提出期限は今日までです
生徒会会計の北川秋絵は、にらめっこ相手の、手元に広げてある帳簿と生徒会管轄の現金の対戦時間を無期限にするくらいに見つめあっていた。
どう考えても、どう見ても、数字が合わない。
もう一度帳簿の横にある、各部署から提出された領収書やレシートを貼り付けたルーズリーフを見て、数字を確認し、卓上計算機に打ち込んで、表示部の数字と帳簿のそれと見比べる。何処か間違いがないか、抜けているのはないか──。
「……」
何度見ても、数字に間違いがない。
何度見ても、数字に抜けはない。
そこから導き出される結論は、その数字に間違いはない──なのに、現金が少ない。
少ない分は領収書の未提出が考えられるが、それにしても差額が80円と少額なのも気になる。ジュース1杯分ほどの数字が合わない。
一回は事件性も考えたが、それにしては少なすぎる。事件なら、万単位でお金が消えているはず…。
「ああっ!もう…」
普段は感情的になることが無いと言われる彼女だが、もう何十分も見つめあっている数字に対して怒りの感情が沸騰寸前にまで達している。心のリアクターから発するその蒸気でタービンを回せば発電できるんじゃないかと思われる程。
ブラインドから抜けてきた夕暮れの茜色の陽光が、西向きの窓から浅い角度で飛び込んで来る。背中から照らされた彼女の制服のカッターシャツは縞状にその色に染まり、夏にわずかに届かないだけの熱を体に伝えていた。
9月の、学校祭まではまだ日があるこの時期は、本番まで忙しいせいか彼女しか部屋の住人はいなかった。生徒会長と副会長は学校祭翌日に行われる体育祭の打ち合わせで校内の別の場所に行ってるし、書記は文化委員長と一緒にこれもまた別の場所で学校祭の準備に集中している。会計の仕事は、普段の仕事の他に生徒会で行われる業務を行う事。いつもよりやることが多くなっている。
そして会計という立場上、数字という名の巨大な敵には人手が足りないこの時期、基本彼女一人で対峙しなければならなかった。
ブラインド越しに開け放たれた窓からは、グラウンドで動きまわっている運動部の面々たちが張り上げる声と、学校祭での出し物を作ったり練習したりする生徒らの歓声が、何処となく現実感が無さそうにまだ夏の暑さを残す9月の夕方の空へと消えてゆく。
「…手伝って欲しい…」
彼女の口から零れる弱気の言葉。いつも事務的な口調で自信がありそうな彼女からはそう聞かれることがない、感情が籠った言葉《本音》。
おぼろげなイメージが頭に浮かぶ。自分を助けてほしい人のシルエットが、しかし数秒後にはそれを拒絶するように彼女はかぶりを振る。
──その人は私を見ていない。
甘えるな。私には、似合わない…。
しばらく、自己嫌悪にも似た感情が彼女の体を駆け巡る…こう、どうしようもない時には一旦張りつめた気持ちをリセットするしかない。
帳簿とのにらめっこを中断した北川は椅子から立ち上がる。背伸びをして深呼吸。そして彼女は何かに引き寄せられたかのように窓際へと歩み寄った。壊れかけのブラインドを引き上げると、茜色の夕焼けが彼女の眼鏡越しにその世界を描く。
開け放たれた窓から見える、福井市の西側の光景。手前のグラウンドを囲うように水田が広がり、その向こう側には住宅地や倉庫群、工場等が有象無象にひしめき合い、最外郭には生垣の様な低い山が団栗の背比べのごとくそこに生えてる木々の緑を日陰に重ねることで黒に近い色を呈して、ずらりと並ぶ。空は東から西へかけて、夜のとば口を示す暗さを伴った万年筆のインクの様な青黒からさわやかな蒼を経て心を奪う茜色にグラデーションで染め上げ、いつ黒い山々に飲まれてもおかしくない沈みゆく太陽を光源として世界を照らし出していた。
…もう何度見たか判らない、ある意味飽きているはずの景色が夕暮れというスパイスが加わっているせいか、いつも以上に心動かされる情景に見えた。
「…きれい」
眼鏡の銀縁が、夕陽をきらりと線状に反射させる。まだ夏の残り香が残るような、夕暮れとはいえ強めの日差しに目を細めながら、催眠術にでもかかったように彼女はただじっと時間を忘れてその情景を見つめていた。
部屋の片隅に置いてある赤い細身のラジカセからはBGMとして、開局してさほど経っていない地元民放FM放送が流されている。この時間はニューミュージック中心に曲を流しているようで、聞き覚えのある曲が幾つかかかっていた。夏の終わり、ということがテーマになっているのか、さっきからそれに沿った曲が流れている。曲が終わり、パーソナリティーのトークが楽し気にスピーカーから溢れ、やがて次の曲がそれに被るように掛かり始めた。
昨年の梅雨の時期にリリースされた夏の曲。丁度今の時期に合う、しかし二人の恋という名の夏はまだ終わらないことを歌った曲。ヴォーカルの声が入る直前に、パーソナリティは曲名を告げた。
──あの海へ行った日、もし会長が私を選んでくれていたら、今どんな気持ちで学校生活を送れただろう…また違った景色が目の前に広がっていただろうことは予想できる。
しかし、予想は予想。外れることが、当たり前。
「…私には縁がない…」
その言葉は誰にも聞かれずに永遠に秘密になった。
気が付いたら、友達と遊ぶよりも本を読んでいる時間が長かった。
気が付いたら、数字や文字で遊んでいる方が何もかも上手く行くような感じに満ちていた。
気が付いたら…クラスでは希薄な存在になっていた。
居るのか居ないのか…存在が中途半端と陰口を言われた中学の時と同じような雰囲気が高校でも続くのかな──でもまあ、そうなることを選んだのは自分だから…。
自分自身に言い聞かせていた彼女。
そんな高校生活が続くと思われていた去年…1年生時の2学期のある時。
昼休み、周りが友人たちと話を盛り上げている中、北川がそこから取り残されたように席に座って本を読んでいた。見えない障壁──そう言っても差し支えない様にクラスメイト達は彼女の近くには近寄ろうとしない。むしろ彼女としては、好きな本に没頭できるように、級友たちには簡単には近づいてきてほしくない、そう思っていた。
しかしその日は、そんな事もお構いなしにと教室の入り口にガタイのいい上級生男子が姿を現すと、一瞬誰かを探すようにきょきょろ見回した後、見えない障壁を張って一人机で読書していた彼女を見つけ、自分の教室の様に何のためらいもなく足を踏み入れた。
突然の闖入者に教室の1年生たちは何事かと色めき立ち、その上級生男子の方へと視線を向ける。その足の向き先が北川と判ると、級友たちはひそひそと小声にしては大きめの音量で噂し始めた。
北川は我関せずと読書を続けていたが、右側から迫る何かの圧を感じたか、文字を視線で追うのをやめてふと右側の方を向き──突然現れた白いカッターシャツの壁に視線が硬直する。
しかし、彼女はその上級生には恐怖感をほぼ感じなかった。それは、何事かを隠している訳アリの笑みではなく、その反対だったからかもしれない。
「キミ、北川さんだよね。生徒会、来てみる?」
単刀直入と言えばそれ以外の言葉が出ない。野球で言えばストレート勝負のど真ん中剛速球に、彼女はいくらか気後れしたまま言葉にならない声があふれる。
「え…あ、いや…」
一旦固定されていた彼女の視線が宙を舞い始める。その間に気持ちを落ち着かせて…でも落ち着ききれず中途半端な言葉で二の句を告げる。
「生徒会って私の様な人がいてもいい所じゃないって言うか…私は遠慮します」
「だいじょーぶだって!俺みたいなのがやってんだし。それにデータ見てるのが好きなんだって?生徒会にそんなのいくらでもあるよ。何なら未整理のモノもあるし…北川さんみたいな人、いると助かるんだが」
生徒会、というイメージからはいくらか離れているその上級生は、ニコニコ笑顔を崩さずに、さながらラテン系のノリで彼女を口説いてきた。
面識があるわけではない。全くの初顔合わせ。しかも教室内にクラスメイトが屯している昼休みに、その上級生は下級生の教室に堂々と、一人で乗り込んできた。何人かの級友が、何かのイベントでも見るかのように、かといって直視するのもどうかと思わせるように見て見ぬふりをしている中、人見知りの気がある北川にとってそれは異星人のコンタクトにも匹敵するくらい異常な事に見えた。
「そもそもなんで私なんですか…?適任な人、他にいると思うんですが──」
「他にいないからだ。お願いっ!」
「…でも私は──」
北川はそこまで言いかけた所で、何かがその言葉の続きを止めた。時間停止の魔法にかかったように、表情は固まり、焦点を結ばない瞳が眼鏡越しに床との間の虚空を見つめる。
──ずっとこのままでいたいの?
「…ん?どうした?」
上級生の言葉と同じタイミングで、彼女の中に埋もれている答えを掘り当てたように固まった表情がゆっくりと動き出し、焦点が定まっていない瞳がようやく着地点を見つけたかの如く意志を持ち始める。
──こんな自分を必要としてくれる人、いるんだ…。
彼女は、自分の意志でその上級生の方を見た。
「わかりました」
彼女は一言、そう告げた。
上級生は、彼女の言葉の背景に何かを感じ取ったのか、満足した感情をにこやかな笑みとして静かに周囲に溢れさせた。
「ありがと。それじゃあ今日から来てくれるかなぁ?」
言葉と同時に上級生が手を差し出す。つられて手を伸ばした北川は、親族以外ほぼ初めて異性と握手をした。何故か不思議と、彼との握手にマイナスの感情は浮かんでこなかった。
「…ええ、構いません。部活、してないですし」
「契約完了!よろしく北川さん!じゃあ放課後、生徒会室で」
「あ、あの…すみません、先輩の名前まだ聞いてないですけど…?」
「おお、すまん。言い忘れた!」
事態に満足して踵を返そうとしたその上級生は、彼女から言われて初めて自分の名前を告げてないことに気づいた。慌ててさっきまでいた場所へと数歩舞い戻り、そして胸を張って周囲の喧騒を中断させるくらいの通ったバリトンで自己紹介した。
「永井雄一郎、来週、生徒会長になる男だ!」
その声には、ただ純粋な自信に満ちていて、嫌味のないその声に北川の視線は固定されたままだった。
…その週の終わりに生徒会選挙が行われ、彼女をスカウトに来た永井副会長は"副"の文字がとれた。投票では誰に入れたかはそもそも誰も言わないし、半ば強制的な選挙なので興味を示すものは殆どいなかったが、永井副会長が会長に選出されたとの校内放送が入った時、誰にも知られずに彼女はわずかに安堵の笑みを浮かべた。
「…そう言えば会長、どうやって私を見つけたのか全然話してくれなかったような気がする…」
話したのかもしれないが、明確にこういう理由だ!と明言していた記憶がない。いつも上手くはぐらかされてた事ばかりで納得のゆく説明は彼女は受けていなかった。会長のペースで話が進み、副会長がその場をかき乱して気が付けばいつの間にか出かけてたりもう帰っていたり…。
生徒会入りを決断したことは正しかったと今でも北川は思う。生徒会は、自分が自分でいられる場所。時には会計という役職上、お金のことで苦しい目に遭うこともあるけど、それでも教室にいる時よりも楽しいと思えて来る。お金の心配なんて、生徒会に入らなければしなくていい事なのに。
そして、その道を作ってくれた、あの時教室に突如乱入してきた永井先輩にも感謝しかない。もっとも、肝心なことは何一つ話してくれないけど…。
「先輩、卑怯です」
生徒会室の窓から外を眺めている北川の表情は、夕陽に照らされているせいか、何処となくさわやかさを含んだ笑顔になっていた。
彼女はもう一度背伸びをして呼吸を整えた。軽くため息をついて、さて続きをしなきゃとブラインドを下ろし、窓辺からさっきまで座っていた場所へと戻ろうとして…椅子の下に何か紙切れが落ちているのを見つけた。こんな所にいつの間に…と思いつつ、彼女は手を伸ばしてその紙切れを拾うとそのまま近くのゴミ箱へと捨てようとして…視界の端に見切れるかのように何か書かれていることに気づいた。裏返して、北川はそこに書いてある文字を小さ目の声で音読していくと…、
『ごめん!サイフ忘れたからココからジュース代80円借りた!明日返す!』
再び心のリアクターがオーバーレブ気味に回り始め、感情という名の水蒸気が彼女の体を過加圧気味に満たし始めた。フルフルと体が震え始め、思わずその紙切れを握りつぶしたい衝動にかられる。そう言われれば、1階の紙カップ式のジュース自販機は80円だった…。
「…ホントにもう、何やってるんですか…!」
滅多に出さない大声を張り上げて、続けて生徒会室全体が響くかのような溜息を吐き出して、北川は心の安定を図ろうとする。よりによって、生徒会管轄の現金に一時的とはいえ手を付けるなんて銀行なら確実に横領で刑事事件モノなのに!しかも生徒会長が!
規律強化をちゃんとやらないと次に来る会計の子が可哀そうじゃないですか──北川は自分しかいない生徒会室で心にそう決心した。会長をはじめとして生徒会役員及び各種委員会委員長にはきつく言っておかないといけないし、もし次の生徒会で役員に再びなったなら次期会長をはじめとした役員にはこういうことが起こらない様にしなければならない。眼鏡の奥の彼女の瞳は強い意志の光が煌々と輝いていた。
引き戸を開けている廊下から、誰かがやってくるのが聞こえてきた。足音は複数。そして、話し声もそれに追加された。
聞き覚えのある声。北川は、引き戸の向こうの廊下の方に視線を固定した。足音と話し声が近づいて来て、やがてその発生源が姿を現した。彼女は、自分の表情が幾分かの怒りのために強張っているのを自覚した。
「お、北川さん、お疲れ~。メモ、見た?」
「…見ました」
何事もなかったように笑顔を振りまいて生徒会長の永井が副会長の芳賀と並んで部屋に入って来たのを北川がややドスを利かせた低音で迎撃する。その表情に気づいた会長は、自分の笑顔をいくばくか凍り付かせてやや焦り始めた。
「あ、ごめん。今日サイフ忘れちゃって…」
「かいちょぉー、公金に手を付けるって犯罪なんですよ判ってます?」
いつも落ち着いていて感情の起伏が無いと思われていた北川の、珍しく怒りのオーラを纏ったその姿に気圧されて会長と副会長の足が勝手に後ずさりする。
「ごめん、ホントーにゴメン…!」
「北川ちゃん、そんなに怒らなくても…」
「副会長は黙っててください!会長、会長がそこんところしっかりしないと顧問の先生に何言われるか判んないんですよ!ホントにもう…そういう時には私に言ってください。いくらかのお金なら貸してあげますから…その、会計ですし…」
不思議な事に言われた方が後ずさるような彼女の怒るトーンが言葉と共に徐々に下がりだし、やがて俯き加減にぼそぼそとしゃべるように小声になった。
何でここで顔が熱いんだろう…彼女は何故か赤くなっている自分の顔に戸惑いを覚えつつ、やがて言葉が途切れ、生徒会室を一刻静けさが支配した。
それに耐え切れず、何があったのかと後ずさった分戻した会長と副会長が覗き込むように彼女の俯いた顔を見ようとする。
「…ホント、ごめん。明日返すから」
沈黙を静かに破るように、会長がこちらも今まで見せたことない様なちょっと情けなく申し訳ない顔をして会計に謝った。
「わかりました。今日は私から出しておきますので、明日私に払ってください」
会長の言葉を聞いた北川は、事務的な冷静さに隠れた感情の渦巻く熱さが絶妙に見えるかのような口調で解決策を打ち出すと、軽くため息をついて自分の懐から不足分のジュース代を生徒会管轄現金に加えた。これで帳尻が合う。注意書きはしておかないといけないが。
「明日でもいいんじゃない?」
「今日が締め日なので。提出期限は今日までです」
永井生徒会長の提案に会計の北川は、彼に出来る限りの笑顔を添えて答えた。
【終】