「歩行」(4)
ベッドで寝返りを打つと、彼女はなにごとか寝言をもらした。
「こう、体がどっか別の世界に行っちゃってね。ごめんな。ああ。なにも見なかったことにしてそのまま帰りな……シヅル」
カーテンのすきまから差し込む日差しとそよ風に、伊捨星歌はかすかに反応した。ゆっくり上半身を起こす。
寝ぼけ眼をこするホシカの視界には、室内のさまざまな調度品が映った。
窓に棚に扉、そしてじぶんの寝るベッド。その身に着せられている寝間着といい、なにか違和感がある。そう、このデザインは……ショッピングモールの中世風雑貨店とそっくりだ。
ベッドの横のイスには、ひとりの若者が座っていた。ここの内装と同じく、どうやら外国人らしい。髪の毛がはねたままのホシカヘ、若者は呼びかけた。
「やあ、おはよう、ホシカ」
若者はなにかをホシカヘ差し出した。あたりの雰囲気に似つかわしくない現代のミネラルウォーターだ。
「俺はジョニー・イングラム。こんどは先に、自販機で買っといたよ?」
「…………」
ふかふかのマクラを抱えたまま、ホシカは数秒間、無言でイングラムと見つめ合った。
次の瞬間には、イングラムに惨劇は降りかかっている。
花の生けられた花瓶は、轟音とともに揺れた。首をつかんで片手一本で吊り上げたイングラムの背中を、ホシカが勢いよく壁にぶつけたのだ。その怪力のすさまじさよ。水のペットボトルもどこかへ転がっていく。
酸素をもとめて口をぱくぱくするイングラムの耳もとへ、ホシカは恫喝した。
「ぶっ殺すぞ、てめえ?」
「ひ、ひい、また首絞め……」
「なんであたしが、知らない男と寝室でふたりきりなんだ? 寝てる間、あたしになにをやった?」
「お、俺はきみに指一本触れちゃいない。着替えの覗き見もしてない。神に誓って、きみの手当てはすべて女性の看護師がおこなった……」
イングラムの喉笛をしめつける力を一段と強め、ホシカは続けた。
「ここはどこだ? あの世か?」
「せ、セレファイスの病院だよ。騎士寮と宮殿の間にあるマクニール総合病院だ」
「セロハンテープ?」
「セレファイスだ。幻夢境の。ま、魔法少女ならピンとくるんじゃないかな。きみたちにとってのいわゆる〝異世界〟さ」
「なんで知ってる? あたしが魔法少女だってこと?」
「それは順を追って説明するよ」
「あたしは死んだはずだ。さっき夢の中で、大事な親友にお別れまでしちまったぜ」
「呪力の〝時間切れ〟をむかえる前に、俺たちが次元のはざまから救い出した。〝星々のもの〟に喰われかけているきみを。さっき検査のときにわかったことだが、こんな記憶はないかな? 残った呪力を使い切る寸前、一度だれかから予備の呪力を分けてもらわなかったか? それが、きみを救った大きな要因だ」
「予備の呪力……」
ホシカの脳裏に、なつかしい声が再生された。
〈いまのホシカにはもっと大切な使命があるでしょう? 救ってください。守ってください。私を破壊すれば、すこしですが私自身の呪力を使って、ホシカの〝時間切れ〟を先延ばしにすることもできるはずです〉
過去を遠目にするホシカの瞳に、かすかだが光るものが浮いた。もうここにはいないだれかへ、感謝の言葉を口にする。
「ありがとな、ラフ……」
イングラムを宙吊りにするホシカの手から、力は抜けた。足もとにくずおれて猛烈に咳き込むイングラムへ、やや冷めた声でたずねる。
「〝組織〟の差し金か、おまえ?」
「ちがう。俺はセレファイスのミッドウェスタン呪士学校の生徒だよ。安心して。ここは地球の組織が手出しできない異世界だ」
「そうか……どうりで、赤務市にはなかった呪力の反応が、そこらじゅうをウロチョロしてるわけだ」
「ここではちょっとでも素養があれば、地水火風の呪力は社会の役に立つよ。戦いはもちろんのこと農業や漁業、マッサージ屋や医師といったふうにね。そこの廊下を歩いてる看護師さんだって大半は呪力使いだ」
「乱暴して悪かったな。その、パニクっちまって」
「無理もないさ。平気だ。ちょっと前に占い師に、俺の首に不幸と幸運が多く見えるって言われたし。だからこんど俺に詰め寄るときは、優しく頼むね。唇といっしょに」
「くちびる?」
「いや、なんでもない」
床に転がるミネラルウォーターを拾い上げると、ホシカはキャップを開けてひといきに飲んだ。ふたたびベッドに座ると、ひたいを押さえてうなる。
「異世界? 幻夢境? セロハンテープ? なんであたしがそんな場所に? パニックが止まんねえぜ。インパルス、説明をお願いできるか?」
「もちろんだ。セレファイスのイングラムが細かく事情を話そう」
わかりやすくイングラムは事の詳細を打ち明けた。ジュズの出現、自身の〝案内〟の呪力とその目的、幻夢境のあらまし、そして……
「久灯瑠璃絵? 知ってるぞ、そいつ。美須賀大付属のだろ? まえにいっしょにゲーセンで遊んだ。あいつがこの世界で大暴れしてるってのか?」
「そのとおり。幻夢境はいま、侵略の危機に瀕している。きみたち〝災害への免疫〟の力が必要だ」
肌寒げに、ホシカは体育座りして縮こまった。
「悪いが、あたしは力になれない。現実でも大変だったのに、こんどは慣れない土地の異世界まで救えだって?」
「ここだけじゃない。ほうっておいたら次は、ジュズはきみたちの地球をターゲットにするぞ。その証拠に、ルリエはなんらかの方法でふたつの世界を行き来した。言っておくが幻夢境は、地球の宇宙船ごときでは決してたどり着けない場所にある」
「だからってよォ……」
かすかな音が、病室に響いたのはそのときだった。
ホシカの腹の虫が鳴いたのだ。あの破天荒なホシカが、めずらしく顔を赤くしてお腹をおさえている。イングラムは相好を崩してうなずいた。
「そりゃ、時間切れまで呪力を使えばお腹もすくよね」
「うるせえ。一歩間違えたら、おまえとメネス先生とやらがランチになってたんだぞ?」
「すぐに食事を用意させよう」
「いいや、マズい病院食はゴメンだ。都の案内がてら、どっか連れてけよ?」
「わかった。喜んでエスコートしよう」
「たのむぜ、ナイト様。あたしの服は?」
「申し訳ないが、きみが身にまとえるものはいま、さいしょに着ていた制服しかない」
「十分だ」
寝間着をたくし上げかけ、ホシカはふと止まった。父親の前でも平然と下着姿で歩く彼女だが、きょうはなにか様子がおかしい。
なんだろう、このおもはゆい感情は。
ホシカの無言の主張を察し、イングラムはあわてて立ち上がった。
「き、着替えるんだね。廊下で待ってるよ」