第1話
まさか、こんな形で推しに認知されるなんて誰が想像できるというのだ。
「こ、こはるん」
おれは激しい動悸と、乱れる呼吸をどうにか宥めながら推しの名を震える声で零す様に呟いた。
***
「ついに来たな、この日が」
指折り数える日も今日で終わり。天気は晴れ。最高だ。
おれの名前は奏千速。大学に通うごく普通の平凡な男だ。明るく社交的だとは言い難いが本当に普通の大学生だと自負している。ただ、この間一部で陰キャと呼ばれていることを知ってしまった。どうせ根暗ですよ、おれは。
いやそんなことはどうだっていいんだ。おれはおれの事をわかってくれる奴がいればそれでいい。
それよりも、だ。そんなことより。今日は待ちに待った大事な日なんだ。
鼻歌を歌いながらペンライトとライブTシャツをリュックに押し込む。ペンライトの電池はしっかりと取り換えてある。身支度を終え、おれは大学へと向かう。ライブの前に学生の本分も努めなければならない。
「ああ、楽しみすぎる……」
雪野こはる。通称こはるん。そのアイドルは今のおれの全てと言っていい。
とにかくこはるんの顔が好きだ。とにかくこはるんの声が好きだ。こはるんの顔が見たい。こはるんの歌を聞きたい。その為におれは生きている。
歌も、ダンスも最高のアイドル。そんな推しに、今日は会えるのだ。
こはるんのライブに参加するにあたり、おれは出来る限り身なりを整えている。普段はなるべく顔を隠すよう手つかずのもっさりした髪をワックスで整え、分厚い眼鏡を外し、震える手で何とかコンタクトレンズを着ける。コンタクトレンズとかこはるんのライブじゃなきゃ絶対にやらん。毎回怖い。
まあそんなわけで、今日はこはるんのライブ。授業が終わったらどこか途中のトイレで身なりを整えないと。
そんなことを考えていたら、「ちーちゃん!」と後ろから声が飛んできた。よく知るその声に、おれは振り返る。
「……」
無言でそいつを睨むが、当の本人はニッと笑顔を浮かべた。
「リアクション薄!」
「今日は大事なライブがあるからテンションは取っといてんだよ。つーかちーちゃんはやめろ」
「テンションを取っとくとは……?」
はて、と首を傾げているのは幼馴染の春史。こいつとは幼稚園からの付き合いだ。腐れ縁、とは言い得て妙だと思う。根暗なおれと、こんなコミュニケーションお化け陽キャみたいなこいつとの関係が続いているのは本当に不思議だ。
まあ単純にこいつが良いやつなんだけど。ワックスでの髪の整え方とか、コンタクトレンズの挑戦もこいつに教えてもらいながらやった。洋服のセンスも良いから、その辺もライブの時にアドバイスをもらったりしている。
こいつは趣味とかも全く合わないのに話しかけて、大した返しも出来ないおれでもずっと変わらず接してくれるお人好しなのだ。お調子者でもあるけれども。
「んー? その様子じゃお前、忘れてんな? 全くしょうがねぇな」
「何だよ」
「ふふふ、千速も大人の仲間入りだな! 誕生日おめでとう!」
「え?」
誕生日? おれの?
スマホを取り出して日付を確認する。確かにそこにはおれの生まれた日付。
「すっかり忘れてた、今日か。ライブの事で頭いっぱいだったわ」
「お前な〜。二十歳だぞ? 記念すべき大人の仲間入りをする日だというのに……。ま、そんなわけで、ほい。誕プレ」
「お、おう。何だこれ」
差し出されたのはコンビニの袋。チョコとかだろうか。誕生日を指折り数えて待つ歳は過ぎてはいるが、プレゼントは普通に嬉しいし照れ臭い。顔が弛まないように意識しながら、受け取ったレジ袋を覗き込む。
「煙草と、ライター?」
「今日から吸えるからな!」
「いや吸わんし」
両親とも喫煙者だし、母さんに至ってはヘビースモーカーなので煙草の煙には割と慣れているが、それ故かわからないが煙草を吸いたい気持ちは一ミリもない。
「でも、ライターって格好良いよな……」
ゴツいオイルライターとか、凝ったデザインのやつとか憧れる。買う予定はないけれども。取り敢えずライターと煙草をポケットに突っ込む。
煙草は母さんにでもやろう。母さんは吸えりゃ何でもいいしな。この前父さんの煙草をごそっと盗んでるのを目撃してしまったのを思い出して息をついた。
「取り敢えず煙草は母さんにでもあげるよ」
「おう。女の人って結構喫煙者多いよなぁ。うちの家族の女性陣が本当に嫌いだから、知った時は意外だったな。従姉妹のねーちゃんが久々に会ったらすぱすぱ吸っててびっくりした」
「へえ、そうなん?」
「そうそう、母ちゃんがそれ見て『いやー! 私の可愛い姪っ子が煙に巻かれてるぅ〜!』って悲鳴あげてた」
「それ意味ちがくね?」
そんなおれの言葉に、春は「とまぁジョークはこの辺にして」と改めておれにまっすぐな笑顔を向けた。
「ようこそ大人の世界へ! 今日は夕飯食いに行こうぜ! 奢るよ」
そんな、ひと月ばかり早く誕生日を迎えた自称大人春史クンの、他人の金で飯が食えるという申し出は中々に心揺れるものではあったが、おれにはそれより重要な用事がある。
「いや今日はこはるんのライブなんで」
「で、出た〜! こはるん! 俺とこはるんどっちが大事なの!?」
「そりゃこはるんだろ」
「即答〜!」
「……祝ってもらったから、もういいよ。まあ、その」
恥ずかし過ぎて、その後に続いたありがとう、という言葉はほぼ音にならなかったと思う。だが春には聞こえたらしい。
にやにやしながら、「素直じゃねぇな〜」と肘でぐりぐりしてくる春に、おれは言った事を後悔した。