「歩行」(3)
水面の波紋のような〝門〟から降り立ったのは、ふたりの男だった。
イングラムとメネスだ。
あたりには霧が濃く、太陽はおろか空まで霞んでいる。どこだろう、ここは?
歩くふたりのうち、つぶやいたのはメネスだった。
「〝千なる無貌の二挺射手〟は協力したか」
「ええ、大変でした」
「あんがい簡単だったな」
「そりゃないですよ、先生」
まだ手のあざが残って痛む首をさすりながら、イングラムは反論した。
「だれもいない夜の公園でおどされ、乱暴されたんですから」
メネスは笑いを噛み殺した。
「きちんと自販機を案内しなかったからだ」
「いや、しましたって」
「さきに小銭まで投入しておくのが、真の召喚士たるものさ。さて、つぎなんだが……」
「ええ、ここですよね」
一歩先すらも視認しづらい濃霧を見渡しながら、イングラムはささやいた。
「じぶんで案内しときながら、驚きました。ここ、現実でも異世界でもありません。いわゆる〝次元のはざま〟です」
腕組みして、メネスは呪力の感度を高めた。
「イングラム、きみももう感知しているだろう。この強大な呪力の反応を。たしかにここに〝鋼の翼の魔法鳥〟はいる」
「ええ。ナコトと同じか、それ以上の力です」
思わせぶりに、イングラムはメネスを横目にした。
「ふたりで行こう、だなんて先生にしては珍しい。またそんなに手強い相手なんですか?」
「地球の組織に属していたとき、彼女の誕生をはじめとする情報を見る機会があった。記録に間違いがなければ、彼女はいま、とてつもなく不安定で危険な状態にある……よけろ!」
とっさにメネスが突き飛ばしていなければ、いまごろイングラムの体はまっぷたつになっていたはずだ。メネス自身も側方へ体を投げ出し、切れ味鋭い突風を避けた。
おぞましい鉤爪と翼をそなえた巨大な影は、金切り声をひいて霧の中を旋回してくる。
飛び起きながら、イングラムは悲鳴をあげた。
「ば、化け物じゃないですか!?」
鍛え上げた全身をたわめながら、メネスは首を振った。
「そんなことを言ったら、彼女が怒るぞ」
霧を裂いて突進してくる鳥のような怪物めがけて、メネスは身構えた。
その両手が五芒星の輝きを放つや、立て続けに召喚されたのは無数の盾だ。金属物の召喚に特化したメネスの魔法陣は、都の特製の武器庫につながっている。
怪物の進行方向に、盾は計十枚。つぎつぎに蹴散らされるそれらだが、たしかに怪物の速度は緩まった。さいごの盾を跳ねのけたときには、メネスの姿はもとの場所にない。
怪物の長い首に、重みが走った。盾を階段代わりに跳躍したメネスが、その体に飛び乗ったのだ。不機嫌な絶叫をあげながら、怪物はでたらめに宙を飛んでいる。
強風に髪をなびかせつつ、メネスは問うた。
「イライラしているようだな、お嬢さん! 呪力の〝時間切れ〟がかぎりなく近いせいかい!?」
「先生!」
振り落とされそうになりながらも、メネスはしっかりと怪物の首をつかんだ。その両腕に、地属性の呪力……稲妻の光芒がほとばしる。
メネスは叫んだ。
「さあ! お目覚めの時間だよ! 〝翼ある貴婦人〟!」
雷音……シロナガスクジラの肩こりさえ解消する強烈な電撃をもろに浴び、怪物は地面へ墜落した。痙攣しながらまだ暴れまわる怪物の首根っこを必死に押さえたまま、声高にうながしたのはメネスだ。
「イングラム! 水呪の治癒だ!」
「りょ、了解!」
怪物に飛びつくや、イングラムの両手に渦巻いたのは水流のきらめきだった。水属性の呪力の治癒効果は、生物のある一定箇所の時間を巻き戻す、または早回しすることによって対象の負った傷をふさいで治す。
イングラムの全力の水呪にあたたかく包まれた怪物は、じきに暴走を静めていった。そればかりか、醜い翼が、尾が、くちばしが、みるみる縮んでいくではないか。
またたく間に、怪物のいた場所にはひとりの人影が倒れ伏していた。
制服姿の女子高生だ。
荒い息に上下するイングラムの肩に手をおき、メネスは誇らしげに親指を立てた。
「成功だよ、優等生。さすが我が教え子だ」
「あ、ありがとうございます。し、しかし、はあ。呪力の使いすぎでバテました。あれだけ戦っておいて、先生は息ひとつ切らしてないんですね?」
「呪士は呪文の勉学はもとより、肉体の鍛錬も怠ってはならないんだ。このままぼくのもとできちんと修練すれば、あのエイベルに殴り勝つことだって不可能じゃない」
「まず団長に歯向かう度胸がないですよ……」
ひざまずいたメネスは、気を失った女子高生の首に手をあてた。物理と呪力双方の面から慎重に脈をはかりながら、結果を口にする。
「生体反応も問題なし。条件が整わず、あとすこしでも我々の到着が遅れていれば、彼女は完全に〝星々のもの〟にその存在意義を喰われていただろう」
メネスは立ち上がった。手でイングラムの〝門〟の位置をあおぎつつ、指示する。
「さあ、彼女を運びたまえ」
「荷物運びは俺ばっかり?」
「失礼だぞ、お荷物呼ばわりは。言ったはずだ。足腰の鍛錬も、召喚士の大切な要素だと」
ぐったりした少女を、イングラムは優しく横抱きにした。眠ったままの彼女の素顔を目の当たりにし、戸惑った面持ちになる。
「か、かわいい。タイプだ」
「なにか言ったか、イングラム?」
「いえ。この娘の名前はたしか……」
ふたたびイングラムの召喚の門をくぐりながら、メネスはその名を呼んだ。
「伊捨星歌……〝魔法少女〟だ」