうとした。だが、そのせいで首の拘束が緩んでしまった。
その瞬間、エルザは身体を回して向かい合わせになって、メスラーのナイフを持つ拳を包むように握る。
エルザは大きく息を吸った。
そしてナイフの先をメスラーへ向けようと、力でグイグイ押していく。
だが、メスラーも歯を食いしばって押し返す。
「むおおおっ!」
「おおおおっ!」
力比べはエルザが勝って、ブーツナイフはメスラーの腹に突き刺さった。
「あーーーーーっ!」
メスラーは絶叫して前屈みになる。エルザはそのまま力づくでナイフで腹を裂いた。
メスラーの内臓が零れそうになったので、彼は片手で腹を押さえる。
メスラーの腹から、鮮血が飛び散った。エルザはその隙に、全力の握力で右腕を首から引き剥がしていった。
「うおおおおおおっ!」
エルザは雄牛のように吠えた。
メスラーの腕が緩むと、エルザは腕や足を伸ばして滑る方向を操作した。
メスラーは顔面を青くしながら、腹からこぼれそうになる内臓を押さえている。
「なんてことを! なんてことをしてくれたのだ、エルザっ!」
メスラーは目を血走らせ、眉を吊り上げながら、弱々しくエルザを殴り始めた。
エルザは殴られるままにして、メスラーの腹の上に乗ると、メスラーの顎と脇に手を置いて、頭を低くした。そして爪先や踵を地面へ押し付けて減速する。
滑る方向が右へ左へ変化して、二人は木の葉のように翻弄された。
斜面を滑る勢いはだんだんと増していく。その頃、リッキーとトニーがようやく意識を取り戻して慌て出した。叫びながら地面を引っ掻いているが、もう遅い。エルザはそれを横目に見ながら、必死で地面を蹴りつつけた。
そして数秒後……エルザはメスラーの胸に顔を埋めた。
その瞬間、ドン! という音とともに、木の幹にぶつかる。
それと同時に、あーーっ! というリッキーとトニーの悲鳴が聞こえた。二人の絶叫は岩壁にこだまして、やがて闇へと消えていった。
「はぁはぁ……ううっ」
エルザはヨロヨロと顔をあげた。
メスラーを下敷きにしながら、崖に生えている木に衝突したのである。
メスラーをクッションにしたといっても、その衝撃が相当強烈なものだったので、エルザ自身、顔面に強い衝撃を受けて鼻血を吹いていた。
下敷きになったメスラーは息をしていなかった。そして腹からは内臓が零れ落ち、大量の鮮血と小便を垂れ流していた。
エルザはメスラーをそのまま放置して、ゆるゆると起き上がった。
すぐ下には、奈落の底と言っていいような谷底である。
エルザはブーツの靴裏に仕込んであった、三センチほどのナイフをつま先に展開した。
そして斜面をつま先で蹴ってステップを作りながら、ゆっくりと斜面を登っていく。
草を握ったり、メスラーから奪ったブーツナイフで斜面に突き刺したりしながら、這うように登っていった。
そして一五分ほどかけて展望所まで登ってきたエルザは、地面に背中を付けて横たわった。
全身の汗が一度にドッと噴き出て来る。
エルザは何度も何度も大きく息を吸った。
息が楽になってくると、絞められた首や殴られた痕の痛みが蘇ってくる。エルザは眉間に皺を寄せながら、ただ空気を吸い続けた。
頭の中はまだ、真っ白のままだった。