幼馴染はラーメンどんぶりの夢を見るか?
暮れ行く夕陽と彼との間には、山と、川と、鉄道と、道路そして街があった。川は夕陽をキラキラとミラーボールのように反射して、彼の視神経を何度となく刺激する。それ以外はシルエットとして、橙に染まる世界から影絵のごとく浮かび上がらせていた。それは、幼稚園とかで見たことのある影絵芝居を、訳が分からなくなるくらいに拡大して、とことんまでリアルにして彼一人のために上演しているかのようだった。
あと30分ほどで日没となる時間帯。10円たこ焼き屋からのんびりと走ってふと立ち止まった歩行者用の橋の中央部で、白谷は自然が自分のために用意してくれた思いもかけない景色に目も心も奪われていた──帰る途中だったのを彼はあわてて思い出すと、再び家に向かって自転車を走らせようとしていた。
西の空は典型的な茜色に染まり、建物がオレンジ色の斜光に被せられて見る者の目を惹きつけようとする。もうすぐ5月とはいえ日陰に入ると涼しさというよりはそこはかとない寒さを感じるのか、自動車用の橋と並んで足羽川に掛かっている歩行者用の橋梁からの下り坂を、道に覆いかぶさる建物の影を足早に抜け出すように彼は自転車のペダルを速目に漕いでいった。
ぼちぼち夕飯の支度をしている所が多い時間帯。道の側の家からは美味しそうな匂いが道を行く白谷の鼻腔をくすぐる。特に焼肉屋の前を通過した時には、ついさっき食べたばかりのたこ焼きを忘却の彼方へ消し飛ばせる程に、一気に食欲を刺激された彼は思わず入って行きそうになる──そんな彼の衝動を財布の中身が断ち切った。
やがて木田橋通りと国道158号線の交差点に着いた白谷はそこで信号に止められた。切れ間なく横切って行く自動車をぼんやり見つめていた白谷は、誰かに誘われたようにふと左側を見る。国鉄の線路をまたぐように158号線の城の橋陸橋と呼ばれる跨線橋が、茜空へと走る自動車を打ち出すかのような坂道を描いている。通勤帰りの車が多いせいか、その数は一向に減る気配はなかった。
「……どーすっかなぁ」まだ時間が早いかな……なら、と、そう思った白谷は自転車のハンドルを左へと切った「やっぱ本屋行ってみるか。腹もこなれるだろ」
自転車を加速させ、城の橋陸橋の側道へ入る。自動車がひっきりなしに通る陸橋と違って、人通りがほぼないこともあり、どことなく治安が悪い様な、ジメっとした薄暗い雰囲気が彼を覆う。日没手前の時間帯に掛かっているせいもあり、陸橋の下は薄暗いどころか夜一歩手前のような暗さ。かろうじて街灯が幾つか点いてはいるが、多勢に無勢の言葉通り、僅かな部分しかその明るさを提供できていなかった。
"面倒"なことにならないよう、白谷はもうすぐ見えてくるはずの国鉄の下を通る地下道へと急いだ。上の陸橋からは、自動車が継ぎ目を通過するゴトッゴトッ、という音と共に時折トラックが走って行くのか、自転車に乗っていても判る位に地面がほんの一瞬、弾むのが判る。
彼の視界に、今にも消えそうなくらい儚い光を放つ蛍光灯を天井に設置した地下道入り口が見えてきた。夕闇迫る時間帯だから見えているが、昼間なら点いていること自体が不明なほどの光でしかない。緩やかな下りで奥へと続く地下道は、入口よりはまだマシなだけの明るさで地下部分を照らし出しており、そこに人影は見当たらなかった。地下道の両側は歩行者用の階段で、中央部には自転車用のスロープが階段の斜度に比例して設置されており、そのスロープ中央部には階段のステップを模したような四角い金属のバーが、両側に自転車のタイヤ分の広さを残して埋め込まれていた。自転車のタイヤはその隙間に乗り入れる。
福井で一番大きな本屋……駅前電車通りに店を構える勝木書店本店は現在位置から国鉄福井駅を挟んだ反対側にある。そして福井駅は地上駅だ。反対側へ渡るためには、陸橋を渡るか、踏切を通るか、地下道をくぐるか……しかない。そして陸橋は自動車専用で、踏切は今彼がいる場所から北へ1kmほどの所にあるだけで、地下道は駅裏にもあるが微妙に遠回りになる。一番近いのは現在のこの場所──目の前の地下道しかない。
選択肢自体が存在しなかった。
「ホント、ここどうにかならんのか……」
雰囲気が雰囲気だけに白谷の足は自然に駆け足になっている。足音や自転車の音が無人の地下道に自動でエコーを掛けたように響き渡り、尚更孤独感とそれに伴う恐怖感が明るさが半減したような照明と相まって彼を包み込む。ここをお化け屋敷にすれば下手な仕掛けより恐怖感が倍増するような気がするのだが──そんなことを考えているうちに向こう側の登り勾配に差し掛かった。一刻も早くここから抜け出たい白谷は、重力に逆らって登り勾配を自転車を押して地上へと駆けあがって行く。
地上に出た──入り口と似たような雰囲気が再び彼を包むも、さっきと違うのは、右へ向くと駅前へと続く商店街が見える事だ。地下道に近い場所は場末という言葉の典型例として挙げたくなる景色だが、そこから駅前に近づくにつれ少ないながらも人の気配がして、それを見るだけで彼は幾ばくかの安心を得ることが出来た。
「さて、本屋寄って……っと」
白谷は自転車に跨ってペダルをこぎ始める。開店間もない夜のお店が両手では数えられないほど入居している、所々パッチワークの様な補修跡が目立つ雑居ビル群の前を通過し、左側から直交してくる北ノ庄の商店街通りとの交差点に差し掛かる。彼は横目で車が来ないことを確認してペダルを漕ごうとしたその瞬間──
「駿!いいとこにいた!!」
「──結衣!?」
横合いから出し抜けに声が聞こえてきた。何事かと北ノ庄通りの方向を見れば、周囲の歩行者が注視する中、そこの緩い下り坂を結構な速度で駆け下りて来る幼馴染の自転車が急接近。ぶつかる!?と思いきや、黒瀬は急ブレーキをかけて白谷の真横に衝突直前で自転車を停止させた。
「──どうしたん、そんなに慌てて……」
ぶつかることを覚悟した白谷が表向きは勤めて冷静に黒瀬に声をかけるも、彼女は10秒ほど肩で息をしながらなかなか声を出せる状態ではなかったようだった。何とか呼吸を整え、そしてゆっくりと俯き加減の顔を白谷に向ける。
そして、彼女が発した言葉は、白谷の想像から数光年ほど離れていた。
「……ごめん。ラーメン奢って!」
「……ハァ!?」
──二人は、雑居ビルの2階にある8番らーめんにいた。その店の窓からは、正面に福井駅及びその前にある駐車場やタクシー乗り場などを擁する広場を見渡せる。もうかなり年季が入ったコンクリート造りの駅舎は、しかしまだまだ現役を続けられると言いたそうに、福井の玄関口としてその姿を周囲に見せつけていた。
黒瀬が白谷を呼び止めた場所から200mほど駅に近い場所に移動しただけだが、真っ先に思い付いたところがここだった。白谷も学校での行事──強歩大会とか体育祭とか遠足とか──の帰りで小腹が空いた時に、懐具合に余裕があれば友人らと使うことがある店の一つでもある。
「お待たせしました。ジャンボらーめん大盛のバター入りです」
見た目重そうなジャンボらーめん大盛を、店員は彼女の前にいかにも質量があるような重い音を立ててゆっくりと置いた。
野郎でも食べるのに苦労しそうな底は浅めで大きさは広めのラーメンどんぶりには、上からワンフィンガーまで入った麺と疎らに置かれた具材と透明感があるスープに、消しゴムくらいの大きさのバター──多分マーガリンに違いない──が載っていた。平たく厚めの野菜ラーメンのとは違い、細めの縮れ麺で野菜類があまり入ってない分、500円玉でお釣りがくるジャンボらーめんは金欠気味の高校生の味方と言える。
ラーメンどんぶりが置かれたその瞬間、幼馴染の顔は表向きは変わってないように見えて、口元にはようやく空腹を制圧できるとの喜びを隠し切れていなかった。一部を濃い青色に染められた円筒形の丸い割り箸入れからもどかしげに彼女は割り箸を1本取り出すと待ちきれないかのように音を立てて割り、いただきますと言った後、普段のおしとやかな食べ方は何処かへかなぐり捨てたような豪快さで食べ始めた。ラーメンスープから発する水蒸気が彼女の眼鏡をすりガラスに変える。
「以上でよろしいでしょうか」
「……はい」
白谷がちょっと申し訳なさそうと少しばかりの恥ずかしさが混ざったような顔をして返答する。それを聞いた店員は二人が座るテーブルから立ち去って行った。その間にも彼女は、一心不乱にラーメンをせっせと口に運んでいる。
幼馴染が複雑な表情でじーっと見つめていることに気づいた黒瀬が、一旦箸を休めた。
「駿、ありがと。助かった」
奢ってくれた白谷に言葉で感謝を告げる黒瀬。しかし何処となく感情がこもってなさそうな、"弟"ならば"姉"にして当然と思ってるフシがあるんじゃないかと疑いたくなるような、仮面をかぶったような彼女の表情に幼馴染は不満を隠そうともしなかった。
白谷は彼女の言葉に対して、言葉は発しなかった。それを見た彼女は、自分の言葉が足りないのかそう思ったかどうかは判らないが、しばらくの沈黙の後に珍しく下手に出るような言葉を続けた。
「駿、ホントごめん。ちょっとお腹空いたから何か食べようと思ったけど……お金がほぼ尽きかけてて──」
「ジャンボらーめん大盛バター入りが"ちょっと"ってどんなんだよ結衣の胃袋は」
「ほら……自分も時にはお腹いっぱい食べたい時あるし」
「だったらお昼の弁当もっと大きいのにしてもらえりゃいいじゃねーか」
「普段はあんなんでいいの」
「っていうかさ、普段小食の癖にたま~にドカ食いするよな……。何でだ?」
普段の彼女は、小さなお弁当箱に入ってるおかず等をげっ歯類が食べるかのように時間を掛けて少しづつ食べていくパターンで、そんなに食べないというイメージが白谷にはある。しかし、ごくまれに……理由は判らないが3日分まとめて食べるんじゃないかと思うような、思春期の男子が裸足で逃げ出すくらいの食欲ぶりを彼女が発揮することがある。
「まあ……色々とあって」
「色々って何だよ」
「ごめん。そこは……まだ」
「幼馴染だぞ、俺達……!」
何で教えてくれないんだ……不満が怒りに転化しそうになった白谷はやや語尾が荒くなりかけた。その言葉を彼女は真正面から受け止めつつも、眼鏡越しの瞳は見えない壁を幼馴染相手でも張っているかのように揺らがなかった。
「それでも……奢って貰ってなんだけど」
彼女の表情に、いくばくかの影が入る。幼馴染の影を見た白谷は、これ以上何言っても無駄かと思ったか、視線を一旦そらして軽い溜息を一つつく。
結衣は言わない。多分、いや、絶対。
「……まあ、ちゃんと返して」視線を彼女に戻すと、彼は少し話題を変えた「で、幾らしか持ってなかった?」
「……200円ほど」
「小遣い貰ってるはずだろ?」
「まだ……それに元々ピンチだったところに昼間不足してた文房具買い足してたら200円しか残らなかった」
「でも200円あったら駅のかけそば120円だし、そば八は100円でかけそば食えるじゃねーか」
「どっちもちょっと小さめだし、そば八は微妙に遠い」
「遠い、って……新福井だろ」
新福井を遠いと言われた白谷は、食欲の権化と化した幼馴染に呆れるように呟く。
新福井駅はここ福井駅から500mほど北に位置する、京福電車の駅だ。福井駅から線路沿いに伸びて行く道路の先に踏切が設置されており、新福井駅はその踏切を渡った所に駅がある。そば八はその踏切手前にある立ち食いそば屋で、駅そばより安い事から学生や生徒の人気が高い。
一旦会話が途切れた隙を狙ったかのように、黒瀬が再びラーメンをすすり始めた。さすがに大盛りだからか、さっきから彼女は結構食べてるようだがどんぶりの中の麺はまだ残っているように見える。
「駿、そう言えば10円たこ焼き行ってたんだよね」
箸を休めた彼女が、手持無沙汰で食べるのをただ眺めてる白谷に不意に訊いてきた。ワンテンポ遅れて反応した彼は彼女の質問を頭の中でもう一度繰り返したようで、
「ああ、結構数頼んだ上にさわやか飲んだからなぁ。夜ご飯の事もあるから腹ごなしに勝木で立ち読みしようと思ってた」
「どーせまた漫画とかじゃないの?」
「悪かったな。俺は結衣ほど頭良くねーよ」
「ちゃんと勉強しないといい大学行けないよ。行くんでしょ?大学」
「どうだか……そこんどころまだ判んね」
白谷はそんな先の事は判らない、とばかりに窓の外の年季の入った福井駅をしばらく眺めた。
質問をはぐらかされて時間が出来たのか彼女は再び麵をすする。その音が、彼の耳に心地よいノイズとして染み渡ってくる。
思いついたのか、眺めてる間に考えがまとまったのか、彼は視線を彼女に戻して何気なく問いかけた。
「結衣は何かなりたいってのある?」
「一応ね……文系のクラス分けだし、例えば学校の先生ってのもいいかな」
彼女はそう言うと、また食べる作業を再開し始めた。美味しそうにラーメンをすする幼馴染の姿を見ていた白谷は少しは胃袋にスキマが出来たのか、さっき言った事の舌の根も乾かぬ内にテーブル横に立てかけてあるメニューに視線を伸ばした。
「学校の先生ねぇ……何か厳しそうだな。性格とか」
「あら、自分は優しい性格だと思ってるけど」
「何処が!」
「厳しいのは駿だけ。だって"弟"だし。躾をしっかりしとかないとご近所様に顔向けできないでしょ?」
「その"弟"にラーメン恵んでもらってそれで"姉"面はないと思うわ」
「"姉"だって完全無欠じゃないでしょ?人間味のあるいい"姉"だと思うケド?」
「……こんなのを嫁に貰う奴が可哀そうに思えてきた」
「──大丈夫よ」どうやら麺と具材を粗方食べつくした幼馴染の箸が止まり、それをコップの上に置いた「そんな気はないし」
彼女の眼鏡越しの瞳は、言葉を発したその間だけ、何処か愁いを帯びたような、悲しげなものに白谷には見えた──錯覚かも知れないが。
彼女の手が再び動き出し、残っていたしょうゆベースのスープをごくごくと全て飲み干す勢いで丼を傾けた。一滴をも残さないような、男の様な豪快な飲みっぷりに普段の彼女からの姿との違和感を強烈に感じた白谷。
──俺の知らないもう一人の幼馴染が、今目の前にいる。ここにいる結衣は、本当に結衣なんだろうか──そう思った白谷は、少しばかり出てきた食欲がどこかへと霧散していくのを強く感じていた。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて黒瀬が食後の挨拶を静かに告げる。彼女は、テーブルを挟んで向かい合う幼馴染が疑惑100%の視線で見つめていることに気づいて、少し不機嫌な感情を表して彼に訊いた。
「……何でそんな顔をするの?」
「いや、ふと思ったんだが……」
「何が?」
「俺の目の前で豪快にラーメン食べてるの、本当に結衣なのか、それとも別の知らない結衣なのか、自信がなくなってきた……」
黒瀬は何か言おうとした機先を制されたように、一瞬口元が動いた後そのまま固まって視線を幼馴染から外した。微妙な沈黙の二人の間隙を埋めるように、店内や駅前の様々な音が彼らの耳に滑り込んで来る。
黒瀬は、それを打ち破るように再び彼に視線を向け、一瞬何か言いたそうに動いて──何かを取りやめたように再び考え込んだ。また視線を外す。
「まさか双子だなんて──」
「──駿」白谷の言葉に黒瀬は彼の名前で打ち消した「万が一、だけど……万が一、もし自分と駿が将来一緒になることがあったら……その時に判ると思うよ」
「……なんだそれ?」
怪訝な顔を黒瀬に向ける白谷。それに対して、彼女は学校でよく見せる真面目な顔で正面から幼馴染の顔を見据えた。
瞬間、見据えられた彼は……心臓が跳ねるような妙な感覚に捕らわれた。
──あれ?結衣ってこんな顔するんだっけ?普段からよく見た彼女の表情のはずなのに、まるで魅了の魔法にかかったかのように、白谷の視線は彼女の眼鏡越しの瞳に吸い込まれる。彼女の瞳の漆黒は、彼女の心の深淵を示すかのような漆黒そのものだった。それは、男から見た女性の心そのものの様に、彼は恐怖心に近い何かを感じていた。
──モウヒトリノ・カノジョガ・ソコニイル──
「こら、なにじーっと顔見てんのよ」
催眠術を解くキーワードの様な彼女の声に、白谷ははっ、として意識が戻ったかのような感覚に陥った。ほんの数秒のはずが、無限に引き延ばされた時間の中で漂っていたかのよう。聞こえていたはずの店内の音も、まるで音量ダイヤルを回したようにフェードインして聞こえ始めた。
幼馴染の顔が、訝し気に白谷の顔を覗き込むようにやや斜め下から見ている。
「……えー、っと……」
照れ隠しの作り笑いで胡麻化そうとする白谷だが、彼女の表情にはいささかの変化もなかった。
「まあ、いいわ。駿、帰ろう」
「あ、ああ」
すっかりラーメンを平らげた黒瀬は、もう用事が済んだとばかりに手早くカバンとかを持つと席から立ち上がる。それに数秒遅れて白谷もカバン等を持って立ち上がった。
出口へと移動しようとする白谷は数歩踏み出して、おや?と違和感を感じて振り返った。その先には、帰ると言ったのに動こうとしない幼馴染が不機嫌な表情を浮かべてそれこそ親の仇を睨むような怒りを込めた目線で彼を見つめていた。
「──結衣、どうした?」
そう言われた彼女は、テーブルの隅にあった、小さなプラスチックにクリップが付いた伝票をおもむろに掴んで白谷の前に差し出した。
「お金。自分を食い逃げ犯にする気?」
いっそ幼馴染を食い逃げ犯に仕立てた方がよかったんじゃ──彼女と同じような不機嫌な表情を浮かべ、ジト目で白谷は彼女をねめつけた。
【続く】




