映らないテレビ
「おとーさん!テレビつけたけど…局足らんくない?ちゃんと接続した?」
「したじゃん。ちゃんと見とったら?」
「だけんども映らんに?どういうこと?」
「どれどれ…」
父親が引っ越し作業をほぼ終わらせてる中で、おっとり刀でテレビを据え付けてある居間の一角へ歩み寄る。テレビのそばには次女の美紀が不満そうな表情を隠そうともせず居座ってブーブー文句を呟いている。
父親がテレビをつける。ややあってブラウン管に画像が映ると、手元のリモコンで設定済みのチャンネルを選んで次々と表示させる。
「ちゃんと映るに」
「民放2局しか映らんら?」
「福井は民放2局しかないに」
「ウソ…そんなことある?」
「福井は人口少ないじゃんね、だもんで民放入らんに」
「じゃあ…もうここにおる限りは52も60も62も見れんじゃん…」
「福井は56と58しか映らん」
美紀は父親の言葉を聞いてショックのあまり呆然自失の表情を浮かべた。微かに口が何かを言いたそうにパクパクしてる。
「おとーさん…おとーさんの会社って海外にも支店あったっけ?」
「あるわけないら」
「なら何でここ民放2局しか映らんの…こんなん日本じゃないら。何処かの発展途上国に間違って来たに決まっとるじゃん…」
「美紀、あのなぁ、福井は中部地方で愛知の隣の隣だに?ちゃんと日本じゃん。新幹線としらさぎ乗って福井駅着いたじゃん」
「きっと途中で眠らされて脳波催眠受けたに違いないら…」
数年前、アニメとかが好きな姉に半ば無理やり見せられた、東京で暮らしていたはずが実は地球を脱出した都市宇宙船の中だった、というSF物のOVAアニメの設定をぽつりと言いながら美紀はふらりと立ち上がる。台所のテーブルに近づくとその上に置かれた、今日からとり始めた地元の新聞の最終ページを見始める。そして穴が開くかのようにじーっ、と見つめる。
「…このMROって62じゃん。新聞に書いてあるってことは映るに?」
しかし、台所から希望を胸に居間に移動してリモコンを付けてもそこに映ってるのは砂嵐のみ。
「…何で映らんの?」
「だからさっき言ったじゃん。福井は2局しか映らんって」
「じゃあ何でテレビ欄に福井の放送局と同じ大きさで番組欄あるら?」
「それ、隣の県の放送見れる人だけ。ここらだとアンテナ立てんと見れん」
美紀の微かな希望すらも、県域放送という壁の前にあっけなく砕け散った。
「…おとーさん、豊橋帰りたい…」
昭和も来年で60年を数えようとしているこの年、まだまだ地方と都会との情報格差は高い壁となって、この手の悲劇や喜劇があちこちで繰り広げられていた…。
4月は新生活の始まる月。この灰谷家も、父親の転勤で愛知県の豊橋から福井へとそれに間に合うように3月の下旬に引っ越してきた。家族5人のうち、長女の裕子は名古屋の大学の合格したのでそこで下宿住まいを始めたが、他の4人はそろってやってきている。
次女の美紀も豊橋の中学を卒業して、秋翠高校という普通の学力を持った生徒らが通う、何処にでもあるような普通の高校に合格したので4月から1年生として通うことになる。3つ下の三女の亜希子も豊橋の小学校を卒業して、近くの中学に入学して新学期から通う。
美紀には心配事があった。テレビもそうだが、方言が抜けきれてない状況で、果たして友達が出来るかどうか。自分が普段話してる三河弁が通じるのか、通じなければ友達が出来ない…心配の種は、登校日に近づけば近づくほど心の中のスペースをひっ迫していった。
もっとも、父親からすると、今どきの子供にしては方言が濃い美紀の方が問題なんじゃないかと思ってしまうのだが…。
引っ越しがある程度は片がついた。しかし、食料品の買い込みはまだなので、外食も兼ねて灰谷家の4人は事前に調べてあったスーパーの場所を目指して車で出かけることになった。
会社が借り上げてる借家から父親が運転する日産サニーのセダンが家族を乗せ、生活道路から2車線の県道へと姿を現した。周りの車に合わせて郊外の道を、スーパーとかがある国道8号目指してややゆっくりと走る。
ふと、助手席に座っている美紀が、道の真ん中に列をなして埋められている金属製の丸い物体に目が行った。家の近くの細い道にはそれがないが、大きめの市道や県道にはそれをよく見かける。
「お父さん、道の真ん中にあるアレ、って何?」
「ああ、アレは融雪装置だに」
「融雪装置?」
「あそこから水が出て、積もった雪溶かすんよ。福井は豪雪地帯だら?アレがないと雪で埋まるんよ」
「へえ…豊橋にはないじゃんね」
「そもそも豊橋は雪降らんら?降っても福井の人間から見たらその程度で騒ぐんかというくらいしか降らんに」
「…おとーさん、やっぱり間違って発展途上国に来たんじゃね?」
「やめりん、美紀」
車は交差点で右折し、国道8号線をしばらく金沢方向へと走る。やがて食料品買い込みの前に腹ごしらえということで、車は北陸で有名なラーメンチェーンの駐車場に乗り入れた。
「8番らーめん…?見たことない…」
「福井とか隣の石川県では一大勢力のチェーン店だに。前に出張で食べたけど太麺でなかなか美味しかった」
幸い一つだけ空いたスペースに車を滑り込ませると、4人は降りて入り口で10人ほどの待機列の後ろに付く。父親は列の先頭に置いてある名前記入欄に名前と人数を書いて戻って来た。
3月終わりのウイークデイだが、お昼時ということもあって多少は並ばないとテーブルにまでたどり着けない。ただ、風よけ室には店内の美味しそうな香りが漂って来ていてなおさら空腹感を加速させていた。
「…味噌だけど…赤味噌じゃないじゃんね」
美紀の鼻腔をくすぐる味噌の香り。しかし、豊橋にいる時には散々お世話になった赤味噌のそれではなかった。
「北陸は麴味噌をよく食べるって話だに。こっちでは赤みそはそんなに食べないって」
こういうご飯のことになると母親はさすがに父親よりも知識はある。しかし、赤味噌がそんなに食べられない地域に引っ越したとなると…朝ごはんでいつも母親が作ってくれるお味噌汁が赤みそから麹味噌に変わってしまう可能性が…。
「おかーさん、朝はいつもの赤味噌がええ」
妹の亜希子がねだるように母親に訴える。三河の人間にとっては味噌は赤みそとほぼ決まってるようなものだ。うかつには変えられない。
「ご飯食べたらスーパーこの近くにあるもんで、後で見に行こ」
母親が末娘をなだめるように言葉を投げかける。
多分あっても福井では赤味噌がマイナー…となると種類がそんなにないからいつも食べてる銘柄があるかどうか…美紀は、心配の種がまた一つふえるのか…と一瞬渋い顔になった。
気が付けば並んでる列の先頭は灰谷家の4人になっていた。店内を見ると、4人掛けのテーブルを店員さんが拭き取って食器等を片付けている。となると、もうすぐ呼ばれるはず。
「ハイヤさん、こちらへ」
店員に案内されて、先ほどお客が帰ったテーブルへと案内される。ブックスタンドに立てかけてあるメニュー表を見ると…。
「ラーメンは味噌と醤油と塩の3種類…セットあるに」
「おとーさん餃子欲しい」
「ギョーザはセットで頼んだ方が安いら?」
「唐揚げも頼んどく?」
メニュー表を見ながらめいめいが好き勝手にあれ欲しいと言い始める。30秒ほどは収拾がつかない状態だったが、やがてそれぞれがメニューを決めると店員さんを呼び出して注文する。
「さて、この後の予定だけど、スーパー行って食料品買った後、美紀の行く高校と亜希子の行く中学見に行く?」
父親からの提案に美紀も亜希子も賛同する。
高校に入学する美紀の方は試験のために1回は秋翠高校に来ている。ただその時は駅前のホテルから行っていたから、引っ越してこれから暮らす家からは道すがらを確認していない。
三女の中学の方は転校手続きみたいな形で済んでいるので、実際まだどんな所なのか見ていない。
「とすると、秋翠へ行って一旦家帰って、そこから今度はアキの中学見に行く、って感じだら?」
「そう」
「わかった」
お昼を食べ終わった後、4人は再び車で8号線を1kmほど北に上がった、夜の10時まで営業しているスーパーに寄り、そこで必要分の食料品を買い込む。
やはり、赤味噌はそんなには売っていなかった。基本麹か合わせが多いこの地域では売っていたとしても数が愛知に比べると少ない。とりあえずは今まで使ったことのある中で近いものを選ぶと、後は他の必要な分をカゴに入れていく。
その途中、妹の亜希子は冷蔵お菓子のコーナーで豊橋ではまず見ないものを見つけて視線を釘づけにされていた。
「…何で今頃こんなもん売ってる?」
「アキ、どした?」
「水ようかんって夏の食べ物だら?何で春先のこんな時期に売っとる?」
「それに何か板状になっとる…変なの」
美紀も見慣れないものに視線を釘づけにされる。白地に赤の縁取りがされた、A4コピー用紙の大きさくらいの板状の箱には水ようかんと書かれており、それが他のシュークリームとかと一緒に並んでいる。
普通、水ようかんと言えば夏ごろにCMが入る夏のお菓子で、プリンみたいな丸い金属容器に入ったものだが、ここではA4くらいの紙の束みたいな板状をしている。しかも紙製。
妹がそのうち一つを取り出してしげしげと二人で眺めていると、横合いから、
「お嬢さんら、県外の人?」
声の方を向くと、70歳前後の、ほぼ白髪のおばあさんがいかにもその歳の人が着そうなビニールっぽい派手めな色のオーバーオールを羽織って、笑顔で二人のことを眺めていた。どっちかというと、農家の人っぽい。
「ええ、愛知から引っ越してきたに」
別に変な人じゃ無さそう…そう思った美紀は声をかけてきたおばあさんについ三河弁で答える。そのおばあさんはそれを聞くなりさらに笑顔を増幅させた表情を浮かべた。
「あら三河弁、懐かしいねぇ」
「おばあさん三河の人?」
「うん、豊橋の高校卒業して名古屋で働いてたら福井出身のダンナと結婚してこんな雪国につれてかれたんやざ」
おばあさんは余程三河弁聞いてうれしかったのか、二人にはあまり関係ないことまで話してくれてケタケタ笑い始める。おばあさんの笑いが落ち着くところを狙って美紀が訊いた。
「豊橋の何処に住んどったんですか?」
「曲尺手町、判る?」
「えー公園の近くじゃん。にぎやかじゃんね」
「ほやの、よく市電乗って駅前行ったんやざ。精文館とか豊川堂の本屋、まだある?」
「ありますあります。わたしもよう行ってました」
おばあさんの言葉はすでに福井弁に変わってしまってるが、出て来る地名や本屋さんの名前などは、ついこの前まで美紀ら灰谷家が過ごしてた豊橋の、ともすれば当たり前すぎた名前だった。
「ごめんねお買い物中。んじゃ」
「おばあさんもお気を付けて」
おばあさんは長話が過ぎたと思ったのか、二人ににこやかに挨拶をしてその場を立ち去った。直後に娘さんらしき30代くらいの女性がおばあさんに合流して何かを話してる。二人のことを話したのか、娘さんは二人の方を見るとにこっ、と笑って会釈した。
「福井まで来て、豊橋に住んでた人と話すってなかなかないら?」
妹にそう言いながら二人はその娘さんらしき人に挨拶した。
ふと見ると、両親はどこかのコーナーへ行ってしまって視界内に見当たらない。こりゃやばいと二人はやや駆け足で、店内にいるはずの両親の姿を探し始めた。
買い物が終わって車に戻り駐車場を出たあと、美紀が行く秋翠高校を見に行くことに。スーパーを出てしばらく走ってガソリンスタンドのある交差点を左折。またしばらく走って今度は三叉路を左に曲がってまっすぐ南下していく。途中、2本ほど大きい道を渡り、短い川を渡って県立図書館を過ぎると、右手にグラウンドが見えてきた。
「ここにも学校がある。高校っぽい?」
助手席から父親を挟んで窓の向こう側にフェンスがあり、その向こうにはグラウンドと体育館、校舎が見える。
「支店の人らが言っとった。ここ、学力的には第四高校並に頭がいい子らが来る所みたい」
「へえ…じゃあわたしが受けてたら落ちてたら」
「無理せんでよかったじゃんね」
後ろから母親が声をかける。まあ、高校受験失敗して浪人はちょっと恥ずかしいなぁ、と美紀は過ぎてゆくその高校の校舎を見ながら、ちゃんと自分の実力に見合った高校に入れたことに感謝した。
車は少し大きな川を渡るらしく、やや右にカーブしながら堤防を登る。右の方に福井市街地のビルを望みつつ約100m強くらいの橋を渡り、今度は下りながら左カーブ。しばらく走って三叉路を右に曲がる。
10秒も経たずに今度は1車線しかない市道へ左折すると、正面やや右に、3階建ての白い無機質なコンクリートの校舎が見えてきた。春休みの期間中なためか、部活で出ている生徒以外の出入り等は見当たらず、本当にここで新学期から通って授業受けて友達と過ごすのか、という考えがしばらくは浮かばなかったほどだった。
美紀は見るのはこれで2回目。しかし、合格した後で見るのは初めてだった。
「高校生になったらここに通うのかぁ…」
車は校舎を左手にゆっくりとやや幅の狭い市道を、歩く速さ並みに速度を落として走る。1階にある明かりが点いてそうに見えるところは職員室か。対照的に2階以上は明かりが落ちている。
「…ぱっと見は普通の高校じゃん。何処にでもある、みたいな」
妹がありきたりな学校の感想を姉に聞こえやすそうに後席から身を乗り出して言う。美紀は妹の方を見て、
「そんなもんだら?私立じゃないんだし」
「ちょっとガタ来てそうなカンジ」
「あんなぁアキ…」
学校の悪口を言われたと思ったか、美紀は妹にジト目で言い返す。
「アキが通う中学も市立中学だら?似たようなもんじゃん」
「えーでもこっちは出来て10年経っとらんに。お姉ちゃんが通う高校よりは新しいもん」
助手席と後席との間で繰り広げられる姉妹の言い争いはやや低レベルな感じに終始した。思わず苦笑いを浮かべる両親。
「それじゃ一旦家に戻るよ」
父親が車を北側にある大きな道へと走らせる。助手席の美紀は、これから嫌というほど見る高校の校舎を、名残惜しそうに首を巡らせて見ていた。
入学式。美紀は父親と一緒に秋翠高校の校門から校舎を見上げていた。
上下とも濃紺のブレザー風の上着に、スカートはプリーツスカート。左の胸元には、ペンと羽根を模した逆三角形に、中央に『高』の文字を図案化した校章バッジ。その下には学年をローマ数字、クラス番号が算用数字で記されたバッジを制服と同色のフェルトにねじ止めして、胸元のポケットの下に吊るすようにつけられていた。
新入生らは親と一緒にこれから行われる入学式に出席するために続々と学校へ集まってきては、親は入学するわが子の晴れ姿を記録するために、校門で記念写真を撮ることに夢中になっている。その横を、2年生以上の在校生はこれから始まる新学期に多少の不安と期待と、そして大半を占める式典などの行事へのかったるさを引きずりつつやってくる。
「アキとお母さんもそろそろ入学式だら?」
「時間的にはそうだに」
父親が腕時計で時間を確認する。妹と母親も福井市東部にある、出来てそんなに経ってない中学校の入学式に今頃出ているはず。
記念写真を撮っている親子が校門を離れたのを父親は目ざとく見つけて娘に促す。
「美紀、記念写真撮るわ。ほら、そこ立って」
「ええ、撮るん?」彼女は不満を表明しつつも父親の言うことに従って、高校の校門にある校名を記した学校銘板の横に立つ「早よ撮りんよ。後ろ順番待ってる人おるに」
「まってて…」
父親が手にした一眼レフのレンズにある距離環を回し、娘の写真の写りの精度を上げようとファインダーを見つめる目を凝らす。やがてピントが合ったのか、
「撮るよ~チーズ」
カチャン!という金属音交じりのやや甲高いシャッター音と共に、彼女の姿はフィルム上に潜像として記録された。
父親はそそくさとその場から退避し、同じタイミングで美紀の方もその場から動く。
「じゃ、中に入らまいか」
父親に促されて彼女がうなづくと、入学式ということで花に飾られた生徒玄関に向け、親子は歩き出した。
福井はまだ桜の開花には早いという予想がされてる通り、ソメイヨシノのつぼみはまだ硬いままだったが、しかしいつまでもそのままではいられない。
豊橋から福井へと引っ越してきた彼女の、ある意味初めて尽くしの学校生活が始まった。
言葉の壁は、乗り越えられると信じて。