響け、さようなら! 響け、おはよう!
※この物語に出てくる楽曲は、全て架空のものです
「あっ!やばっ!」
拓馬は枕もとの目覚まし時計を左手で掴み、時刻を見て、明るい色の木製のセミダブルベッドから飛び起きた。
目覚ましは確かに鳴ったはずなのに、いつの間にか寝ぼけて止めていたようだ。
拓馬は短い黒髪を、焦りで掻く。
カーテンが半開きになった窓から、朝日が差し込んでいる。
拓馬は、右隣で裸で眠っている、幼馴染で恋人の翠を揺り起こす。
昨晩は、拓馬の両親が留守だったため、拓馬の部屋で翠と過ごしていたのだ。
「翠、起きて!朝練!」
「……ん~、眠い」
翠はベッドに寝ころんだまま、ずり落ちた真っ白い掛け布団を、肩まで掛けなおす。
「翠、起きてってば!
間に合わなくなる!」
目覚まし時計を左手に持ち、拓馬は右手で翠の肩を揺さぶる。
翠は瞼をようやく重たげに開けた。
拓馬は、手に持っていた目覚まし時計を、枕もとの定位置に雑に置く。
ベッドから跳ね下り、シャツを乱暴に手に取る。
寝ぼけ眼の翠が、布団を除けて、白い肌の裸を晒しながら、のっそりと起き上がった。
ボリュームのある長い黒髪が、寝癖で四方八方に広がっている。
制服のズボンを履いていた拓馬が翠を見ると、全く焦りを感じていないのか、長閑な動きで、ベッドの隣に落ちていた下着を拾って着けていた。
「拓ちゃん。私の制服、どこ~?」
拓馬は、自分の制服を急いで着ながら、ドアの上枠に木製のハンガーで吊るしてあった翠の制服を、掛けていたハンガーごと渡す。
翠は、ハンガーごと制服を受け取り、制服からハンガーを取ろうとするも、なかなかうまく抜けず四苦八苦していた。
「貸して!」
拓馬は、ハンガーが絡まった翠の制服をひったくり、ハンガーを抜いて、制服を再度、翠に渡す。
それを両手で受け取る翠。
急ぎだというのに、えらくのんびりと制服を着る翠を横目に、拓馬は廊下に置いてあった、自分の鞄と翠の鞄を片手ずつに持って来た。
「行くよ!」
「髪、ぼさぼさ~」
制服を着終わり、手櫛で髪を直そうとする翠の腕を取り、拓馬は玄関に向かう。
ふたりは革靴を履き、玄関を駆け抜ける。
初夏の朝の日差しの中、バス停まで走る拓馬と翠。
水色の空には入道雲が寝そべっていた。
バス停が見えてくる。
そこには、白い車体に、細い赤ラインが真横に走ったデザインの、いつものバスが停まっていた。
「待ってー!乗りまーす!」
バスの運転手に見えるように、思いっきり手を振る拓馬。
もう片方の手は、翠と繋いで。
駆け足でバスに向かって。
バスに乗り込み、後ろの方の二人掛けの座席に並んで座り、息をつく拓馬と翠。
「これなら、何とか間に合うな」
翠は、鞄から櫛と鏡を出し、鏡を見ながら櫛で髪の毛を梳かしていた。
他人事のように言う。
「危なかったね」
拓馬が翠の頭を、軽く手刀で叩く。
「翠が起きなかったからでしょ」
「だって、拓ちゃんがなかなか寝かせてくれないから……」
顔を赤くしながら翠が文句を言う。
確かに、昨夜は拓馬も頑張りすぎたと思う。
窓から流れる景色を見ながら、少しだけ反省する拓馬。
ふたりは、高校の第2コーラス部に所属している。
第2コーラス部。
通称『派手ラス』
オーソドックスに歌う、昔ながらの第1コーラス部と比べ、とにかく速いテンポでド派手に歌う第2コーラス部。
二年前、拓馬たちが一年生の時に、担任の鈴木先生が顧問となって創り上げた、新しい部。
その派手さが受けたためか、第1コーラス部よりもずっと部員が多く、30人ほどが所属している。
我が校の軽音部はバラード好きなため、軽音部よりもはるかに歌が派手なのだ。
三年生となった拓馬が、今はリードだった。
リード。つまりメインで歌うボーカルである。
派手ラスには四人のリードがいて、拓馬はその内の一人だった。
派手ラスの朝練は、リードである拓馬が居ないと始まらない。
責任重大なのだ。
それなのに、こんなにギリギリになってしまうなんて……
「ああ、部のみんなには何て言い訳しよう」
「昨夜は遅くまでしてました、って言えばいいじゃん」
「言えるか」
またもや拓馬が翠の頭を、軽く手刀で叩く。
翠が不服そうに、叩かれた場所を片手で押さえる。
ちなみに、翠も派手ラス部員で、パートはファーストのコーラスの内の一人だ。
コーラスは、簡単に言うとBGM担当。
派手ラスには、コーラスがファーストからサードまであり、それぞれ数人が割り振られている。
「だいじょうぶだよ~。
鈴木先生なら、怒らないって。
むしろ、喜んで話を聞きそう」
「あー、それは確かにありそうだ」
顧問の男性教諭の鈴木先生。
彼は、ひょろりとした細い体に地味なスーツを着て、丸眼鏡をつけた頭はバーコード。
拓馬たちが一年生からの、半ば腐れ縁。
一年生の頃から、三年生になった今まで、三年間ずっと担任でもあった。
彼は、とにかく青春物の話が大好きなのだ。
今日、拓馬たちが遅れた理由なぞ耳に入ろうものならば、興味津々で根掘り葉掘り聞きだしまくるに違いない。
そして、他の部員と一緒に盛り上がるのだ。セクハラにも程がある。
第2コーラス部こと、派手ラスを創ったのも、彼だ。
鈴木先生は、地味な本人からは想像があまりできないが、とにかく派手好き。
本人曰く、観客の心を掴むには、派手じゃなくてはいけません。とのこと。
実際に、派手ラスは一昨年の文化祭で華々しく歌を披露し、それからは我が校の名物ともなっていた。
名物というよりも、珍獣扱いみたいなものだろうけれど。
学校に到着した拓馬と翠は、視聴覚室の重いドアを開ける。
音楽室は、他の音楽系の部が使用しているため、第2コーラス部は視聴覚室で練習をしているのだ。
中に入ると、ドアのすぐ近くにいた、長めの茶髪の男子生徒が文句を言う。
派手ラスの部長だ。
ちなみに部長は、三人いるボイスパーカッションの一人。
ボイスパーカッションは、口でドラムのような音を出す役割である。
略して『ボイパ』。
「遅いぞ、拓馬」
「セーフでしょ!ギリギリセーフ!」
「お前はリードなんだから、少し早めに来て多めに練習しなきゃダメだろ」
部長は、軽そうな風貌に反し、真面目な男である。
前に聞いたところ、この長めの茶髪は、鈴木先生の指示らしい。
派手ラスの部長なのだから、派手でないと。と言われた模様。
ちなみに、件の鈴木先生は、分厚いカーテンが閉まった窓際で、いつも通りのバーコード頭に丸眼鏡を乗っけて、生徒たちを笑顔で眺めていた。
派手ラスの歌う曲は、すべてオリジナル曲だ。
鈴木先生と部長が作っている。
そこに作曲のサポートとして、二年生と一年生が数名付いている。
既存の曲を使うと、著作権などの問題で面倒なのだそうだ。
部長は拓馬と同じ三年生なので、今年で卒業する。
来年以降は、しばらくは制作済みの曲を使えばいいのだが、何年も同じ曲を歌うのもつまらない。
そのため、曲作りに関しては、今から二年生や一年生にも携わって貰い、誰かが作詞や作曲の才能を開花することを期待しているのだ。
部長が手を叩き、みんなの視線を集める。
「じゃあ、始めようか。
もうそろそろ文化祭に向けての練習をしよう。
文化祭で歌う曲は『響け、おはよう』にしようかと考えてるけど、みんなどうかな?」
部のみんなは、部長の意見に賛同する。
ちなみに『響け、おはよう』は、部長たちが作った、片思いの恋愛の曲。
とある女子に恋焦がれている男子が、勇気を出して挨拶をする内容の歌詞だ。
挨拶の声を出す前の、心の葛藤がよく描かれていた。
ここで歌うのは、ただの挨拶の、おはよう、ではない。
ありったけの愛を込めた、おはよう、だ。
拓馬は、これは部長の実体験なのでは、と推測している。
なお『響け、おはよう』は元々はゆっくりめのバラードだったのだが、鈴木先生がアップテンポのド派手な曲に変えてしまったのだ。
派手ラスのみんなにも好評で、練習でよく歌っている。
部のみんなが、パートごとに分かれて整列する。
部長たちボイスパーカッション組が、マイクを手に前に出る。
派手ラスでは、ボイパ組がリズムを制御するのだ。
ボイパ組が、マイクを口元に持っていく。
無音の状態から、まずドラムのようなパーカッションの音が鳴る。
その一瞬後に、ファーストからサードまでの全コーラスが一斉に始まった。
ベースも四人いる。四人のベースが、それぞれ別の音を出し、音が絡む。
派手だ。ド派手だ。拓馬は音に圧倒される。
そして、メインボーカルであるリードの拓馬は、息を大きく吸い込んだ。
「ぶはぁ~、疲れた~」
練習後、視聴覚室の椅子にもたれかかり、ぐったりとする拓馬。
何せ、今日は朝から全力ダッシュしてきたのだ。
その直後に、リードでハイテンポの曲を何度も歌い、拓馬は疲労困憊であった。
そこに、同じリードの一人である、クラスメイトの女子、新庄が声をかけた。
「自業自得でしょ、いやらしい」
拓馬たちが今日、遅刻ギリギリだった理由を、どうやら翠から聞いているようだ。
仕方ないではないか。健全な男子高生の、健全な欲だ。
「いやぁ、翠がかわいくって、つい……」
「バカップル」
新庄は、顔を赤らめる。
拓馬は、へらへらと笑う。
ふと、何の気なしに拓馬はファーストコーラスのみんなに目を向けた。
翠が、一年生の男子と仲良く話をしている。
あの一年生は、歌が上手い。
きっと二年生に上がる頃には、リードを任されるのではないかと拓馬は思っている。
それにしても翠は、あの一年生の男子と仲が良さげだ。
少しだけ嫉妬する。
幼馴染だった翠。
今では、恋人になった翠。
幼い頃から一緒に育ったが、付き合い始めたのは中学三年生の夏頃から。
もうあれから、三年も経つんだなぁと、拓馬は感慨深くなる。
今日と同じように、水色の空に入道雲が寝そべっていた、あの日。
ふたり並んで畦道を下校していた時に、歩きながら告白をした。
翠は、それを聞いた瞬間、動揺からか少しよろけていたのを思い出す。
懐かしい思い出だ。
翠は、話が終わったのか、一年生の男子に手を振り、こちらにやって来た。
男子も翠に手を振っている。
「拓ちゃん、教室行こ」
翠とはクラスも一緒のため、派手ラスの朝練終わりには、いつもふたりで教室に行っていた。
今から何時間も勉強をするかと思うと、身体が怠い。
だが、これも学生の宿命なのだ。
勉強に恋愛。どちらも大事。
拓馬は、重い身体を何とか持ち上げ、翠と一緒に自分の鞄を掴んだ。
夏休みに入ると、文化祭へ向け、派手ラスの練習量は増した。
我が校では、文化祭はほかの学校よりも比較的早めで、9月末の土日に行うのだ。
文化祭の出し物を行うかどうかは、各クラスごとに任されている。
特に三年生は、大学受験があるため、何もしないクラスもある。
そのため文化祭は、一年生と二年生が主体となっていた。
拓馬たちも、文化祭が終わると受験が待っているため、夏休み中も勉強はおろそかにできない。
翠とのデートも、どうしても少なくなっていくことに一抹の寂しさを感じていたが、それも文化祭が終わるまでと自分に言い聞かせていた。
ある日。
今日は、サードコーラスのみんなが、いつもの元気がないようだ。
喧嘩でもしたのだろうか。
クラスメイトの新庄も、拓馬を心配そうに見ている。
なぜか、拓馬を。
サードコーラスのみんなではなく。
拓馬は、自分が何かしてしまったかなと、自問自答をするが、思い当たる節はない。
鈴木先生は今日は来ないため、相談もできない。
午前の練習が終わり、休憩時間になると、新庄とサードのみんなが、拓馬の元にやってきた。
サードの二年生の女子が、拓馬に声をかける。
「あの、拓馬先輩、今だいじょうぶですか?」
「ん?だいじょうぶだけど」
新庄が、サードのみんなに目くばせをする。
サードのみんなも、それに頷く。
新庄が拓馬に促す。
「拓馬、ちょっとこっち来て」
頭にクエスチョンマークが浮き上がりながらも、拓馬は新庄たちに付いていく。
新庄たちと拓馬は、視聴覚室の重いドアを開け、廊下に出た。
周囲に誰もいないことを確認する新庄。
「なんだよ、新庄。お前らも。
何かあったの?」
先ほど声をかけてきたサードコーラスの二年生の女子が、スマートフォンを取り出しながら言う。
「拓馬先輩。昨日、サードのみんなと練習してて……
それで、その帰りに、これ、見ちゃって……」
二年生の女子は、スマートフォンの画面を拓馬に見せる。
そこには、翠と、ファーストの一年男子が手を繋いでラブホテルに入る姿。
拓馬は、一瞬それが何だかわからなかった。
その場所が何かも。
写っているのが誰かも。
脳が、止まる。
「拓馬」
新庄の声に、ふと気づく。
みんなが、心配そうな顔で拓馬を見ていた。
「あ、ああ、うん……」
それしか言えなかった。
何度画面を見ても、実感が湧かない。
それが、ただの逃避だと分かっていても。
拓馬の脳裏には、薄いピンク色のラブホテルの壁が映っていた。
そこに入る、手の繋がれたふたり。
ファーストコーラスの一年生の男子と。
翠。
それを認識した途端、拓馬の胃は締め上げられたかのように、苦しみがせり上げてきた。
拓馬は、口をおさえ、近くのトイレへ駆けこむ。
個室の便器に縋り付き、水の中に、胃液を吐き出す。
何度もえずいて、何度も嘔吐する。
胃が痙攣して痛かった。
でも、気持ち悪さは止まらない。
気が遠くなるほど消耗して。
誰かの足音が聞こえてきた。
後ろを振り向くと、部長がいた。
何とも言えない表情で。
「拓馬」
部長は、呼びかける。
トイレの床なのに、膝をつき拓馬の背を撫でてくれた。
「だいじょうぶか」
拓馬は、何とか頷く。
決してだいじょうぶとは言えない、この様。
それでも、頷きたかった。
それは、胃が空っぽになったとしても、最後まで残った意地だった。
拓馬は立ち上がる。
途中で一度、膝が折れかけたが、部長が身体を支えてくれた。
水道まで歩き、口をゆすぐ。
鏡を見ると、ひどい顔だった。
部長に支えてもらいながら、いつも以上に重い視聴覚室のドアを開けると、全部員が、翠と一年男子を壁際に追い詰めていた。
中に入る拓馬。
サードの二年女子が、拓馬に駆け寄った。
「拓馬先輩」
部長と二年女子に支えられる拓馬。
翠は、拓馬を見つけて、近づいてこようとする。
「拓ちゃん!」
だが、新庄がそこに身体を挟み、遮る。
思い切り、足を踏み込み。
新庄は腕を組み、仁王立ちをしている。
「アンタ、まだ拓馬の彼女面しようとしてんの?」
拓馬と翠の間に、自らの身体で壁を作る新庄。
どうやら、事の経緯は、全部員に知れ渡っているみたいだ。
拓馬は、新庄の肩越しに翠を見る。
「翠。本当なのか」
あの写真の事だ。
「拓ちゃん、その、ごめんなさい……」
否定をしない翠。
要するに、そういうことなのだ。
拓馬は、何も言えなかった。
言いたいことなら、山よりも高くあった。
だけど、それを伝えられる言葉が無かった。
だから拓馬は、その場から消えることを選ぶ。
お前らの顔は見たくないと、全身で表すために。
鞄の取っ手を掴み、重い視聴覚室のドアを開ける。
だれも拓馬を、引き留めなかった。
拓馬はひとり、夏休みの誰も居ない廊下を、早足で歩いて行った。
その後、拓馬は翠と、スマートフォンのチャットで最後の会話をした。
ごめんなさい、から始まり、さようなら、で終わる会話を。
少し前から、あの一年男子とはデキていたのだろう。
翠は、拓馬と一緒にいることを選ばなかった。
翠は、一年男子と共に、第2コーラス部を辞める道を選んだ。
受験前だし丁度いいんじゃないか、などと当たり障りのない事を、無理矢理に考える。
拓馬は自分の部屋で、セミダブルのベッドに倒れこむ。
ベッドの掛け布団には、まだ翠の匂いがついていた。
それでも、夏休みの練習は続く。
ボロボロになって落ちた拓馬の心など、お構いなしに世の中は進むのだ。
ファーストコーラスから翠たち二人が抜けたため、セカンドとサードから、一人ずつ補充していた。
派手ラスが歌うのは、恋の歌。
愛を込めた、おはようの歌。
しかし、今の拓馬には、恋の歌なんて歌えなかった。
ただ、からっぽの歌を喉から出していただけだった。
練習が終わった後、拓馬は一人で視聴覚室に残っていた。
たった一人で、椅子に座ってぼんやりしていた。
拓馬は、リードから外してもらおうかと思っていた。
いや、コーラスになったとしても、歌に熱が込められない。
拓馬も、退部を考えていたのだ。
そこに、視聴覚室の重い扉が開く。
現れたのは、茶髪の部長。
「拓馬。まだいたのか」
「うん。ちょっと思うことがあってね」
拓馬は、部長と顔が合わせられなかった。
この時期に、メインボーカルであるリードの拓馬が退部するのは、派手ラス全体にも大きな影響を与える。
退部することを、いつ言い出そうかと思案するばかり。
部長は、拓馬の隣に座る。
そして口を開く。
「僕な、新庄が好きなんだ」
突然の告白。
全く脈絡もない話に驚いて、つい部長の顔を見てしまう。
部長は、拓馬の方は見ずに、淡々と続ける。
「『響け、おはよう』の歌詞は、一年の頃の僕なんだ。
そっから今まで、ずっと片思い」
なんとなく、あの歌は部長の実体験ではないかと、そんな気がしては居た。
ただ、相手が新庄というのは全く予想できなかったが。
「拓馬。怒らないで聞いてくれ。
僕は、お前が羨ましかったんだ。
ちゃんと、好きな人と付き合えて。
終わり方はこんな風になっちゃったけどさ。
それでも、僕はお前が羨ましい」
羨ましい。
拓馬は、それを聞いて、ぽつりと怒りが湧いた。
羨ましいだと。
愛していた女を寝取られた、俺の事が。
「お前、ふざけてんのか。
俺の気持ちが、分かるかよ」
口から、黒い言葉が勝手に出てきて止まらなかった。
部長は何一つ悪くないのに。
やつあたりだ。
だが、それでも部長は続ける。
「ああ、わからん。
何せ、両想いになったこと無いからな。
だから、教えてくれ。
今の翠さんは嫌いでも、過去の翠さんは好きだったんだろ?」
今の翠と、過去の翠。
今の翠は他の男の胸の中だとしても。
確かに、過去の翠は拓馬と愛し合っていた時もあった。
だが、それで憎しみが消えるわけじゃない。
一年男子への嫉妬が、拓馬の胸を焦がす。
部長は続ける。
「僕は、思い出っていうのが、すごく大事だと思っている。
思い出がある拓馬が、羨ましい」
思い出。
翠との思い出。
翠との思い出は、確かにあった。
歩きながら告白して、受け入れてくれたこと。
放課後の教室で初めてキスをした時のこと。
拓馬の部屋のセミダブルのベッドで、初めて身体を重ねたこと。
思い出だけを抽出することができれば、どれも美しい過去ばかり。
その美しい過去もまた、拓馬の心を傷つける。
あんなに幸せだったのに、と。
「拓馬。ぜひ考えてみてくれ。
いい思い出だけを、歌に込められないか」
ずいぶんと勝手なことを言ってくれる。
拓馬は鞄を引っ掴み、重いドアを開ける。
退部の意思を伝えるのは、苛つきすぎて忘れていた。
拓馬は力いっぱいドアを閉める。
閉まり切る前の隙間から見えたのは、いつもの飄々とした部長ではなく、恋をするひとりの男の顔だった。
拓馬は、セミダブルのベッドに寝ころびながら、スマートフォンで、ひたすら浮気や不倫の情報を検索していた。
色々な形の恋愛模様が、そこにはあった。
寝取ることも、寝取られることも。
完全に決別する結果もあれば、元鞘に戻る結果も。
制裁する場合もあれば、制裁しない場合も。
拓馬は、自分はどのタイプなのかと模索した。
恨みや怒りは、間違いなく残っている。
元鞘には、絶対に戻れないだろう。
でも、制裁したいかと言われれば、わからない。
少しは、痛い目に合わせたいという気持ちはあったが。
望む結末は、人それぞれなのだろう。
拓馬は、拓馬なりの結論を出せばいいのか。
そこに、他人の意見を挟む必要はないのだろうか。
自分が納得さえすれば、それでいいのだろうか。
わからない。
翠の事を考えてみる。
幼馴染の翠。
初めての恋人の翠。
裏切った翠。
裏切り者。
しかし、ネット上で数多くの修羅場の話に触れ、ある程度は冷静に考えられるようにはなっていた。
この世の中で、愛する人から裏切られたのは、拓馬だけではない。
それどころか、むしろ割とよくある話。
裏切られたとは言っても、所詮それは、別れ話の形のひとつに過ぎない。
極論を言うと、拓馬は翠に、ただ振られただけなのだ。
人の出会いの数だけ、別れもある。
また、別れの数だけ、出会いもある。
翠とは元鞘に戻れないと確信した以上、翠への恨みばかりを想っても仕方ないだろう。
部長が言っていた、いい思い出だけを残すことができれば、それでいいのではないか。
翠の事は、いい思い出だけを残して、またどこかで新しい恋に歩み出せれば、いいのではないか。
しかし、そんなに器用なことが拓馬にできるのか。
未だ翠には、愛と憎しみが混ざったままだ。
だけれど、先ほどまで考えていた、退部するという意思は薄れていた。
その代わりに頭を占めていたのは、過去の綺麗な思い出だけを取り出して、歌にできないか。
できるかどうかはわからない。
できない可能性の方が高い。
でも、やるだけやってみようと思う。
拓馬は、セミダブルのベッドに寝ころびながら、白い天井を眺めた。
そして、自分自身の心に語り掛ける。
憎しみを忘れることはできないけれど。
愛だけを取り出して言葉にすることができるのかと。
ひたすらに、心に語り掛けていた。
翠の匂いがかすかに残る、セミダブルのベッドで。
その次の第2コーラス部の練習の日。
拓馬は、誰よりも早く視聴覚室に来ていた。
ストレッチで身体をほぐし、呼吸法の反復練習をした。
視聴覚室のドアが開く。
顔を覗かせたのは、同じクラスの女子、新庄だった。
拓馬はストレッチをしながら、挨拶をした。
「おはよう」
「お、おはよ……」
その、もう大丈夫なの?」
「大丈夫かどうかは、まだ分からない。
やるだけやってみるよ」
新庄の後ろから、続々と他の部員が集まって来る。
みんな、拓馬の様子を伺っている様だ。
部長もやってきた。
部長は、新庄に「おはよう」と挨拶を交わす。
部長の、新庄への『おはよう』には、きっと色んな気持ちが詰め込まれているのだろう。
部長が作った、愛の歌。
『響け、おはよう』
拓馬は、自分の過去に思いを馳せる。
まだ翠と付き合う前。
仄かな恋心だけを持っていた頃。
翠に「おはよう」と言うときは、どんな自分であったか。
緊張と喜びが混ざったような、あの気持ち。
きっと今なら、歌に乗せられるかもしれない。
マイクを持った部長がみんなに声をかける。
「それじゃあ、始めよう」
部長たちのボイスパーカッションから始まり。
その一瞬後、全員のパワフルなコーラスが。
気を抜くと、コーラスに飲まれる。
なんという力。
だが、そこに込められた想いは、片思いの喜び。
漲るパワーと、悲しみにも似た切なさが、混ざった喜び。
拓馬は、マイクを右手に持ち、思い出す。
まだ中学生の頃、片思いの翠に挨拶を交わした、あの喜びを。
そして、マイクを口元で構え。
拓馬は、歌う。
心の中にある、全ての愛情で。
翠との思い出の、全ての喜びで。
身体の中の、全ての情熱で。
その声はまるで、衝撃波のように、視聴覚室に響く。
ここにいる全員が放つ音すら、吹き飛ばしそうなほど。
(拓馬、すごっ……)
同じリードである新庄は、共に歌う拓馬の力に押されていた。
腕に鳥肌が立つ。
拓馬のポテンシャルが、ここまでとは思っていなかった。
歌は、自分の方が上手いとも自負していた。
事実、純粋な上手さならば、今も新庄の方が上だろう。
だが、歌に込められた熱だけは。
これだけは、技術の問題ではない。
新庄は、自分に無いものを得た、拓馬に嫉妬する。
拓馬は、その時だけは間違いなく、全ての音を圧倒していた。
コーラスも、ボイパも、ベースも、何もかもを巻き込んで。
全員の声を巻き込んで空に飛ばす、竜巻のよう。
そして、ラストの一番の盛り上がり。
最後の一声に、
拓馬は、思い出の中の翠に、全力の愛を注いだ。
笑顔の翠に。
おはよう!
歌い終わったとき、拓馬の心の中には、あの水色の空だけが果てしなく続いていた。
夏休みも終わり、時は過ぎ。
やってきた9月末の文化祭。
校庭には、焼きそばや、じゃがバターを売る生徒たち。
校舎の中の教室では、メイド執事カフェをやっているクラスもあった。
そして。
第2コーラス部。通称『派手ラス』
彼らは今、体育館の舞台裏で、出し物として歌う準備をしていた。
歌うのは、体育館のステージ。
出番までは、あとちょうど一時間ほど。
部員のみんなは、ストレッチをしたり、発声練習をしたり。
顧問の鈴木先生が、丸眼鏡を輝かせながら、とことこやってきた。
その手には、何やら怪しげな、真っ赤なスプレー缶。
「拓馬君。拓馬君。
髪、赤くしちゃいましょう。
その方が派手でいいです」
どうやらそれは、一日だけ髪の毛を染めるスプレーのようだ。
黒髪短髪の拓馬。
確かに、決して派手なタイプではなかったが……
すると、サードの二年の女子が、拓馬の袖を引いた。
「拓馬先輩。
やっちゃいましょう。
せっかくの文化祭なんですから」
その二年の女子に、半ば強引にパイプ椅子に座らせられる。
塗料が服に飛び散らないように、ビニールのポンチョを着せられて。
そして、鈴木先生は一切の躊躇なく、拓馬の頭にスプレーを吹きかけまくった。
差し込む照明が、鈴木先生の眼鏡と、バーコード頭を輝かせる。
なすがまま、頭がどんどん赤くなる拓馬。
(鈴木先生、楽しそうだな)
この地味な先生は、本当に派手好きだ。
でも今は、派手ラスに入れて、良かったと思う。
一年部員に彼女を寝取られるという大事件もあったが、それからは逆に、部員たちの結束は益々強まった。
きっと、派手ラスに入らなくても、翠はどこかで浮気しただろうから、それは別に派手ラスに入ったせいじゃない。
拓馬自身も、夏休みの途中から、ずいぶんと変わったと思う。
もし派手ラスで、自分を見つめなおさなければ、翠の寝取られの悲しみを、受け止めきれなかっただろう。
部長にも感謝だ。
「先輩、できましたっ!」
鏡を見ると、短い髪が真っ赤になっている。
もうちょっと暗い赤かと思っていたら、まるでトマトのように真っ赤だ。
感想を述べる拓馬。
「は、派手だな……」
頷く鈴木先生。
「やっぱり、こうじゃなくては、つまらないです。
派手に行きましょうね」
今はもう、あと数分で出番だ。
お客さんもぞくぞくと体育館に入ってきている。
派手ラスのみんなは、円陣を組んだ。
茶髪の部長が、お客に聞こえない程度のボリュームの、小声で叫ぶ。
「派手に、やるぞ」
みんなで、おう、と応える。
もうすぐスタンバイだ。
緊張する拓馬。
そこに、鈴木先生が囁いてきた。
「拓馬君。いい恋でしたか?」
拓馬は答える。
「もちろん!」
ステージの後方に並ぶ派手ラスのみんな。
お客さんから見て、左側から順に、ベース、ファースト、セカンド、サード、ボイパの順に並ぶ。
メインボーカルである、リードの四人は、ステージの前方で、みんなの前に立つ。
思った以上に、お客さんが沢山入っていた。
客席からは「すげぇ、髪、真っ赤!」という声も聞こえてくる。
そして、放送部員が、スピーカーから紹介する。
「第2コーラス部。通称、派手ラス。曲は、『響け、おはよう』」
客席の所々から、笑い声が聞こえてくる。
もはや珍獣扱いで名物となった派手ラス。
面白可笑しく話題にしてくれるなら、むしろ本望だ。
部長らボイパ組が、口元にマイクを構える。
時間だ。
あとは、楽しむだけだ。
拓馬の口元は、いつの間にか笑っていた。
(さあ、ド派手に行こうか)
ボイパが鳴る。
そして、一瞬の後、拓馬の背後から、凄まじいコーラスの波が押し寄せる。
拓馬も、右手で持ったマイクを、口元に構える。
息を吸い、
拓馬は、声を放つ。
その声は、熱と共に、体育館に響き渡る。
それはまるで、灼熱の衝撃波。
観客たちも、熱と風を感じる。
その歌は、片思いの恋の歌。
話しかけたくても、恋が邪魔をして話しかけられない。
自分の不甲斐なさが悔しい。
でも、勇気を出して言うのだ。
「おはよう」と。
拓馬は、翠に想いを馳せる。
中学時代、翠に恋をしていた拓馬。
告白して、OKを貰って喜んだ。
初めてのキスをしたときは、手の震えが止まらなかった。
初めて身体を繋いだ時は、幸せでいっぱいだった。
ありがとう、翠。
思い出をくれて。
君は、俺にひどい裏切りをしたけれど。
それでも、思い出だけは、確かに残っているんだ。
この思い出を胸に、俺はまた前に進む。
きっと、新しい恋に向かって。
ステージの上からは、意外にも観客たちの顔がよく見える。
誰もが、楽しんでくれているようだ。
そして、一番奥の方。
入り口の、すぐ隣の壁の所には。
翠と、一年の男子が。
それもまた、よく見えた。
拓馬は歌う。
声を風に乗せて。
情熱を帯びた熱波のように。
第2コーラス部全員の声が、体育館を揺らす。
声の竜巻の如く。
観客たちをも巻き込んで。
歌も終盤にさしかかるころ。
拓馬は、遥か後方にいる翠に、想いを込めた。
人生の多くを一緒に過ごした恋人に。
(翠!さようなら!)
響け、さようなら!
響け、俺の声!
二度と交わることのない恋人の元へ!
恋は散り、またいつかどこかで花が咲く。
新しい恋を願って、拓馬は最後の一声を上げた。
全身全霊の愛を込めて。
おはよう!
文化祭での公演は、大成功と言ってよかった。
やはり、派手にやってよかった。
派手ラスに入って、本当によかった。
これで三年生は引退。
これからは受験勉強へと戦場を移す。
三年生のみんなは、後輩から小さなブーケを渡された。
拓馬に青色のブーケを渡したのは、あの翠の浮気を知らせてくれた、サードの二年生の女子だった。
拓馬は、ひとり校舎の屋上へと上がる。
青いブーケを片手に。
夕日も沈みかけ、夜になろうとする頃合い。
ふと体育館の横をみると、そこには部長と新庄のふたりが。
ふたりは、何やら話した後、抱き合った。
(おお。おめでとう、部長)
これからあのふたりが、どのように愛し合っていくのか。
それは、あのふたりだけが知っていればいいこと。
どこかで恋が終われば、またどこかで恋が始まるものだ。
自分もまた、だれかと巡り会うのだろう。
その時までは、別の方法で人生を楽しんでいればいい。
拓馬はひとり、『響け、おはよう』を口ずさむ。
恋する相手に、愛を込めて「おはよう」を言う歌。
すると、屋上の入り口から誰かが入ってきたようだ。
拓馬は振り向くと、そこには、サードコーラスの二年生の女子。
拓馬に青いブーケを渡した、あの女の子。
その女の子は、赤く染まった決意の表情で、拓馬に歩み寄る。
そして、その声が屋上に響いた。
拓馬先輩!
おはよう!
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