第3話 男爵令嬢
セラスがブライス医師の所へ行ってる間、エルザはエルランディの眠るベッドの脇に膝を付いて、彼女の寝顔を見つめていた。
彼女の肌は青白く、まるで石像のように眠っていた。黄金の髪は枕いっぱいに広げてられていたが、宝石のような青い瞳は、閉じた睫毛によって封印されていた。
「姉様……一体誰がこんなことを」
エルザは眉根を寄せて唇をギュッと閉じた。そしてエルランディの手の甲に触れて優しく撫でたが、その肌は氷のように冷たかった。
「本当に血が流れているのかしら? 恐ろしく冷たいわ」
するとそばに立っていた護衛騎士のマリルがエルザのそばへ歩み寄り、その肩へ手を置いた。
「今、聞いた話だが、エルランディ様を治療する薬が見つかったそうだ」
エルザは顔を上げてマリルを見た。
「本当なの?」
マリルは小さく頷いた。
「だが薬がある店がかなりの遠方でな……そこまで取りにいかなければならないらしい」
「じゃあ、セラス様は、それを引き受けるのかしら?」
「多分な……そうなると、お前も出動することになるだろう」
「そうだと良いけど……」
漏れ聞こえてきた話によると……今回の騒動は…第三王女キャサリン様との間で起きた争いだと言われていた。しかし、エルザはそう単純なものではないような気がしていた。
(もしかすると、ウインザー帝国がからんだものかもしれない)
エルザは唸った。
「姉様は私の命を救ってくれただけでなく、平民の私にとても親しく接してくれたわ。姉様と呼びなさいと言って……決してエルランディ様と呼ばせなかったわね」
「エルランディ様は、お前のことが気に入っていたからな。お前を王都へ呼び寄せたのも、エルランディ様なのだからな」
エルザが顔を上げると、マリルは小さく頷いた。
「エルザ……かつてお前と一緒に過ごした日々のことを覚えているか?」
エルザはマリルの目をじっと見ながら頷いた。
「忘れるはずがないわ、マリル。姉様は私の命の恩人だもの」
マリルは頷いた。エルザは当時のことを、今でも鮮明に覚えている。
あれは、村がベルメージュたち盗賊に襲われた時のことである。幼いエルザは死に物狂いで逃げていたのだが、とうとう力尽きて草むらに倒れ込んだのである。
エルザはもう精も根も尽きて、死を覚悟したその時、頭の上から女の子の声がしたのである。
「あの時、エルランディ様はな、お前を見つけて私を呼んだのだ。ねぇマリル、女の子が倒れているわ、助けてあげてってな。私は反対したのだが、エルランディ様は頑として聞かなかったよ。お前を助けるんだって泣きなが訴えていた」
するとマリルはエルザの方をジッと見つめた。
「だからな、エルザ。今度はお前なエルランディ様の命を助けるんだ。いいな?」
エルザは頷いた。
「任せておいて。私、あれからずいぶんと強くなったのよ」
「それは本当なのか? ゴント村で剣の指導をした時のお前は、怪力に頼ってばかりで攻撃が雑だった。もっと技で勝負しないと、達人には通用しないぞ」
「言われなくてもわかっているわ。ゴントでは一度も勝てなかったけど、今度マリルと試合をする時は、必ず勝ってみせるから」
するとマリルはニヤリと笑った。
「大きな口を叩くようになったな。では、この騒動が落ち着いたら、腕前を見せてもらおうか。エルランディ様にお前の成長を見てもらうと良い」
「ええ、望むところよ」
エルザはそう言うと微笑んだ。
しばらくすると、セラスが部屋の奥から手を振っているのが目に入った。セラスはドアを指さしながら「行くぞ」とジェスチャーしている。
エルザはチラリとマリルを見た。
「どうやらマリルの言ったとおりみたいね……薬は必ず持って帰るわね、マリル」
「ああ、頼んだぞエルザ」
二人は無言で頷き合うと、エルザはセラスを追って部屋の外へ向かった。
◆
エルランディの部屋を出たウイリアムは、イライラしながら雑に扉を閉めた。
「本当にあのセラスという女だけは気に入らない。俺のことが疎ましくて仕方がないのだろうな」
ウイリアムは靴音を鳴らしながら廊下を早足で歩いた。だが、彼が向かっているのは第二騎士団の練習場ではない。王家の侍女として働くエミリーの元である。
エミリーはクリクリとした目を持つ可愛らしい女で、ウイリアムは彼女にお熱なのだった。
「まあ、ウイリアム様。こんなに朝早くどうされましたの?」
エミリーは天使のような笑顔をウイリアムに見せた。
「おお、エミリー。君にしばしのお別れを言いにきたんだ。今から僕は重要な任務のため、君の美しい姿を一〇日ほど見れなくなってしまう」
するとエミリーは大きな目をウルウルと揺らしながら、甲高い声でガルシアにすがりついた。
「まぁ……ウイリアム様、それは寂しゅうございますわ。……それで、いつご出発ですの?」
「それがね、一時間後には出発なのだよ。……だからその前に……君の顔を見ておきたくてね」
ウイリアムはそう言うと、エミリーの手の甲へ軽くキスをした。
「まあ、そんなお忙しい中、私に会いに来てくれたなんて……とてもうれしいですわ! ……それでウイリアム様、そのお仕事はおひとりで行かれるのですか?」
「いや、第三騎士団長のセラス嬢も一緒だよ」
「まぁ!」
するとエミリーは急にウイリアムから背中を向けて、しくしく泣きだしてしまった。
「ど、どうしたんだいエミリー」
ウイリアムがオロオロしながら訪ねると、エミリーは顔を上げずに返事をした。
「だってウイリアム様は私なんかよりセラス様の方がお好きなのだわ。あの方はお綺麗だし、家柄もしっかりなさってますもの。それに比べて私なんか、何の取柄もない田舎の男爵令嬢……月とスッポンでございますもの」
エミリーが肩を震わせて泣き出したので、ウイリアムはどうしていいやらわからず、その場でオロオロする。
「な、何を言うかと思えば、セラス嬢とのことを疑っているのかい? バカだなあ」
「ええ、ええ、私はバカですとも」
するとウイリアムはエミリーの肩をそっと抱いた。
「違うんだエミリー。彼女とはな……仕事は一緒だが、行動は別だよ」
「本当ですの?」
エミリーはバッと顔を上げた。
「もちろん本当だとも。我々はヴァルハラという所に向かうのだが、その途中に三日月湖という大きな湖があってね、北か南に迂回する必要があるんだ。私はカリストの街を経由する北ルートで、セラス嬢はリールの街を経由する南ルートなんだ。つまり、この一〇日間、顔を合わせる事など一度もないんだよ」
するとエミリーはパアッと目を見開いて笑顔になると、ウイリアムに抱きついてきた。
「まあ、そうだったのですね! それなのに私ったら! ああウイリアム様! 私、なんて恥ずかしいことを!」
エミリーは恥ずかしそうのガルシアの胸へ顔を埋め、クネクネと身体を左右に揺さぶった。ウイリアムはそれを後ろから抱きつくように手を回すと、エミリーの髪をやさしく撫でた。
「恥ずかしがることはないさ。むしろそうハッキリと嫉妬してくれて、私は嬉しく思うよ。いいかいエミリー、私が好きなのは君だけだ。セラス嬢のような堅物はもとより好みではないから、心配しないで待っていておくれ。ヴァルハラで何か珍しいものでも見つけたら、君にお土産を買ってくるから」
「でも、本当に一〇日で帰ってこれますの? エミリーにはとても長く感じますわ。ヴァルハラなんて、ほとんど異国に近い国境のすぐそばじゃありませんか」
するとウイリアムはエミリーの肩を抱いて、ニコリと笑ってみせた。
「なに、馬でバッとひとっ走りさ。少人数でね、弾丸旅行だよ。ビュンと行って、ビュンと帰って来るから。なに、本音を言うと六日くらいで帰って来る自信はあるんだ。だからねエミリー。それまで他の男なんか見ないで、私を待っていておくれよ」
するとエミリーはウイリアムの右手を両手で包み込んでから少し撫でた。
「ウイリアム様以外の殿方なんて、目に入りませんわ」
ウイリアムは左手をエミリーの手へ重ねて優しく握った。
「ははは、そうか、それは嬉しいな、うん……じゃ、行ってくるよ、エミリー」
「はい、お帰りをお待ちしておりますわ、ウイリアム様」
ウイリアムはエミリーを抱き寄せて頬へ口づけする。そして、ゆっくりと……未練がましく後退りしながら扉まで行くと、ようやくエミリーの部屋を後にした。
ウイリアムが部屋を出ると、エミリーは扉の前に耳をそばだて、足音が遠のくことを確認する。そして後ろを振り返ると、奥のカーテンに向かって声をかけた。
「行ったようですわよ、ジェームズ様」
するとカーテンの影からヒラリと男が一人現れた。
「行ったか」
ジェームズはそう言うとフフンと笑った。エミリーは先ほど口づけされた頬をハンカチで拭きながら、口をへの字に曲げた。
「急いでいると言いながらダラダラ長居するんだから……早く行ってしまえばいいのに」
その様子を見たジェームズはフフンと笑った。
「あの男も憐れだな」
ジェームズは長身の痩せ型で、仕立ての良い服に身を包んでいた。ペンシル型のヒゲを生やした唇の端をクイッと上げて、眉をハの字に寄せながら上目遣いにエミリーを見る……妙にキザったらしい仕草が鼻に付く男だ。
「出発は一時間後といったか。ならば私もすぐさま準備をしなければならないな」
エミリーはしなを作りながらジェームズに近寄ると、がっしりとした身体にピタリと貼りついた。
「もう行ってしまいますの? 冷たい人」
「当たり前だ。奴らがどれだけ急いでるか、お前もわかっているだろう……あのウイリアム坊ちゃまはともかく、セラスは機を見るに敏い女だ。早く指示を出さないと追いつくのが大変になる」
ジェームズはそういうと、エミリーの腕をひっぱって抱き寄せ、唇にしゃぶりついた。
「んんっ……」
エミリーはジェームズの腕をぎゅっと掴む。そして、激しい接吻の後、エミリーはジェームズの厚い胸にすべてを委ねてもたれかかった。そしてそのまま両腕を背中へと回す。
「毒虫を部屋へ忍ばせた……あの侍女はどうなりましたの?」
ジェームズは窓の外を見ながら、エミリーの髪を触った。
「死んだ」
エミリーは、ジェームズの胸の中で、目をカッと見開いた。ジェームズは鼻をフンと鳴らす。
「せっかく病気に見せかけて殺そうとしたのだから、そのまま死んでくれれば良かったのに、あの医者も珍しく仕事をしたもんだ。もし、あのままエルランディが死んでくれていたら、あの侍女の命もつながったのかもしれないが」
ジェームズは、両腕でエミリーをパッと離すと、扉の方へ歩いていった。そして扉の前で振り返ってエミリーを見た。
「ああ、それからエミリー……あなたには申し訳ないが、ウイリアム君とはもう永遠に会えないかもしれないよ」
ジェームズがニヤリと笑うと、エミリーは能面のような冷たい顔をしながら、プイと横を向いた。
「それはそれは、悲しいことですわね」
エミリーが改めて振り返ると、もうそこにジェームズの姿はなかった。