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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

響け、さようなら! 響け、おはよう!

作者: 平野十一郎

※この物語に出てくる楽曲は、全て架空のものです

「あっ!やばっ!」


 拓馬(たくま)は枕もとの目覚まし時計を左手で掴み、時刻を見て、明るい色の木製のセミダブルベッドから飛び起きた。


 目覚ましは確かに鳴ったはずなのに、いつの間にか寝ぼけて止めていたようだ。

 拓馬は短い黒髪を、(あせ)りで()く。


 カーテンが半開きになった窓から、朝日が差し込んでいる。


 拓馬(たくま)は、右隣で裸で眠っている、幼馴染で恋人の(みどり)を揺り起こす。

 昨晩は、拓馬の両親が留守だったため、拓馬の部屋で翠と過ごしていたのだ。


(みどり)、起きて!朝練!」

「……ん~、眠い」


 翠はベッドに寝ころんだまま、ずり落ちた真っ白い掛け布団を、肩まで掛けなおす。


「翠、起きてってば!

 間に合わなくなる!」


 目覚まし時計を左手に持ち、拓馬は右手で翠の肩を揺さぶる。

 翠は(まぶた)をようやく重たげに開けた。


 拓馬は、手に持っていた目覚まし時計を、枕もとの定位置に雑に置く。

 ベッドから跳ね下り、シャツを乱暴に手に取る。


 寝ぼけ眼の翠が、布団を除けて、白い肌の裸を(さら)しながら、のっそりと起き上がった。

 ボリュームのある長い黒髪が、寝癖で四方八方に広がっている。

 制服のズボンを履いていた拓馬が翠を見ると、全く焦りを感じていないのか、長閑(のどか)な動きで、ベッドの隣に落ちていた下着を拾って着けていた。


(たく)ちゃん。私の制服、どこ~?」


 拓馬は、自分の制服を急いで着ながら、ドアの上枠に木製のハンガーで吊るしてあった翠の制服を、掛けていたハンガーごと渡す。

 翠は、ハンガーごと制服を受け取り、制服からハンガーを取ろうとするも、なかなかうまく抜けず四苦八苦していた。


「貸して!」


 拓馬は、ハンガーが絡まった翠の制服をひったくり、ハンガーを抜いて、制服を再度、翠に渡す。

 それを両手で受け取る翠。

 急ぎだというのに、えらくのんびりと制服を着る翠を横目に、拓馬は廊下に置いてあった、自分の鞄と翠の鞄を片手ずつに持って来た。


「行くよ!」

「髪、ぼさぼさ~」


 制服を着終わり、手櫛(てぐし)で髪を直そうとする翠の腕を取り、拓馬は玄関に向かう。

 ふたりは革靴を履き、玄関を駆け抜ける。


 初夏の朝の日差しの中、バス停まで走る拓馬と翠。

 水色の空には入道雲が寝そべっていた。


 バス停が見えてくる。

 そこには、白い車体に、細い赤ラインが真横に走ったデザインの、いつものバスが停まっていた。


「待ってー!乗りまーす!」


 バスの運転手に見えるように、思いっきり手を振る拓馬。

 もう片方の手は、翠と繋いで。

 駆け足でバスに向かって。




 バスに乗り込み、後ろの方の二人掛けの座席に並んで座り、息をつく拓馬と翠。


「これなら、何とか間に合うな」


 翠は、鞄から(くし)と鏡を出し、鏡を見ながら櫛で髪の毛を()かしていた。

 他人事のように言う。


「危なかったね」


 拓馬が翠の頭を、軽く手刀で叩く。


「翠が起きなかったからでしょ」

「だって、拓ちゃんがなかなか寝かせてくれないから……」


 顔を赤くしながら翠が文句を言う。

 確かに、昨夜は拓馬も頑張りすぎたと思う。

 窓から流れる景色を見ながら、少しだけ反省する拓馬。


 ふたりは、高校の第2コーラス部に所属している。


 第2コーラス部。

 通称『派手(はで)ラス』


 オーソドックスに歌う、昔ながらの第1コーラス部と比べ、とにかく速いテンポでド派手に歌う第2コーラス部。

 二年前、拓馬たちが一年生の時に、担任の鈴木先生が顧問となって創り上げた、新しい部。

 その派手さが受けたためか、第1コーラス部よりもずっと部員が多く、30人ほどが所属している。

 我が校の軽音部はバラード好きなため、軽音部よりもはるかに歌が派手なのだ。


 三年生となった拓馬が、今はリードだった。

 リード。つまりメインで歌うボーカルである。

 派手ラスには四人のリードがいて、拓馬はその内の一人だった。


 派手ラスの朝練は、リードである拓馬が居ないと始まらない。

 責任重大なのだ。

 それなのに、こんなにギリギリになってしまうなんて……


「ああ、部のみんなには何て言い訳しよう」

「昨夜は遅くまでしてました、って言えばいいじゃん」

「言えるか」


 またもや拓馬が翠の頭を、軽く手刀で叩く。

 翠が不服そうに、叩かれた場所を片手で押さえる。

 ちなみに、翠も派手ラス部員で、パートはファーストのコーラスの内の一人だ。

 コーラスは、簡単に言うとBGM担当。

 派手ラスには、コーラスがファーストからサードまであり、それぞれ数人が割り振られている。


「だいじょうぶだよ~。

 鈴木先生なら、怒らないって。

 むしろ、喜んで話を聞きそう」

「あー、それは確かにありそうだ」


 顧問の男性教諭の鈴木先生。

 彼は、ひょろりとした細い体に地味なスーツを着て、丸眼鏡をつけた頭はバーコード。

 拓馬たちが一年生からの、半ば腐れ縁。

 一年生の頃から、三年生になった今まで、三年間ずっと担任でもあった。


 彼は、とにかく青春物の話が大好きなのだ。

 今日、拓馬たちが遅れた理由なぞ耳に入ろうものならば、興味津々で根掘(ねほ)葉掘(はほ)り聞きだしまくるに違いない。

 そして、他の部員と一緒に盛り上がるのだ。セクハラにも程がある。


 第2コーラス部こと、派手ラスを創ったのも、彼だ。

 鈴木先生は、地味な本人からは想像があまりできないが、とにかく派手好き。


 本人曰く、観客の心を掴むには、派手じゃなくてはいけません。とのこと。


 実際に、派手ラスは一昨年(おととし)の文化祭で華々しく歌を披露し、それからは我が校の名物ともなっていた。

 名物というよりも、珍獣扱いみたいなものだろうけれど。







 学校に到着した拓馬と翠は、視聴覚室(しちょうかくしつ)の重いドアを開ける。

 音楽室は、他の音楽系の部が使用しているため、第2コーラス部は視聴覚室で練習をしているのだ。


 中に入ると、ドアのすぐ近くにいた、長めの茶髪の男子生徒が文句を言う。


 派手ラスの部長だ。


 ちなみに部長は、三人いるボイスパーカッションの一人。

 ボイスパーカッションは、口でドラムのような音を出す役割である。

 略して『ボイパ』。


「遅いぞ、拓馬」

「セーフでしょ!ギリギリセーフ!」

「お前はリードなんだから、少し早めに来て多めに練習しなきゃダメだろ」


 部長は、軽そうな風貌(ふうぼう)に反し、真面目(まじめ)な男である。

 前に聞いたところ、この長めの茶髪は、鈴木先生の指示らしい。

 派手ラスの部長なのだから、派手でないと。と言われた模様。


 ちなみに、(くだん)の鈴木先生は、分厚いカーテンが閉まった窓際で、いつも通りのバーコード頭に丸眼鏡を乗っけて、生徒たちを笑顔で眺めていた。


 派手ラスの歌う曲は、すべてオリジナル曲だ。

 鈴木先生と部長が作っている。

 そこに作曲のサポートとして、二年生と一年生が数名付いている。

 既存の曲を使うと、著作権などの問題で面倒なのだそうだ。

 部長は拓馬と同じ三年生なので、今年で卒業する。

 来年以降は、しばらくは制作済みの曲を使えばいいのだが、何年も同じ曲を歌うのもつまらない。

 そのため、曲作りに関しては、今から二年生や一年生にも(たずさわ)わって貰い、誰かが作詞や作曲の才能を開花することを期待しているのだ。


 部長が手を叩き、みんなの視線を集める。


「じゃあ、始めようか。

 もうそろそろ文化祭に向けての練習をしよう。

 文化祭で歌う曲は『(ひび)け、おはよう』にしようかと考えてるけど、みんなどうかな?」


 部のみんなは、部長の意見に賛同する。

 ちなみに『響け、おはよう』は、部長たちが作った、片思いの恋愛の曲。


 とある女子に恋焦がれている男子が、勇気を出して挨拶をする内容の歌詞だ。


 挨拶の声を出す前の、心の葛藤がよく描かれていた。

 ここで歌うのは、ただの挨拶の、おはよう、ではない。

 ありったけの愛を込めた、おはよう、だ。

 拓馬は、これは部長の実体験なのでは、と推測している。


 なお『響け、おはよう』は元々はゆっくりめのバラードだったのだが、鈴木先生がアップテンポのド派手な曲に変えてしまったのだ。

 派手ラスのみんなにも好評で、練習でよく歌っている。


 部のみんなが、パートごとに分かれて整列する。

 部長たちボイスパーカッション組が、マイクを手に前に出る。

 派手ラスでは、ボイパ組がリズムを制御するのだ。


 ボイパ組が、マイクを口元に持っていく。

 無音の状態から、まずドラムのようなパーカッションの音が鳴る。

 その一瞬後に、ファーストからサードまでの全コーラスが一斉に始まった。

 ベースも四人いる。四人のベースが、それぞれ別の音を出し、音が絡む。

 派手だ。ド派手だ。拓馬は音に圧倒される。


 そして、メインボーカルであるリードの拓馬は、息を大きく吸い込んだ。









 

「ぶはぁ~、疲れた~」


 練習後、視聴覚室の椅子にもたれかかり、ぐったりとする拓馬。

 何せ、今日は朝から全力ダッシュしてきたのだ。

 その直後に、リードでハイテンポの曲を何度も歌い、拓馬は疲労困憊(ひろうこんぱい)であった。

 そこに、同じリードの一人である、クラスメイトの女子、新庄(しんじょう)が声をかけた。


「自業自得でしょ、いやらしい」


 拓馬たちが今日、遅刻ギリギリだった理由を、どうやら翠から聞いているようだ。

 仕方ないではないか。健全な男子高生の、健全な欲だ。


「いやぁ、翠がかわいくって、つい……」

「バカップル」


 新庄は、顔を赤らめる。

 拓馬は、へらへらと笑う。


 ふと、何の気なしに拓馬はファーストコーラスのみんなに目を向けた。

 翠が、一年生の男子と仲良く話をしている。

 あの一年生は、歌が上手い。

 きっと二年生に上がる頃には、リードを任されるのではないかと拓馬は思っている。

 それにしても翠は、あの一年生の男子と仲が良さげだ。

 少しだけ嫉妬する。


 幼馴染だった翠。

 今では、恋人になった翠。

 幼い頃から一緒に育ったが、付き合い始めたのは中学三年生の夏頃から。

 もうあれから、三年も経つんだなぁと、拓馬は感慨深くなる。

 今日と同じように、水色の空に入道雲が寝そべっていた、あの日。

 ふたり並んで畦道(あぜみち)を下校していた時に、歩きながら告白をした。

 翠は、それを聞いた瞬間、動揺からか少しよろけていたのを思い出す。

 懐かしい思い出だ。


 翠は、話が終わったのか、一年生の男子に手を振り、こちらにやって来た。

 男子も翠に手を振っている。


「拓ちゃん、教室行こ」


 翠とはクラスも一緒のため、派手ラスの朝練終わりには、いつもふたりで教室に行っていた。

 今から何時間も勉強をするかと思うと、身体が(だる)い。

 だが、これも学生の宿命なのだ。

 勉強に恋愛。どちらも大事。

 拓馬は、重い身体を何とか持ち上げ、翠と一緒に自分の鞄を掴んだ。







 夏休みに入ると、文化祭へ向け、派手ラスの練習量は増した。

 我が校では、文化祭はほかの学校よりも比較的早めで、9月末の土日に行うのだ。


 文化祭の出し物を行うかどうかは、各クラスごとに任されている。

 特に三年生は、大学受験があるため、何もしないクラスもある。

 そのため文化祭は、一年生と二年生が主体となっていた。

 拓馬たちも、文化祭が終わると受験が待っているため、夏休み中も勉強はおろそかにできない。

 翠とのデートも、どうしても少なくなっていくことに一抹の寂しさを感じていたが、それも文化祭が終わるまでと自分に言い聞かせていた。




 ある日。


 今日は、サードコーラスのみんなが、いつもの元気がないようだ。

 喧嘩(けんか)でもしたのだろうか。

 クラスメイトの新庄も、拓馬を心配そうに見ている。


 なぜか、拓馬を。


 サードコーラスのみんなではなく。


 拓馬は、自分が何かしてしまったかなと、自問自答をするが、思い当たる節はない。

 鈴木先生は今日は来ないため、相談もできない。


 午前の練習が終わり、休憩時間になると、新庄とサードのみんなが、拓馬の元にやってきた。

 サードの二年生の女子が、拓馬に声をかける。


「あの、拓馬先輩、今だいじょうぶですか?」

「ん?だいじょうぶだけど」


 新庄が、サードのみんなに目くばせをする。

 サードのみんなも、それに頷く。

 新庄が拓馬に促す。


「拓馬、ちょっとこっち来て」


 頭にクエスチョンマークが浮き上がりながらも、拓馬は新庄たちに付いていく。

 新庄たちと拓馬は、視聴覚室の重いドアを開け、廊下に出た。

 周囲に誰もいないことを確認する新庄。


「なんだよ、新庄。お前らも。

 何かあったの?」


 先ほど声をかけてきたサードコーラスの二年生の女子が、スマートフォンを取り出しながら言う。


「拓馬先輩。昨日、サードのみんなと練習してて……

 それで、その帰りに、これ、見ちゃって……」


 二年生の女子は、スマートフォンの画面を拓馬に見せる。


 そこには、翠と、ファーストの一年男子が手を繋いでラブホテルに入る姿。


 拓馬は、一瞬それが何だかわからなかった。

 その場所が何かも。

 写っているのが誰かも。


 脳が、止まる。


「拓馬」


 新庄の声に、ふと気づく。

 みんなが、心配そうな顔で拓馬を見ていた。


「あ、ああ、うん……」


 それしか言えなかった。

 何度画面を見ても、実感が湧かない。

 それが、ただの逃避だと分かっていても。


 拓馬の脳裏には、薄いピンク色のラブホテルの壁が映っていた。

 そこに入る、手の繋がれたふたり。

 ファーストコーラスの一年生の男子と。

 翠。


 それを認識した途端、拓馬の胃は締め上げられたかのように、苦しみがせり上げてきた。


 拓馬は、口をおさえ、近くのトイレへ駆けこむ。

 個室の便器に縋り付き、水の中に、胃液を吐き出す。

 何度もえずいて、何度も嘔吐する。

 胃が痙攣(けいれん)して痛かった。

 でも、気持ち悪さは止まらない。

 気が遠くなるほど消耗して。

 誰かの足音が聞こえてきた。


 後ろを振り向くと、部長がいた。

 何とも言えない表情で。


「拓馬」


 部長は、呼びかける。

 トイレの床なのに、(ひざ)をつき拓馬の背を撫でてくれた。


「だいじょうぶか」


 拓馬は、何とか(うなず)く。

 決してだいじょうぶとは言えない、この(ざま)

 それでも、(うなず)きたかった。

 それは、胃が空っぽになったとしても、最後まで残った意地だった。


 拓馬は立ち上がる。

 途中で一度、(ひざ)が折れかけたが、部長が身体を支えてくれた。


 水道まで歩き、口をゆすぐ。

 鏡を見ると、ひどい顔だった。




 部長に支えてもらいながら、いつも以上に重い視聴覚室のドアを開けると、全部員が、翠と一年男子を壁際に追い詰めていた。

 中に入る拓馬。

 サードの二年女子が、拓馬に駆け寄った。


「拓馬先輩」


 部長と二年女子に支えられる拓馬。


 翠は、拓馬を見つけて、近づいてこようとする。


「拓ちゃん!」


 だが、新庄がそこに身体を(はさ)み、(さえぎ)る。

 思い切り、足を踏み込み。

 新庄は腕を組み、仁王立ちをしている。


「アンタ、まだ拓馬の彼女面しようとしてんの?」


 拓馬と翠の間に、自らの身体で壁を作る新庄。


 どうやら、事の経緯は、全部員に知れ渡っているみたいだ。

 拓馬は、新庄の肩越しに翠を見る。


「翠。本当なのか」


 あの写真の事だ。


「拓ちゃん、その、ごめんなさい……」


 否定をしない翠。

 要するに、そういうことなのだ。


 拓馬は、何も言えなかった。

 言いたいことなら、山よりも高くあった。

 だけど、それを伝えられる言葉が無かった。


 だから拓馬は、その場から消えることを選ぶ。

 お前らの顔は見たくないと、全身で表すために。


 鞄の取っ手を掴み、重い視聴覚室のドアを開ける。

 だれも拓馬を、引き留めなかった。

 拓馬はひとり、夏休みの誰も居ない廊下を、早足で歩いて行った。




 その後、拓馬は翠と、スマートフォンのチャットで最後の会話をした。

 ごめんなさい、から始まり、さようなら、で終わる会話を。


 少し前から、あの一年男子とはデキていたのだろう。


 翠は、拓馬と一緒にいることを選ばなかった。


 翠は、一年男子と共に、第2コーラス部を辞める道を選んだ。


 受験前だし丁度いいんじゃないか、などと当たり障りのない事を、無理矢理に考える。


 拓馬は自分の部屋で、セミダブルのベッドに倒れこむ。

 ベッドの掛け布団には、まだ翠の匂いがついていた。







 それでも、夏休みの練習は続く。

 ボロボロになって落ちた拓馬の心など、お構いなしに世の中は進むのだ。

 ファーストコーラスから翠たち二人が抜けたため、セカンドとサードから、一人ずつ補充していた。


 派手ラスが歌うのは、恋の歌。

 愛を込めた、おはようの歌。

 しかし、今の拓馬には、恋の歌なんて歌えなかった。


 ただ、からっぽの歌を喉から出していただけだった。


 練習が終わった後、拓馬は一人で視聴覚室に残っていた。

 たった一人で、椅子に座ってぼんやりしていた。


 拓馬は、リードから外してもらおうかと思っていた。

 いや、コーラスになったとしても、歌に熱が込められない。

 拓馬も、退部を考えていたのだ。


 そこに、視聴覚室の重い扉が開く。

 現れたのは、茶髪の部長。


「拓馬。まだいたのか」

「うん。ちょっと思うことがあってね」


 拓馬は、部長と顔が合わせられなかった。

 この時期に、メインボーカルであるリードの拓馬が退部するのは、派手ラス全体にも大きな影響を与える。

 退部することを、いつ言い出そうかと思案するばかり。


 部長は、拓馬の隣に座る。

 そして口を開く。


「僕な、新庄が好きなんだ」


 突然の告白。

 全く脈絡もない話に驚いて、つい部長の顔を見てしまう。

 部長は、拓馬の方は見ずに、淡々と続ける。


「『響け、おはよう』の歌詞は、一年の頃の僕なんだ。

 そっから今まで、ずっと片思い」


 なんとなく、あの歌は部長の実体験ではないかと、そんな気がしては居た。

 ただ、相手が新庄というのは全く予想できなかったが。


「拓馬。怒らないで聞いてくれ。

 僕は、お前が羨ましかったんだ。

 ちゃんと、好きな人と付き合えて。

 終わり方はこんな風になっちゃったけどさ。

 それでも、僕はお前が羨ましい」


 羨ましい。


 拓馬は、それを聞いて、ぽつりと怒りが湧いた。

 羨ましいだと。

 愛していた女を寝取られた、俺の事が。


「お前、ふざけてんのか。

 俺の気持ちが、分かるかよ」


 口から、黒い言葉が勝手に出てきて止まらなかった。

 部長は何一つ悪くないのに。

 やつあたりだ。

 だが、それでも部長は続ける。


「ああ、わからん。

 何せ、両想いになったこと無いからな。

 だから、教えてくれ。

 今の翠さんは嫌いでも、過去の翠さんは好きだったんだろ?」


 今の翠と、過去の翠。

 今の翠は他の男の胸の中だとしても。

 確かに、過去の翠は拓馬と愛し合っていた時もあった。


 だが、それで憎しみが消えるわけじゃない。

 一年男子への嫉妬が、拓馬の胸を焦がす。

 部長は続ける。


「僕は、思い出っていうのが、すごく大事だと思っている。

 思い出がある拓馬が、羨ましい」


 思い出。


 翠との思い出。


 翠との思い出は、確かにあった。


 歩きながら告白して、受け入れてくれたこと。

 放課後の教室で初めてキスをした時のこと。

 拓馬の部屋のセミダブルのベッドで、初めて身体を重ねたこと。


 思い出だけを抽出することができれば、どれも美しい過去ばかり。


 その美しい過去もまた、拓馬の心を傷つける。

 あんなに幸せだったのに、と。


「拓馬。ぜひ考えてみてくれ。

 いい思い出だけを、歌に込められないか」


 ずいぶんと勝手なことを言ってくれる。

 拓馬は鞄を引っ掴み、重いドアを開ける。

 退部の意思を伝えるのは、(いら)つきすぎて忘れていた。


 拓馬は力いっぱいドアを閉める。

 閉まり切る前の隙間から見えたのは、いつもの飄々(ひょうひょう)とした部長ではなく、恋をするひとりの男の顔だった。







 拓馬は、セミダブルのベッドに寝ころびながら、スマートフォンで、ひたすら浮気や不倫の情報を検索していた。

 色々な形の恋愛模様が、そこにはあった。


 寝取ることも、寝取られることも。

 完全に決別する結果もあれば、元鞘(もとさや)に戻る結果も。

 制裁する場合もあれば、制裁しない場合も。


 拓馬は、自分はどのタイプなのかと模索した。

 恨みや怒りは、間違いなく残っている。

 元鞘には、絶対に戻れないだろう。

 でも、制裁したいかと言われれば、わからない。

 少しは、痛い目に合わせたいという気持ちはあったが。


 望む結末は、人それぞれなのだろう。

 拓馬は、拓馬なりの結論を出せばいいのか。

 そこに、他人の意見を挟む必要はないのだろうか。

 自分が納得さえすれば、それでいいのだろうか。

 わからない。


 翠の事を考えてみる。

 幼馴染の翠。

 初めての恋人の翠。

 裏切った翠。

 裏切り者。


 しかし、ネット上で数多くの修羅場の話に触れ、ある程度は冷静に考えられるようにはなっていた。

 この世の中で、愛する人から裏切られたのは、拓馬だけではない。

 それどころか、むしろ割とよくある話。


 裏切られたとは言っても、所詮(しょせん)それは、別れ話の形のひとつに過ぎない。

 極論を言うと、拓馬は翠に、ただ振られただけなのだ。


 人の出会いの数だけ、別れもある。

 また、別れの数だけ、出会いもある。


 翠とは元鞘に戻れないと確信した以上、翠への恨みばかりを想っても仕方ないだろう。

 部長が言っていた、いい思い出だけを残すことができれば、それでいいのではないか。


 翠の事は、いい思い出だけを残して、またどこかで新しい恋に歩み出せれば、いいのではないか。


 しかし、そんなに器用なことが拓馬にできるのか。

 未だ翠には、愛と憎しみが混ざったままだ。


 だけれど、先ほどまで考えていた、退部するという意思は薄れていた。

 その代わりに頭を占めていたのは、過去の綺麗な思い出だけを取り出して、歌にできないか。


 できるかどうかはわからない。

 できない可能性の方が高い。

 でも、やるだけやってみようと思う。


 拓馬は、セミダブルのベッドに寝ころびながら、白い天井を眺めた。

 そして、自分自身の心に語り掛ける。

 憎しみを忘れることはできないけれど。

 愛だけを取り出して言葉にすることができるのかと。

 ひたすらに、心に語り掛けていた。

 翠の匂いがかすかに残る、セミダブルのベッドで。







 その次の第2コーラス部の練習の日。


 拓馬は、誰よりも早く視聴覚室に来ていた。

 ストレッチで身体をほぐし、呼吸法の反復練習をした。


 視聴覚室のドアが開く。

 顔を覗かせたのは、同じクラスの女子、新庄だった。

 拓馬はストレッチをしながら、挨拶をした。


「おはよう」

「お、おはよ……」

 その、もう大丈夫なの?」

「大丈夫かどうかは、まだ分からない。

 やるだけやってみるよ」


 新庄の後ろから、続々と他の部員が集まって来る。

 みんな、拓馬の様子を伺っている様だ。

 部長もやってきた。

 部長は、新庄に「おはよう」と挨拶を交わす。


 部長の、新庄への『おはよう』には、きっと色んな気持ちが詰め込まれているのだろう。


 部長が作った、愛の歌。

 『響け、おはよう』


 拓馬は、自分の過去に思いを馳せる。

 まだ翠と付き合う前。

 (ほの)かな恋心だけを持っていた頃。

 翠に「おはよう」と言うときは、どんな自分であったか。

 緊張と喜びが混ざったような、あの気持ち。


 きっと今なら、歌に乗せられるかもしれない。


 マイクを持った部長がみんなに声をかける。


「それじゃあ、始めよう」


 部長たちのボイスパーカッションから始まり。

 その一瞬後、全員のパワフルなコーラスが。

 気を抜くと、コーラスに飲まれる。

 なんという力。

 だが、そこに込められた想いは、片思いの喜び。

 (みなぎ)るパワーと、悲しみにも似た切なさが、混ざった喜び。


 拓馬は、マイクを右手に持ち、思い出す。

 まだ中学生の頃、片思いの翠に挨拶を交わした、あの喜びを。


 そして、マイクを口元で構え。




 拓馬は、歌う。




 心の中にある、全ての愛情で。


 翠との思い出の、全ての喜びで。


 身体の中の、全ての情熱で。


 その声はまるで、衝撃波のように、視聴覚室に響く。


 ここにいる全員が放つ音すら、吹き飛ばしそうなほど。




(拓馬、すごっ……)


 同じリードである新庄は、共に歌う拓馬の力に押されていた。

 腕に鳥肌が立つ。

 拓馬のポテンシャルが、ここまでとは思っていなかった。

 歌は、自分の方が上手いとも自負していた。

 事実、純粋な上手さならば、今も新庄の方が上だろう。

 だが、歌に込められた熱だけは。

 これだけは、技術の問題ではない。

 新庄は、自分に無いものを得た、拓馬に嫉妬する。


 拓馬は、その時だけは間違いなく、全ての音を圧倒していた。

 コーラスも、ボイパも、ベースも、何もかもを巻き込んで。

 全員の声を巻き込んで空に飛ばす、竜巻のよう。


 そして、ラストの一番の盛り上がり。


 最後の一声に、


 拓馬は、思い出の中の翠に、全力の愛を注いだ。


 笑顔の翠に。




 おはよう!




 歌い終わったとき、拓馬の心の中には、あの水色の空だけが果てしなく続いていた。







 夏休みも終わり、時は過ぎ。

 やってきた9月末の文化祭。


 校庭には、焼きそばや、じゃがバターを売る生徒たち。

 校舎の中の教室では、メイド執事カフェをやっているクラスもあった。


 そして。


 第2コーラス部。通称『派手ラス』


 彼らは今、体育館の舞台裏で、出し物として歌う準備をしていた。

 歌うのは、体育館のステージ。

 出番までは、あとちょうど一時間ほど。

 部員のみんなは、ストレッチをしたり、発声練習をしたり。


 顧問の鈴木先生が、丸眼鏡を輝かせながら、とことこやってきた。

 その手には、何やら怪しげな、真っ赤なスプレー缶。


「拓馬君。拓馬君。

 髪、赤くしちゃいましょう。

 その方が派手でいいです」


 どうやらそれは、一日だけ髪の毛を染めるスプレーのようだ。

 黒髪短髪の拓馬。

 確かに、決して派手なタイプではなかったが……

 すると、サードの二年の女子が、拓馬の袖を引いた。


「拓馬先輩。

 やっちゃいましょう。

 せっかくの文化祭なんですから」


 その二年の女子に、半ば強引にパイプ椅子に座らせられる。

 塗料が服に飛び散らないように、ビニールのポンチョを着せられて。

 そして、鈴木先生は一切の躊躇(ちゅうちょ)なく、拓馬の頭にスプレーを吹きかけまくった。


 差し込む照明が、鈴木先生の眼鏡と、バーコード頭を輝かせる。

 なすがまま、頭がどんどん赤くなる拓馬。


(鈴木先生、楽しそうだな)


 この地味な先生は、本当に派手好きだ。

 でも今は、派手ラスに入れて、良かったと思う。

 一年部員に彼女を寝取られるという大事件もあったが、それからは逆に、部員たちの結束は益々強まった。


 きっと、派手ラスに入らなくても、翠はどこかで浮気しただろうから、それは別に派手ラスに入ったせいじゃない。


 拓馬自身も、夏休みの途中から、ずいぶんと変わったと思う。

 もし派手ラスで、自分を見つめなおさなければ、翠の寝取られの悲しみを、受け止めきれなかっただろう。

 部長にも感謝だ。


「先輩、できましたっ!」


 鏡を見ると、短い髪が真っ赤になっている。

 もうちょっと暗い赤かと思っていたら、まるでトマトのように真っ赤だ。

 感想を述べる拓馬。


「は、派手だな……」


 (うなず)く鈴木先生。


「やっぱり、こうじゃなくては、つまらないです。

 派手に行きましょうね」


 今はもう、あと数分で出番だ。

 お客さんもぞくぞくと体育館に入ってきている。


 派手ラスのみんなは、円陣を組んだ。

 茶髪の部長が、お客に聞こえない程度のボリュームの、小声で叫ぶ。


「派手に、やるぞ」


 みんなで、おう、と(こた)える。


 もうすぐスタンバイだ。

 緊張する拓馬。

 そこに、鈴木先生が(ささや)いてきた。


「拓馬君。いい恋でしたか?」


 拓馬は答える。


「もちろん!」







 ステージの後方に並ぶ派手ラスのみんな。

 お客さんから見て、左側から順に、ベース、ファースト、セカンド、サード、ボイパの順に並ぶ。

 メインボーカルである、リードの四人は、ステージの前方で、みんなの前に立つ。


 思った以上に、お客さんが沢山入っていた。


 客席からは「すげぇ、髪、真っ赤!」という声も聞こえてくる。


 そして、放送部員が、スピーカーから紹介する。


「第2コーラス部。通称、派手ラス。曲は、『響け、おはよう』」


 客席の所々から、笑い声が聞こえてくる。

 もはや珍獣扱いで名物となった派手ラス。

 面白可笑(おもしろおか)しく話題にしてくれるなら、むしろ本望だ。




 部長らボイパ組が、口元にマイクを構える。

 時間だ。

 あとは、楽しむだけだ。

 拓馬の口元は、いつの間にか笑っていた。


(さあ、ド派手に行こうか)


 ボイパが鳴る。

 そして、一瞬の後、拓馬の背後から、凄まじいコーラスの波が押し寄せる。

 拓馬も、右手で持ったマイクを、口元に構える。


 息を吸い、




 拓馬は、声を放つ。




 その声は、熱と共に、体育館に響き渡る。


 それはまるで、灼熱の衝撃波。


 観客たちも、熱と風を感じる。




 その歌は、片思いの恋の歌。

 話しかけたくても、恋が邪魔をして話しかけられない。

 自分の不甲斐なさが悔しい。

 でも、勇気を出して言うのだ。

 「おはよう」と。


 拓馬は、翠に想いを()せる。


 中学時代、翠に恋をしていた拓馬。


 告白して、OKを貰って喜んだ。


 初めてのキスをしたときは、手の震えが止まらなかった。


 初めて身体を繋いだ時は、幸せでいっぱいだった。


 ありがとう、翠。


 思い出をくれて。


 君は、俺にひどい裏切りをしたけれど。


 それでも、思い出だけは、確かに残っているんだ。


 この思い出を胸に、俺はまた前に進む。


 きっと、新しい恋に向かって。




 ステージの上からは、意外にも観客たちの顔がよく見える。

 誰もが、楽しんでくれているようだ。

 そして、一番奥の方。

 入り口の、すぐ隣の壁の所には。


 翠と、一年の男子が。


 それもまた、よく見えた。




 拓馬は歌う。


 声を風に乗せて。


 情熱を帯びた熱波のように。




 第2コーラス部全員の声が、体育館を揺らす。


 声の竜巻の如く。


 観客たちをも巻き込んで。




 歌も終盤にさしかかるころ。


 拓馬は、遥か後方にいる翠に、想いを込めた。


 人生の多くを一緒に過ごした恋人に。




(翠!さようなら!)




 響け、さようなら!


 響け、俺の声!


 二度と交わることのない恋人の元へ!




 恋は散り、またいつかどこかで花が咲く。


 新しい恋を願って、拓馬は最後の一声を上げた。


 全身全霊の愛を込めて。







 おはよう!










 文化祭での公演は、大成功と言ってよかった。

 やはり、派手にやってよかった。

 派手ラスに入って、本当によかった。


 これで三年生は引退。

 これからは受験勉強へと戦場を移す。

 三年生のみんなは、後輩から小さなブーケを渡された。

 拓馬に青色のブーケを渡したのは、あの翠の浮気を知らせてくれた、サードの二年生の女子だった。




 拓馬は、ひとり校舎の屋上へと上がる。

 青いブーケを片手に。


 夕日も沈みかけ、夜になろうとする頃合い。

 ふと体育館の横をみると、そこには部長と新庄のふたりが。

 ふたりは、何やら話した後、抱き合った。


(おお。おめでとう、部長)


 これからあのふたりが、どのように愛し合っていくのか。

 それは、あのふたりだけが知っていればいいこと。


 どこかで恋が終われば、またどこかで恋が始まるものだ。


 自分もまた、だれかと巡り会うのだろう。


 その時までは、別の方法で人生を楽しんでいればいい。


 拓馬はひとり、『響け、おはよう』を口ずさむ。


 恋する相手に、愛を込めて「おはよう」を言う歌。




 すると、屋上の入り口から誰かが入ってきたようだ。


 拓馬は振り向くと、そこには、サードコーラスの二年生の女子。


 拓馬に青いブーケを渡した、あの女の子。


 その女の子は、赤く染まった決意の表情で、拓馬に歩み寄る。


 そして、その声が屋上に響いた。







 拓馬先輩!







 おはよう!









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― 新着の感想 ―
[一言] 不義理共にけじめつけさせな
[一言] 読んでて最後に凄く爽やかな気分になりました。 前を向いて進む主人公に拍手でしたよ。 しかし…………幼馴染は何を考えて浮気をしたんだか……ちょっとした刺激を求めてなのかなんなのかは知りませ…
[良い点] 主人公が前向きであること 歌うことが主人公の前向きさに貢献していること [気になる点] 間男1年生はよくもまあ発表の場に同伴できたなあ 翠が発表の場のパフォーマンス観て 後悔して欲しかっ…
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