サブリミナル・フラワーガーデン
幼少期には、不思議な思い出がつきものです。
ある人は存在しない生き物に出会い、またある人は地図に載ってない建物で遊んだと言うのです。
記憶が曖昧だからなのか、想像力の豊かさからなのか、大人の凝り固まった頭では到底理解できない世界が、子供達の頭の中で、日々繰り広げられています。
言い忘れていましたが、これは私の幼少期の話。その春の日の天気を、私はずっと、忘れられないのです。
とある春の日。私は近所のお友達の風子と公園に散歩に出かけたんです。最近は本当に暑い日か寒い日しかなくって、本当に日本に四季があるのかさえ、疑ってしまいます。
いつものように私達は公園に着くと、ブランコやシーソーなどで遊びました。とても天気の良い日で、ポカポカとした陽気が私達を包み込んでいました。
気分が良くなったのかいつもよりはしゃいでいた私達は鬼ごっこをしていると、少し遠くの雑木林まで辿り着きました。
親から遠くへ行きすぎないようにと言われていた私達はすぐさま戻ろうとしましたが、その時です。雑木林の奥から、幼い子供のような声が聞こえてくるではありませんか。
「もうすぐ雨が降るよ。こっちに来て一緒に遊ぼう」
声の持ち主は、私達に優しく語りかけてきました。でも、私も風子も信じていません。だって今日はこんなにもお散歩日和。天気予報のお姉さんだって晴れと言ったのだから、間違いないのです。
そう思ったのも束の間、すぐに空を灰色の雲が覆い、ザーザーと雨が降り出すのですから、それはもう驚きました。
何の前触れも無く降り出す雨を、その声の持ち主はピタリと言い当ててみせたのです。私も風子も、驚きを隠せません。
「お母さんの所に戻ろうよ、なんだか怖いよ」
そう風子は言いますが、私はこの声の正体が気になって、雑木林へと一歩踏み出して聞きました。
「ねぇ、あなたは誰なの?」
「来てみればわかるよ。大丈夫。きっと楽しいからさ」
私は雨宿りがしたかったこともあり、声の持ち主を一目見ようとずかずかと雑木林の奥へと進み始めました。風子も私を追ってついてきましたが、途中で怖くなったのか、私の手を握ってきました。
薄暗い雑木林の中を、風子を引っ張りながら声のする方へと進んでいきます。もし迷ってしまったら、なんてことは微塵も考えていません。無限の探究心は子供の一番の宝ですが、同時に一番怖いものでもあります。
やがて私達は運良く開けた草原に出ました。周りは背の高い木々に囲まれ、真ん中にはポツンと人が立っています。
その人は私達と変わらないくらいの身長で、男の子と言われれば男の子に見えるけれど、女の子と言われれば女の子に見える。そのくらい中性的な顔立ちです。よく見ると日本では珍しい青い目をしています。
私はその子に近づこうと歩き出しましたが、その瞬間、その子は私に言いました。
「ちょっと、花を踏まないでおくれよ。せっかく綺麗に咲いてくれたんだから」
私は違和感を覚えました。確かに私達がここに来た時には、ここは青々とした草が茂る草原でした。
しかし辺りを見渡せば、色とりどりの花が咲き誇る、美しい花畑になっているではありませんか。
私が足を退かすと、白く可愛らしい花が顔を出しました。踏まれた直後とは思えないほど、その佇まいは凛として、茎の一本も折れていません。
少しだけ警戒心を抱きつつ、やはり私の心は好奇心でいっぱいになっていきます。風子は私の手をぎゅっと握りました。少し恐怖心があるようですが、その奥に隠れた好奇心が顔から溢れています。
私達は手を繋いだまま、迂回しながら声の持ち主の元へ向かいました。
「ねぇ、いい加減教えてよ。あなたは一体誰なの?」
私が少し強気に問うと、声の持ち主は変わらないトーンで答えました。
「ボクはシエル。ただの子供だよ」
「じゃあ、何で何もない所から花が出てきたの?私もふーちゃんも、そんなことできない」
「できるさ。まだ、やろうとしてないだけ。本当にできるって信じれば、ボク達は何だってできる。どんなことでもできる」
そう言うとシエルはその場でひょいと跳び、空中に立ちました。目玉が飛び出るかと思うほど私は驚きました。風子なんて本当に尻餅をついてしまったほどです。
しかし、よく見るとシエルはただ空中に立っているわけではありません。彼は雨粒の上に立ち、雨粒から雨粒へと、跳んでいるのが見えました。
「君たちもおいでよ!できたらいいなって思う楽しいことを、もっと想像してみて!」
そうシエルは言いますが、いざ言われてみるとなかなか思いつきません。私が頭を捻らせていると、急に隣にいる風子の体が浮かび上がりました。
「わっ!すごい、本当にできた!」
風子はシエルとは違い、横たわった姿勢で宙に浮きました。
「どんなことを考えたの?」
そう私が聞くと、風子は「風でできたハンモックで寝てみたいって、ずっと思ってたんだ!」と答えた。
風子の下に手をかざしてみると、確かに風が吹き上がってくるのがわかりました。
二人とも空を飛んでいるのだから、私も空を飛びたいと思ったは良いものの、二人のように良い想像ができません。
まだしとしとと雨が降る中、私は気まぐれに空を見上げました。そこで私は、ある景色を見たのです。
雨雲が薄くなって、所々にできた雲の隙間から、太陽の光が差し込んで、雨粒がキラキラと輝きだしたのです。
太陽の光は何本もの光の筋となって、お花畑に降り注ぎます。
そして私は思うより先に、大きな声で願いました。
「あの雲の上に行ってみたい!」
すると天から差し込む光芒は伸びて、私の目の前までやって来ます。私はそれをがっちりと掴み、それを梯子のようにして登り始めました。
それを見た風子は「私も行きたい!」と言って風のハンモックを降り、私と一緒に光の梯子を登り始めました。
シエルも輝く雨粒を跳び、私達に合わせて上へと上がっていきます。
大体五分ほど登ったでしょうか。私達はついに雲のすぐ下まで登ってきました。今考えてみれば、五分で雲のすぐ下まで登れるはずがありませんが、それを知らなかったからこそ、私は雲の下に行くことができたのでしょう。
私達は、せーので雲から顔を出すことにしました。三人は横並びになって、勢いよく雲の中に入りました。
私は目をギュッとつぶって、雲の中を進みます。きっとその時、私はそれまでの人生史上最高に大きな心音を雲の中に響かせていたことでしょう。
やがて私が目を開けると、そこはいつものお散歩日和の公園でした。私は目をぱちくりさせて、風子と目を合わせて、笑いました。
しかし、辺りを探してもシエルはいなくて、すぐに私達は雑木林に向かいましたが、その場所は空き地になっていました。風子は風のハンモックを出そうとしましたが、いくら強く願っても風は吹きませんでした。
「もう帰るよ」と母親に言われ、私達は渋々帰宅することにしました。
結局その後もシエルを探したけれど、彼が見つかることは二度と無いまま、私はその街から引っ越してしまいました。
……これが、私が幼少期に見た、確かな記憶です。
信じられないでしょう?だって、あまりにも荒唐無稽なのですから。私だって今でも夢だったんじゃないかって思います。
私が登った光芒は、「天使の梯子」という名前で、広く伝わっているようです。
きっとシエルは、本当に雲の上まで行ってしまったのかもしれません。そして、今でも私達を見ているのでしょう。
いつか私達がおばあちゃんになって、死んでしまう日が来るのでしょう。その時には、シエルが梯子をかけて、私達を雲の上へと導いてくれるはずです。
信じられないことばかりが起きたけど、このことだけは自信を持って信じられるのです。
だって私達がまだ、シエルは存在すると、信じているから。この広い広い空の上を、シエルは今も、自由気ままに跳ね回っているから。