「歩行」(2)
日本、赤務市……
夜の九時過ぎ。
通学カバンを片手に歩く制服姿の女子高生は、目についた公園のベンチにへとへとと座り込んだ。疲れがちに背を丸め、メガネの奥で瞳をつむって嘆息する。
「はあ、きょうもバイト疲れた……くたくただよ。ちょっと休憩」
スカートの両膝に顔をうなだれながら、染夜名琴はだれにともなく愚痴った。
「すこしは手伝ってくれたらどう? テフ?」
公園にほかに人影はない。
だが、答えはなんと、ナコトのカバンの中から返ってきた。
「〝這い寄る混沌〟にバイトの手伝いをしろだと?」
日頃から慣れているため、ナコトには動揺のかけらもない。
「そうよ。わたしが大変なの、知ってるでしょ? 学校に家事、アルバイト」
通学カバンのジッパーは、おぞましい響きを残してひとりでに開いた。中からちいさな鼻先をのぞかせたのは、毛のツンツンしたなにか丸い生物だ。
イノシシの子どもではないか。ナコトがテフと呼んだ存在らしい。
ああ、その愛くるしい子イノシシは、かんだかい声で人語を放った。
「いいかぁ、ナコトさんよォ。俺が運ぶのは、時間指定の郵便物なんかじゃねえ。暗黒神が運ぶのは、狂気と悪夢と絶望だ。俺がかかわった現世の仕事は、すべて星界の恐怖にかわる。それはすなわち、千年前の呪われた預言書の解読や、核兵器の製造等だ」
テフの湿った鼻をつついて嫌がらせしながら、ナコトは言い返した。
「同級生のみんなを見てよ。放課後は、クラブにカフェやショッピング……それからデート。それにくらべて、わたしはどうなの。食べざかりの弟と飲んだくれの邪神さんのせいで、娯楽らしい娯楽はありません」
「デート、って言ったか? もうとっくに俺と付き合ってるじゃねえかよ。脳も心臓も魂も、俺とおまえは死ぬまで一心同体だ」
「悪魔がわたしに寄生してることを、デートって言うとは詩人ね。でも申し訳ないけどわたし、ホストみたいにチャラっぽい人には興味がないの」
「だ~れが繁華街のキャッチだ。あの姿のときの俺が色黒なのは、この星に人間が生まれる前からの話だよ。外人はイヤか?」
「外人……青や茶色い瞳の高身長で優しい彼氏なんて、わたしには夢のまた夢ね」
肩をすくめたナコトのとなり、ベンチに人が腰掛けるのはいきなりだった。
暗色の背広をしっかりと着込み、サングラスをかけた若者だ。長い足を組んで、若者は大胆にもナコトの背中側へ片腕を回している。身長はずいぶん高い。髪の色、肌の色からして日本人離れしている。
驚いてずれたメガネを正しながら、ナコトは馴れ馴れしい若者へたずねた。
「あの……どうされました?」
サングラスをずらしてやはり黒色ではない瞳を見せつけながら、若者は答えた。
「俺はジョニー・イングラム」
「は、はあ。外国の方ですか」
「染夜名琴さんだね?」
「え、ええ。日本語がとてもご堪能なんですね。どうしてわたしの名前を?」
ベンチの横の自販機を親指で示し、イングラムは問うた。
「なにか飲む?」
「いえ、そんな。お気遣いは結構です」
自販機から戻した指で、イングラムは頬をかいた。
「おかしいな。これをやれば相手を口説き落とせると、先生は太鼓判を押してたんだが」
「く、口説く? あの、イングラムさん。あたしにどういったご用件で?」
「いっしょに来てもらいたいんだ」
(そらきた……)
とナコトは胸の中で嘆いた。繁華街を歩いていると、昼夜に関係なくこんな誘いは日常茶飯事だ。ちいさく首を振って、ナコトは作り笑いをこしらえた。
「すいませんがわたし、もう別のところで働いてまして。ほかを当たってください。失礼します……」
そそくさとナコトはベンチを立った。逃げるように立ち去りかけるナコトの背中を追ったのは、イングラムのささやきだ。
「久灯瑠璃絵……彼女の対処はナコト、きみの得意分野だろ?」
その単語は、ナコトの足を止めるのに十分な効力を発揮した。
肩越しにイングラムを横目にし、軽く手招きしたのはナコトだ。
数秒後、人目につかない木立ちの中で、イングラムを悲劇は襲った。
ナコトの片腕一本で宙吊りにされたイングラムは、おもいきり樹の幹に叩きつけられている。およそ人間離れした腕力だ。衝撃に、多くの木の葉が舞い落ちる。酸欠の金魚よろしくあえぐイングラムを、にらみつけるナコトの視線は別人のように鋭い。
声のボリュームや言葉遣いまで別人になって、ナコトは聞いた。
「久灯瑠璃絵が、またなにか仕出かしたのか?」
「ナ、ナコト……二重人格なのかい?」
「さて、どっちが本来のわたしだろうな。それより質問に答えろ。このまま頭を引きちぎられたいか?」
苦しげにイングラムは答えた。
「ルリエ……彼女は、幻夢境を滅ぼそうとしている」
「幻夢境? どこのキャバクラだ?」
補足したのは、カバンから飛び出した子イノシシだった。
「幻夢境? カダスのあるあの幻夢境か?」
強く首を絞められながら、イングラムはうなずいた。
「話が早いね、しゃべるイノシシくん……ではきみが〝星々のもの〟の正体か?」
「ああ。ナイアルラソテフだ」
「な……ではあなたこそ〝千なる無貌の神〟」
「おう。カダスの縞瑪瑙の別荘を留守にして、けっこう経つ」
ナイアルラソテフことテフを見下ろして、ナコトは毒づいた。
「おまえ、別荘なんて持ってるのか? もしや金持ちか? 聞いてないぞ?」
「ナコト。その小僧をはなしてやれ」
「こんど必ず、わたしを招待しろよ? 忘れんからな?」
無造作に手放され、イングラムは地面に落ちた。樹の根もとにへこたれたまま、ネクタイをゆるめて息苦しさをまぎらわす。
「おっと、助かったと思ったら大間違いだぞ。わたしは疑り深い性格でな」
刹那、イングラムの眉間に触れたのは、硬く冷たい銃口だった。ナコトの手に握られるのは、女子高生に似つかわしくない大型の拳銃だ。いったいどこから、いつの間に?
子イノシシの姿から、テフが呪力の拳銃へ変身したのだ。
低い声で、ナコトはイングラムへ詰問した。
「おまえは何者だ?」
「セレファイスの召喚士さ。厳密には〝星々のもの〟の反応に、俺自身が磁石のように吸い寄せられて転移する〝案内〟という呪力だよ。属性は水。俺自身が能力で異世界に滞在できる制限時間は、およそ三十分間といったところだ」
「三十分……」
ちらりと腕時計に目をやり、ナコトはつぶやいた。
「あまり時間はないな。テフ、こいつの言うことの翻訳をたのむ」
回答は、こんどはナコトの手の拳銃がもたらした。
「この小僧の言ってることは、たぶんホントだ。セレファイスっていう都も、現に幻夢境に存在する。おい小僧、ルリエを幻夢境に呼び出しちまったのもおまえか?」
「とんでもない。転移に関しては、彼女自身の力か、または彼女に力を貸した黒幕がいる」
銃口の狙いはイングラムから外さないまま、ナコトはあごで指図した。
「いいだろう。幻夢境とやらにわたしを案内するがいい。ただし、もしかけらでも怪しいそぶりをしたら……」
手のひらの中で素早く回転させた拳銃を、ナコトはよく見えるように顔の横にかざした。
「おまえを仕留めるぞ?」