前日譚2
「その」前の物語2
「この甲斐性なしっ!」
「あう」
怒鳴られた。
「出て行けっ!」
「あう」
捨てられた。
「うう……ひどいよアーセット……」
閉め出された玄関の前で、情けなく泣き言をいっている青年。
ゼノーファ・ローベイルという。
ローベイル商会の社長の兄なのだが、玄関先でめそめそしている姿は、いろんな意味で同情と憐憫を誘っている。
あと三年ほどで三十路に入るというのに。
まあ、利発で商魂たくましく目端の利く妹と、のほほんとして危機感がなく甲斐性もない兄という構図は、珍しくもない。
エオスの神々でいえば、至高神アイリーンとその兄アイルが、だいたい似たような関係である。
ふらふらと旅ばかりして、ろくな収入がない哀れなゼノーファ。
妹がアイリーンで成功していると聞いて訊ねてみたのは、べつに金の無心をするためではなかったが、さっそく追い出されてしまった。
情けないったらありゃしない。
日頃の行いが悪すぎるからだ。
「魔法の研究はお金がかかるんだよぅ……」
事実である。
事実ではあるが、だからといって妹が苦労を共有してくれるとは限らない。
「せめて留めてくれぇ……」
情けないったら。
「寝床なら暁の女神亭にいって。
あと、ついでに仕事してらっしゃい」
とっても温かい言葉が、ドアの向こう側からかかる。
ひく、と、ゼノーファの頬が引きつった。
暁の女神亭。
いろいろな意味で有名な酒場兼宿屋だが、彼にとってはもうひとつの意味を持つ。
というのも、ゼノーファは魔法使いであり、魔法使いの多くがそうであるように、彼もまた魔法使いギルドに所属している。
そして、魔法使いギルドと暁の女神亭の仲が極めつけに悪かったりする。
もちろん理由があって、常勝将軍花木蘭の子飼いの冒険者たちが、幾度も魔法使いギルドに恥を掻かせているからだ。
「あそこは……ちょっと……」
「一仕事おわるまで帰ってこなくて良いからね☆」
「あう」
がっくりと項垂れる青年。
「どうしよ……」
呟きが夜風に溶けていった。
ぴんと張りつめた空気。
空を切る拳と木刀の音だけが道場に響く。
半ば目を閉じるようにして太刀筋を読むダルマー・B・ディ。
彼の動きを正確に追尾する道場主の木刀。
息を呑んで見守る門下生たち。
一進一退の攻防は、だが長時間は続かなかった。
思い切って踏み込んだダルマーの拳が道場主の顔面を捉える……かに見えた瞬間、ふっとかき消える姿。
「くっ!?」
危機を悟って後退しようとするが、間に合わない。
「ぐ……」
脇腹に衝撃を受け、膝を突く青年。
「参った」
「なんの。
また腕を上げましたな」
微笑した道場主の頬に擦過傷があった。
ほとんど捉えていたのだ。
だが、もちろんダルマーが敗れたことに変わりはない。
たとえ薄紙一枚分の差であろうとも。
「まだまだでございます」
姿勢を正して一礼する。
道場主もそれに倣った。
「今宵はゆっくりして行くがよろしかろう」
「ご厚意、痛み入ります」
「いやいや。
貴殿の土産話は、娘も楽しみにしておりますのでな」
謹厳な道場主の顔が、父親のそれに変わる。
「マリシアどのは、物好きでいらっしゃいますな」
ダルマーも緊張を解いた。
あの娘に会うのも三年ぶりだろうか。
ずいぶんと美しくなったことだろう。
「いまは暁の女神亭とかいう酒場に入り浸っておるがな」
「酒場ですか?
あまり感心しませんね。武を志すものとしては」
「ところが、簡単に禁じることもできん」
「ほう?」
「というのもな。
あの酒場を営むお方が尋常ではないのだ」
道場主が苦笑する。
小首をかしげるダルマー。
尊称しているのに苦笑するとは。
「花木蘭さまをご存じか?」
「ああ、なるほど」
膝を打つ。
セムリナ人の彼でも常勝将軍の名は聞き及んでいる。
とてつもない武勲と勇猛さ。
そして奇矯な行い。
恐怖の代名詞といってもいいくらいだ。
「では、その常勝将軍が?」
「ああ。
なにやらまたおかしなことをはじめるつもりらしい。
困ったものだて」
言いつつも、道場主は笑っている。
やはり絶対の信頼があるのだろう。
「おかしなこと、ですか?」
「竜の峰を探すとか」
「それはそれは」
ダルマーの瞳が輝いた。
冒険心に火が付く。
「興味がおありかな?」
「いささか」
「では暁の女神亭に赴かれるがよろしかろう。
娘に案内させるゆえな」
「痛み入ります」
何かが始まる。
そんな予感が、青年の胸中に渦巻いていた。
「おはようございます。
きをつけて」
道行く人と挨拶を交わす。
赤い軍服と階級章が、彼の立場を語っている。
アイリン王国赤の軍コナリー連隊麾下、ジュダーク大隊麾下、バッヅ中隊麾下、フェイオ小隊麾下、テイルス分隊所属ズー・インク上等兵。
えらく長いが、ようするに下っ端の雑兵である。
任務は王都内の警邏で、おもに南ブロックを担当している。
犬を連れて巡回している兵隊さんといえば、南ブロックの学生や聖職者たちには、ちょっとは知れた顔だ。
「……やあ、クロロ。
今日も元気だね」
ひょろっとした少年が声をかけてくる。
犬に。
「ふつー、人間にまず挨拶するんでないかい?
モウゼン」
「あ、ごめんなさい。
おはようございます。ズーさん」
「いーんだけどなー。
また朝から図書館かい?」
「あ、いえ」
やや頬を赤らめるモウゼン。
「ズーさんを探してました」
「お?
なんだ?
愛の告白?」
くだらない冗談を飛ばす。
もちろんモウゼンには男色の趣味はない。
「うう。
そうじゃなくて……」
にもかかわらず、すぐ本気にするから、二歳年長の兵隊さんとしてはからかいたくなってしまうのだ。
「竜って知ってますか?
ズーさん」
「そこまで無知だと思われるのは、なんぼなんでも不本意だぞ」
「あ、ごめんなさい」
「で、竜がどうしたって?」
「じつは……」
モウゼンが説明する。
それは、花木蘭が竜の峰へと赴く冒険者を捜しているという、冒険者ギルドに上げられた依頼についてであった。
「ズーさんは兵隊さんですから、暁の女神亭にコネクションがあるかと……」
「あのなぁ……」
溜息を吐くズー。
彼は上等兵である。
暁の女神亭を経営する花木蘭は大将。
天と地ほども違うのだ。
実際に話したことなど、あるはずもない。
それどころか、彼が所属している赤の軍の上司たるジュダーク・フェルミアース中佐とだって話したこともない。
「俺にどうしろってんだよぉ……」
思いっきり尻込みしている。
当然だろう。
モウゼンが何を頼むつもりか、わかってしまったから。
「一緒に行っていただけたらなぁ、と……」
「やっぱり……」
「ダメですか?」
「うぐぅ」
変な呻き。
ものすごく嫌だ。
あの宿に関わるくらいなら、前線勤務にでもなった方がまだマシだ。
だが、
「わかったよ……
わかったから、そんな顔すんな」
言ってしまった。
もう後戻りできない。
「困ってる市民を見捨てられないじゃないか」
必死に自分に言い聞かせるズー。
大冒険の予感を、胸の奥に感じながら。
「竜。
見てみたいですねぇ」
のほほんと、モウゼンが言った。
ギルドというのは、同業者の組合である。
魔法使いギルド、冒険者ギルド、商人ギルド、農業ギルドに漁業ギルド。
ありとあらゆるものに組合が存在する。
国から公認されているものもあり、非公認のものもある。
冒険者ギルドというのは、前者である。
これに加盟することで、冒険者はさまざまな特典を享受することができる。
国が管理している遺跡を調査する資格を得たり、国から出る依頼の参加資格を得たり、さまざまだ。
所属してマイナスになることはないので、たいていの冒険者は加盟している。
また、魔法使いなどはそれぞれの同業ギルドとの掛け持ちをしているもの多い。
「望むものを与える、だってよ」
リュアージュ・エスタシアが下手な口笛を吹いた。
冒険者ギルドのホールである。
依頼内容は、竜の峰を探すこと。
困難を極めるが、それを補ってあまりある報酬だ。
「……悪くない、な」
隣で呟いている男もいる。
レンジャー風の男だ。
「アンタもいくのかい?」
「……まあな」
「俺はリュアージュだ。
よろしくな」
にやりと笑う。
「ウィリアム・シャーマン」
もう一方は、どこまでも淡々としている。
「ウィリアム?
そいつはなかなか不吉な名前だな」
「…………」
護り手の聖戦と呼ばれる戦い。
世界に弓引いた男。
最後の竜騎士、ウィリアム・クライヴ。
あの戦いの後、子供にウィリアムと名付ける親は激減した。
当然のことではあるが、こちらのウィリアムの名前はいまさらどうにもならないし、誰のどんな名前も本人の責任ではない。
「……べつに血縁はない」
当たり前だ。
冗談なのだろう。
「まあ、これからヨロシクな」
いずれにしても道連れだ。頼りになりそうなのが多い方が良い。
右手を差し出す。
軽く頷いたウィリアムが握りかえした。
「ここが暁の女神亭ね。さて、鬼が出るか蛇が出るか……」
扉の前で呟く女。
レスカ・エリュージュ。
彼女もまた、冒険に興味を持った一人だ。
内部からはざわめきが聞こえる。
どうやら、だいぶ多くの人が詰めかけているらしい。
「報酬を求めてか。
竜を求めてか。
それとも、知識を求めてか」
歌うような問いかけに、もちろん答えるものはいない。
彼女自身も、答えられない。
答えられないが、参加を決めた。
「わからなさが答え?」
ノブに手をかける。
ややきしんだ音を立てて開いてゆく。
冒険の扉が。