彼女のイミテーション・スマイル
「…以上で今会議を終了いたしますが、質問事項等はございませんでしょうか?」
生徒会各委員会の全体会合で議事進行役を務める生徒会副会長の芳賀久美子は、その冷徹とも言われる低く落ち着いて凛とした声を生徒会室隣の会議室に響かせた。その声色に気圧されたのか、それとも会議を早く終わらせて帰りたいのか、質問事項はなかった。
「では、これにて会議を終了いたします。お疲れさまでした」
彼女の声が終わるか終わらないかの内に椅子を引く音が部屋中に響き、各委員長及び副委員長の肩書を持つ生徒たちが生徒会室を通って廊下へと出てゆく。
4月の半ば頃の金曜日、会議が終わってもまだ夕焼けが残っている時間帯。窓から差し込む外の光は昼間より明らかに暗めだが、わずかに茜色を帯びていた。
「先輩、あの議長の人って何度聞いてもいい声してますね…」
「ああ、副会長の芳賀さんだろ?確かに『デキる女性』って感じだなぁ」
「普段からあんな感じなんですかね?」
「うーんどうなんだろ?生徒会の会議でしか会わないからなぁ」
ある委員会委員長(3年)と副委員長(2年)は生徒会室を出た廊下で並んで歩きながら話をする。
「クラスの女子に聞いたんですけど、女性人気は高いみたいです。カッコイイ先輩、って感じみたいで」
「確かにな。クールビューティー、ってあんな感じなんだろうなぁ」
ああいう人を彼女にできればいいんだろうなぁ、と3年生のとある委員長は半ば愚痴をこぼしながら呟く。
「副会長って3年生ですし、年上のお姉さまって感じで憧れます」
「あーわかる」
「でも…怒らせたらちょっと怖そう、かも」
「あの声で詰問されるとなぁ」
放課後の廊下は、彼ら以外には生徒はほぼ見かけなかった。二人の声が、ぽつんと蛍光灯の明かりが点いている廊下に響く。
「副会長、プライベートでもあんな感じなんでしょうかねぇ?」
「じゃないかなぁ…?」
「友達はいるんでしょうけど、ある意味大変でしょうねぇ」
「案外、プライベートははっちゃけてたりしてるとか」
「ありえますねぇ…」
二人は、廊下が北校舎にぶつかるT字路で右へと回っていった。
窓の外は、そろそろ夕暮れも終わる時間帯に入ったのか、東の空が深みのある青から漆黒へと移り変わろうとしていた。
翌日、土曜日の放課後。12時半辺りにアニメーション同好会が活動をしている南校舎2階の最東端、生物実験室1号室の入り口からキーとテンション高めな声の挨拶が周辺の廊下も巻き込んで響き渡った。
「おーう、おはよーみんなー!」
「おはよ―」「おはようさんです~」「お、来た来た」「おはようございますです~」
アニ同では、何故だか判らないが朝でなくても今日初めて会った人には『おはよう』と言う風習が根付いている。芳賀はそれに倣って完全なプライベートモードでこれ以上ない位の笑顔であいさつすると、教室の中にいる、制服を着た男女5人ほどのアニ同部員が1人を除いてめいめいなタイミングで明るく彼女に返した。
ざっと見まわせばいつものメンバーで代わり映えないが、落ち着くし丁度いいな~と芳賀はそう思いながら集まってる場所へと足を運ぶ。理科実験用の耐酸、耐アルカリ処理を施した黒いゴツ目の、洗い場が付いた4人掛けの広さのテーブルにカバンなどを置いて、手近の丸椅子を引っ張って腰を落ち着ける。
彼女が椅子に座るのを見届けて、さっきあいさつしなかった1人が実験室用の机に腰かけて横合いから声をかけた。
「おう、久美ちゃんお疲れ。生徒会は今の所ヒマそうだな」
「そうでないとやってられまへんわ~」
同学年の板橋貴志が彼女の名前を含んでお疲れと言うと、芳賀はさらにテンションを上げたのかおちゃらけて自分の頭を手ではたいておどける。
…彼女は彼を見た。彼は、隣にいる違う子と話し始めていた。
おちゃらけた自分を冷静に見てしまい、彼女の笑顔がしばし真顔になる。しかしすぐ気を取り直して、部屋中をもう一度、空中に何かを探すかのように見回した。
「そういや…」
芳賀がポツリと言葉をこぼす。隣の子との話が一旦落ち着いたか、板橋が彼女の方に再び視線を送る。
「さっきバイクの音したから北久保先輩来てるかと思ったけど…?」
「北久保さんはトイレ行ってる」
板橋が、トイレのある方を親指で指さしながら芳賀の問いに答えた。
それから10秒もしないうちに入り口から一人の男性が姿を現した。黒革の上下のライダースーツを着た、やや豆タンク体形なゴツ目で明らかに部外者風の男性を彼女は見つけると、まるで探し物を見つけたかのように丸椅子から立ち上がりその人に手を振りながら近づいた。
「あ、北久保先輩やっぱり居た~。バイクの音したからと思ったら案の定」
「おう、ちょっとトイレ行ってた。で芳賀、相変わらずテンション高いなぁ。生徒会はもう済んだのか?」
芳賀のテンション高めの言葉に、仕事終わりの同好会OBの北久保真が声色のいい低音で反応した。芳賀の横をちょっとゴメンと言ってさらっと通り、板橋が腰掛けている机に椅子を引いて場所を落ち着かせる。
「まだ4月の半ばだからそんなに忙しくないですよ」
「そういえばそうだよなぁ。で、まだ訊くの忘れてたけど新入生何人入った?」
「えーと…板橋、どんだけ入った?」
芳賀が北久保からの質問を目の前にいる板橋へと投げた。突然話を投げられた板橋は何で俺に…と、やや驚いた表情を顔に貼り付けて、実質的な部長の2年生の金田由紀に助けを求めるように視線を向けて、
「由紀ちゃん、何人だっけ?」
板橋がさながら妹に訊くかのような気軽さで金田の下の名前を呼んで訊いた。
「聞きに来た人が5、6人くらいで入部確定は3人ですかね?決めかねてるのが1人おります」
先輩から名前を呼ばれた彼女が記憶の倉庫に素早くアクセスして代わりに芳賀へと回答する。
「そんなもんか」
代理部長をしてくれてる金田の回答に芳賀は在り来たりな返答を呟く。この人数で残ってくれればありがたいが…大体毎年そこから1人2人は中途で来なくなる。
「で、新入生は今日は?」
「今日は来ないです。来週からぽつぽつと」
「それじゃあ来週から新入生たちにぼちぼち絵の描き方とかセルの塗り方とか教える?」
芳賀が金田の答えを聞いて来週からの予定を考え始めた。名目上は彼女が部長とはなっているが、生徒会副会長の役職もあるので実質的には2年生の金田が代理として同好会を率いてはいる。とはいえ、たまには部長らしきこともしなければならない。
「じゃあ月曜日にセルとか絵の具とかを用意しておきますね」
「お願い、やっといて。時間空いたらすぐここ来るから」
頭の中の予定表をチェックしながら芳賀は金田にお願いする。長引かなければアニ同に来れるはず…。
北久保は彼女らのやり取りを見つつ、そろそろ、といった感じで腰に巻いてあるスーツと同色のポーチから財布を出して伊藤博文が描かれたお札を1枚取り出した。
「おう、誰かジュースやお菓子でも買いに行って」
北久保は芳賀に視線を向けて買ってきて、と目で合図してるかのようだった。一瞬、来たばっかりなのに…とは思ったが、彼女は目の前の彼を見た。
「だそーで。板橋、『山フ』行って買ってこようか」
芳賀の目がエサを見つけた猛禽類のようなそれになる。丁度いいのが目の前にいた。一人じゃキツそうだから、ということで肉体労働役の野郎を一人同行する役割に白羽の矢を板橋に立てた。
「え?俺?」
「いいから来て。行くよ」
「何で俺?」
「目の前に使いやすそうなのがいたから!」
「なんだよそれ。しゃーねーな…北久保さん、こっちの好きなのでいい?」
「構わん。いいぞ」
北久保はそこら辺は任せる、好きにせい、といった顔をする。
芳賀が北久保からお札を貰うと、少し後ろからついてくる、なんだかんだ言いながら嫌な顔はしていない板橋を生物室入り口でしばしの間待ち、追いついたのとほぼ同時に生物室から買い出しに出かけた。
芳賀は彼と並んで歩きだす。それはさながら短いデートを今からするような、そんな雰囲気にひょっとしたら見えるのかもしれない。
「980円になります」
レジの音とともに芳賀はさっき貰った千円札を店員に差し出す。お釣りをもらうと彼女は板橋に目で買い出しの成果品を持つように促した。幸い一緒に来た役割を心得てるのか、彼は自発的にレジ袋を持つ。
山フこと、秋翠高校の近所にある食品スーパー『山崎フードセンター』を出た二人は、すぐそばの三叉路にかかっている横断歩道を歩行者信号が点滅の状態で急いで渡り、店と反対側の歩道に移動した。
「そう言えば渡された千円札、古い方だったね」
「そういやそうだったな。まだ流通してんのね。今は夏目漱石だよなぁ…」
二人は歩道を歩きながら、さっきのお札の事を思い出す。千円札と言えば伊藤博文というイメージが二人にはあるが、昨年出始めた、夏目漱石が描かれた新しい千円札もよく見かけるようになってきて、それに反比例するかのように古い方はあまり見かけなくなってきた。
「しっかし北久保先輩、毎週来てるけど仕事ってちゃんとやってるんかなぁ?」
「じゃねーの?でなけりゃ毎週奢ってくれんやろ」
「…そりゃそーだな」
二人は他愛もない話をしながら地元銀行がある三叉路からしばらく続く直線を歩く。
4月半ばでもう桜が咲いているとはいえ、微妙に寒い感じは残っている。そのせいか、芳賀は一瞬ぶるっと体が震えた。
板橋がふとしたことに気づいた。さり気なく歩道の車道側へと入れ替わると、それを見た芳賀が感心したように、
「板橋ってそういうところ気が付くね」
「そっか?別に気にしたことはねーけどな」
「ホントか?」
「そんなもんでしょ?」
こともなげに言う板橋。芳賀はふーん、と言いながら、そりゃあ確かに女の子が周りに居ない時がないわなぁ、と納得した表情をする。
三叉路から1分ほど道すがら歩いたところでやがて高校に通じるやや幅の狭い1.5車線の市道へと左折すると、右手に市所有の草野球用のグラウンドと、その奥の、背景のようにそびえ立つ福井放送のビルと屋上にある同じ高さはありそうな赤白に塗られた電波塔を眺めながら学校へと向かう。グラウンドでは草野球をしてるらしく、道のグラウンド側には参加者の自動車が鈴なりに止まっている。狭くなった道を時折自転車で下校してゆく生徒とすれ違いつつ、目の前がお寺で壁になっているT字路を右へ曲がり、やがて校門から敷地内に入る。
「北久保先輩のバイクだな」
芳賀が学校の職員入口手前の植え込み前に置いてあるバイクに視線を向けた。そこに溶け込むかのようにさり気なく置いてある、青みがかった銀色のやや古めのバイクだが、手入れはしっかりとしてあるようでクロームメッキなどにはサビやクモリなどは見当たらなかった。
「カワサキのZ250FT、綺麗に乗ってるなぁ」
板橋が感心するかのように呟く。
芳賀は、それに反応するかのようにサラッと横を歩いている彼に話しかける。
「そういや板橋、この間、繊協ビル前の電車通りをバイクで走ってなかった?」
「あ、わかった?」
わざとらしくおどけたポーズをとった彼へジト目で見つめる芳賀。反応がないのを見た板橋は通常モードに戻りつつ、周りに先生とかが居ないのを確認してさり気なく彼女に顔を寄せ、彼女の耳元で囁く。
「久美ちゃん、校則もあるし、とりあえずは内緒にしててねー」
…名前で呼ばれるのは嫌いじゃない、だからそれは…。
芳賀の表情が、ほんの僅かだけ強張っているように動くが、気づく人は彼女以外にはいなかった。
彼女はしかし、口にはせずに彼にギリギリ聞こえるような声で、
「…そりゃあもちろん」
芳賀は表向きはそう言いつつ、彼を意識しないように視線を外した。
顔がどういうわけか上気してるのを彼女自身が感じていた。再びちら、と板橋の横顔を横目で見たが、彼の顔は何事もなかったかのように進行方向を見ている。
彼女は視線を固定しつつ、板橋に多少のトゲを含んだ口調で記憶の引き出しからその時の情景を思い出しながら言葉を飛ばす。
「後ろに乗ってたの、千秋ちゃんでしょ?」
「そうだよ〜」
あっけらかんと言い放つ板橋。
那須千秋。今日は部室に顔を出していない同じアニメーション同好会の同じ学年の女の子。ショートカットの髪でどことなくボーイッシュな感じに見える子で、何かと板橋とつるんで出かけてたり、花火見たり、喫茶店へ行ったりしてるという話は何度も聞く。それでも、彼女ではない、と板橋は何の悪びれもなく簡単に言っているのだが…。
「…そうしてるって事は、付き合ってるの?」
ストレートに彼女は彼に訊いた。いくらか、鼓動が早くなる。
…あたしは、そこに、あるか、なしか。
しかし彼は興味なさそうに、さながら機械的に処理するかのような気軽さで即答してきた上に質問を返す。
「千秋とは付き合ってないよ。っつーかなんでそういう事訊くん?」
また名前で呼んでる…芳賀はそう思いながら、板橋に自分が思っているバイクの二人乗りのイメージを率直に告げる。
「だってバイクに二人乗りでしかも後ろ女の子って好きでないと乗せないでしょフツー」
「そっかぁ?俺は気にしてないけどな」
芳賀が訊きたかったことはまるで反応が返ってこなかった。彼の表情からすればそれは本当なのだろうが、彼女の中の"じぶん"はそれを素直に信じることは出来なかった。
彼女は視線を前に戻す。
生徒玄関から中に入り、アニ同が根城にしている2階の生物実験室へ、一旦南校舎の方へと向かう廊下を二人が並んで歩く。土曜の放課後も13時を過ぎると部活してる生徒以外はほぼ帰ってしまってる様で、廊下ですれ違う人の数が少なくなる。
天井から照らしている蛍光灯の、淡い光を遮る二人が床に影を落としていた。その影は、光源が変わるたびにその位置を目まぐるしく変えてゆく。
今度は南校舎を東の方へ。中庭から校舎に反射した柔らかい光が、廊下の窓ガラスを通して二人を照らす。窓ガラスの反対側の物理室では、物理部の面々がボードゲームに興じ、時折ダイスの目がよかったのか、野郎の歓声が立ち上がっていた。
「あのさぁ?」
「はい?」
突然板橋が声をかけてきたせいで、芳賀の声は思わず上ずって変な返事をしてしまう。
「いやさっきから何でそう付き合ってるとか訊くのかなぁ、と思って」
「そりゃあ千秋ちゃんとつるんでることが多いから…って思うし、女の子を名前で呼んでるし…」
「いやそう言う関係じゃないって。あと名前で呼ぶのは昔から。もう癖になっちゃってる」
板橋は笑みとも苦笑ともつかない微妙な表情をして芳賀に念を押す。続けて、
「それとも、名前で呼ばれるの嫌?それなら変えるけど…」
「そう言うわけじゃないけど…」
そうじゃないんだけど…と口にするが、芳賀の言葉の勢いが次第に減衰してゆく。
廊下は終わり、日の光に替わって暗めの蛍光灯がかろうじて闇を照らしている階段を上って行く。途中で芳賀は思い出したようにやや速度を落として、板橋の背中を見るような位置につける。
男にしてはやや長めでくせっけのある髪、背は高めで体は中肉中背よりはややがっちり系。顔も美形ではないが平均レベルよりは上で、アニ同どころか同じクラスの女子からも一目置かれている。物知りで、寛容で、理詰っぽくて、毒舌家で、メカを描かせれば右に出るものがなく、味方も多いが敵も多い。
ただ、ややもするとめんどくさい…。
そして親しい女性は名前で呼ぶ。彼女から見たら、無節操に。
なんで…、と思った所で芳賀は次に続く言葉を振り払うかのようにかぶりをふる。
幸い、階段は薄暗いと言った方が的確なくらいに照度がなかったので彼女の顔を彼が見ることはなかった。
芳賀は階段の途中で立ち止まる。
彼女の前の方から、板橋の階段を上る靴の音とお菓子やジュースを入れたビニール袋との音が混じって聞こえてくる。
その靴音が止まる。
「ん?どうした?大丈夫か?」
板橋が振り向いて芳賀の方を見た。
芳賀は、一瞬何か言おうとして、それを喉元に押し込んだ。そして、無言で階段を再び上りだす。
伏し目がちにして。
自分の後ろをのぼってついてくる彼女を見た板橋は、彼女の行動を理解してないのか、しようとしないのか、理解した上でのことなのか、再び前を向いて階段を上り始めた。
アニ同のみんなが待っている教室へ入ると、芳賀はさっきの様子からは信じられないようなハイテンションに戻っていた。板橋から奪ったジュース類を既に金田が紙コップを用意して準備していた所へ手早く注いでゆく。次いでスナック菓子の袋を次々と開けて実験用のテーブルに並べてゆく。時折キャハハと高周波成分を含んでるかのような甲高い笑い声が飛び出し、アニ同の土曜の放課後は楽しく過ぎてゆく。
最初はみんな一緒に飲み食いしていたが、やがて2、3グループに分かれてそれぞれで別の話で盛り上がる。その中でも、芳賀の笑い声は、起きた時には別グループの何人かは思わずそっちの方を見る位だった。
「芳賀さん、いつも通りだなぁ」
芳賀さんは、真面目な時以外はテンション高くて、よく笑う女の子。
だけど、本当は…。
━終━