3-8 余韻に浸ろう!
「我はカグヤのことが、好きだ」
エヴァの屋上。静寂が満ちる夜の世界に。
ミカルドの熱のこもった言葉が響き渡った。
「――え?」
冗談よね? なんて。
いつもみたいに笑って返すような雰囲気ではない。
あたしの肌にぴりぴりと届くミカルドの言葉が、息遣いが――どちらのものとも分からない脈動が。
ミカルドの告白を、どこまでも高潔めいたものに仕立てていた。
「あ、……っと、」
紡ぐべき言葉が出てこない。
口はぱくぱくと閉じたり開いたりを繰り返す。
胸の前に置いていた手にはいつのまにか力がこもっていた。
「――っ」
ミカルドのすべてが至近距離に在る。
ごくり。唾を飲み込んで、どうにか心臓の鼓動を抑えようと。
頭に滾る熱を散らそうと。思考をまともに働かせようと。
四苦八苦していたら――
「……ふっ」
ミカルドが片方の口角をあげて、壁についていた手を引いて。
「すぐに答えは出さなくてもいい」
などと。
クラノスとは真逆のことを言ってきた。
「え?」
「前にも伝えただろう。逃げるというのは恥ずべき行為だ」
彼は変わらないキザな口調で続ける。
「我は逃げん――いつまででも待つ」
そう言い残すとミカルドは何の未練もないように上着を翻して、屋上の出口へと歩き出した。
(聞き間違いじゃないわよね? あたし、ミカルドからも……?)
全身を熱い血液が駆け巡っている。
鼓動は未だ激しく胸を打ち続ける。
去っていくミカルドの後ろ姿へ――あたしは反射的に声をかけた。
「ね、ねえ!」
ミカルドが足を止める。
「……えっと、その、……」
引き留めたはいいものの……あたしは何を言うべきかが分からない。
話さなきゃいけないこと、聞きたいことはたくさんあるはずなのに。
ぐるぐると思考が回って――どの言葉から紡ぐことが適切か、定まらないでいる。
そんな思考の渦の中からどうにか引っ張り出したのは、とあるひとつの質問だった。
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
ミカルドは振り返らずに沈黙で答えた。
「あの! ……あのね。もしも色々あって、食べるご飯がなくなっちゃったら――ミカルドはどうする?」
どうして今の状況でそんな質問が口をついたのかは分からない。
自分でも少しズレているような気もした。
だけどミカルドはそこでようやく振り返って。
さっきまでの悪戯な微笑みの余韻を残して。
「――カグヤがいれば、それでいい」
などと。
やっぱりどこまでもキザな言葉を吐いてきたのだった。
☆ ☆ ☆
『今夜はごめん。約束の時間に行けなくなった』
『急な用事が入ったんだ。内容は……今は話せない』
『仕切り直しはカッコ悪いけど。もう一度ちゃんと言うから』
『それまで待ってて』
『――愛しのカグヤへ』
部屋に戻ると、そんなクラノスからの手紙が入口の床に落ちていたことに気が付いた。
☆ ☆ ☆
「はあ――」
夕刻。エヴァの9階、あたしの部屋。
窓際に椅子を持ってきて座りながら、ついつい溜息が口をついた。
「ため息すると幸せが逃げるって言ってたのはだれだったっけ」
あれから幾夜かが経った。
クラノスもミカルドも食事の時に何度か顔を合わせたけれど……まるで何もなかったかのような態度で接してきた。あたしも極めて平静を装ったつもりだったけど、うまくできていたかは分からない。
他の王子たちも言われた通りに『普段どうり』を心がけてくれて、本当に〝終わり〟がすぐそこにまで迫っているなんて思えないような日常が続いていた。
「一体、なにがどうなってるのよ」
自分の身に起きたことが未だに整理できないでいる。
単純に言うならば――『クラノスとミカルドに愛の告白をされた』というたった一行で終わるのだけれど。
その事実をありのままに受け入れられるほど、あたしは理性的ではなかった。
〝いつまででも待つ〟とミカルドは言ってくれたけれど。
いつまで経っても、この気持ちに結論を出すことはできないように思えた。
「もー! ……残念王子のくせに」
橙に染まる夕焼け空に向かって叫んでみたが、もちろん答えが返ってくるはずもなかった。
今度は心の中だけで呟く。
――残念王子のくせに、あたしの心をかき乱してくれちゃって。
「一体あたしは、どうすればいいのよ……」
耳を澄ますと外から微かにピアノの音が聞こえた。
どうやらアルヴェが弾いているようだ。
すこしでも気持ちが落ち着けばと聞き耳を立ててみたが、今は集中することはできなかった。
「あ、ピアノ――そういえば」
ふと思い出してベッド脇のワゴンからいつかの〝日記帳〟を取り出した。
ピアノを運んでいる時に、その裏から落ちた冊子。変わらず小口の部分には鍵がかかっている。
そしてその裏表紙には――【輝夜】の文字。
「これ、あたしの名前よね」
この世界の文字ではなかったけれど、その二文字には故郷のような愛着を感じて。
それが自分の名前だということがどうしようもなく確信できた。できてしまった。
自分の部屋や8階の大広間など〝鍵〟の心当たりがありそうなところは一通り探した。けれど見つからない。
あとは、ピアノがあった薄暗い埃だらけの地下倉庫だけど……やっぱりあの場所は苦手で探索はせずにいた。
「だけど、そうも言っていられないかしら」
空を見上げると高いところには既に月が浮かんでいた。その姿はぼんやりとしているけれど半月は超えていて、満月がもうすぐ近いことを示している。
そして月が満ちた時――この森からの帰り道が、塞がってしまうらしい。
「それまでに決めなきゃいけないことが多すぎるわ」
「んあ? なにを決めんだよ」
「あたしの未来のことよ――って! ええっ!?」
思わず叫んでしまった。そりゃそうだ、ここは9階のはず。すぐ外から人の声が聞こえるわけがない。
窓から顔を出してその姿を探す。あの野暮ったい喋り方は……。
「やっぱりアーキスじゃない! なにやってるのよ!」
「見てわかんだろうが。トレーニングだ」
みると巨大熊に乗ってきた筋肉王子・アーキスが相変わらずの半裸姿で塔の壁に張り付いていた。
「え……? ここまで壁をのぼってきたの? 身体ひとつで……?」
「当然だろうが」と、まさに当然のように彼は言った。「筋肉がありゃこれくらい朝飯前だぜ」
全然朝飯前には思えなかったが(一体どんな筋力なのよ……)、事実彼は命綱の類ひとつなしで9階までたどり着いていた。
「あぶないじゃない、落ちたらどうするのよ……!」
「問題ねえ。下手こいた日にゃ、シショーが受けてくれるからよ」
「シショーが? ……あ、」
ふと下を向くと、例のやけに紳士的な熊がこちらを見上げていた。
あたしに気づいたのか、優雅な素振りで手を振ってくれる。
「わー、かわいいー……じゃなくて!」
思わず笑顔で手を振り返してしまったが、それどころじゃない。
「あぶないって言ってるでしょ! ほら、早くあたしの部屋に――」
アーキスをどうにか室内に誘導しようと手を伸ばしたが、一向に聞き入れようとしない。
「オレ様は急ぐんだ。あとこれを20往復しなきゃなんねえ」
「あと20回!? 指の筋肉もげるわよ!」
あたしが心配そうな表情を浮かべているのを流石に少しは気にしたのか。
アーキスは自信満々に口角をあげて〝問題ない〟ことを示してくれる。
「安心しろ。万一にもオレ様が落ちることはねえさ」
彼はそのまま、見せつけるように両手を空に挙げてポージングをしてくれた。
「見やがれ、オレ様の上腕二頭筋を。そんじょそこらと鍛え方が違えんだよ。こんな壁登りくらい、あと百回やったって――」
「……あ」
「んあ?」
ふたりで目を合わせて気がついた。
アーキスが筋肉を見せびらかすべく取ったポージングのために。
彼は塔の壁面から、両手を離したことを。
「「…………」」
そしてそのままアーキスは。
重力に従って――
「落ちたーーーーーーーーーーーーーーー!」
シショーの待ち受ける地面へと、真っ逆さまに落ちていった。




