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「————レン、エレン」
「は、はいっ」
魔法陣と向き合っていたエレンは名前を呼ばれていることにやっと気がついて、慌てて返事をする。
ばっと顔をあげると、そこにいるのは琥珀色の髪に碧い宝石のような瞳をもつ美形の騎士。
彼女は唐突に食らった美の暴力に、目を見開いた。
昔から顔が整っているとは思っていたのだが、大人になって更に仕上がってきたと言えばよいのか……。
彼女ご自慢の家族ジークフリートは、驚くほど容姿端麗である。
制服もとてもよく似合っているし、どこぞの王子みたいだ。
「そろそろ飯」
「わ。もうそんな時間ですか?」
指摘されて時計を見ると、仕事を始めてだいぶ時間が経っている。
集中すると全く周りが見えなくなってしまうのはいつものことだ。そのせいでよく食事のタイミングを逃してしまう。エレンは食べることは好きなので、食事を忘れると毎回損した気分になった。
しかしながら、今はその心配はない。
なぜなら、護衛として一緒にいてくれるジークフリートがこうして時間を教えてくれるからだ。なんて贅沢なことだろう。
「終わりそうか?」
本日のノルマを聞いていたジークフリートがエレンに尋ねる。
彼女は手元の紙を見て、うーんと唸った。
白い紙がいつの間にか黒に染められている。
無論、お世辞にも綺麗とは言えないエレンの字が敷き詰められているせいである。
「なかなか読み方が見つからなくて。〈六芒星読・三式〉だと思ったんですけどね……。もう少しかかりそうです」
〈六芒星読・三式〉とは、魔法陣を読むための型のことだ。簡単に言うと、陣にある六芒星からできる図形の中や角にある文字を“三式”という方法で拾っていく方法のことを指す。
ちなみに考案者は、「知恵の魔女」ババロアである。
エレンの師匠であり、恩人でもある。
本当になんでもできてしまう人で、森を出てから彼女の凄さはよーくわかったものだ。
ババ様ならこの魔法陣もすぐに解読できるんだろうな、とエレンは思った。
当てが外れて、その型がはまらなかったので、エレンは違う方法を検討している最中だ。
魔法陣はこれに時間がかかる。
呪文さえ分かれば、“記憶”からその単語を訳せばいいので、あとは早い。
「そうか。明日の出発を延ばしてもいいけど」
「いえ。それには及ばないです。終わらなかったら終わらなかったで、また後日やりますから。捜査を優先したほうがいいと」
彼女は作業をやめてモノクルを外した。
気を遣ってくれているのは分かっていたが、残念なことに素直にお願いをできるような可愛げのある性格をしていなかった。
でも、解読なんていつでもできるのだ。行方不明者の捜索を優先するのは当たり前だろう。このときの答えは正解だとエレンは思う。
「わかった」
ジークフリートも頷き、ふたりは一緒に〈四色の塔〉のすぐそばにある食堂へ向かう。
外は天気も良く、優しい日差しを受けながら、エレンは隣を歩くジークフリートを見て目を細めた。
彼女は最近、機嫌がいい。
悪夢もあまり見なくなったし、体調もいい、仕事は捗って仕方ない。
それが何故かと聞かれれば、答えは「憂いが無くなった」のひとつだろう。
——生きててよかったぁ……。
今まで色々あったが、こうしてジークフリートといられることに、エレンは身にしみて感動しているところである。
大袈裟かと思うかもしれないが、彼女の人生、波乱万丈というもので。
生まれてまず、母親を失った。
母を愛していた父親は、〈魔なし〉ではなかったが魔力が生まれつき少なかった彼女を大事に育てようとはしなかった。
むしろ、愛する人を奪ったものとして、「悪魔の子」なんて娘を捨てたのだ。
泣く泣く侍女が、望みをかけて迷いの森にエレンを置いた。
その後、運良くエレンは「知恵の魔女」ババロアに拾われて、楽しく生活を送っていたのだが……。
世間に疎かったために知らなかったが、大陸はどこもかしこも戦、戦。
じわじわと燃え広がった戦火は、彼女たちも飲み込んだ。
しかし、ここでも運が良かったのか、エレンは生き延びていた。
悪運の強さに自分が嫌になったことは幾度となくあったが、生きていてよかった。
今なら、心からそう思える。
死んでしまったと思った家族に会えた。
忘れられていて悲しかったけれど、思い出してくれた。
これ以上、幸運なことはないだろう。
帝国に来てから初めて自分の命の危機に直面したおかげで、ジークフリートはエレンの護衛を担当することになった。
人生、悪いことばかりではない。
あの時は、最後に会うことだけを考えていたのに、まさかこうして一緒にいられるとは思ってもみなかった。
エレンは感無量で、今の状況を「幸せ」以上の言葉で表す方法はないことを、残念に思う。
「どうかしたか?」
見られていることに気がついたジークフリートがエレンに尋ねた。
「ジークさんは今も昔もかっこいいなと思っただけですよ」
エレンは正直に思ったことを答えて微笑んだ。
彼はそれを聞いて怪訝な顔に変わる。
「そういう事、他の男にも言ってきたのか?」
「え? こんなこと言える人、他にはいませんし、褒めるにしたって大事な人にしか言いませんよ」
——今も昔も大切な人なんて、あなたくらいしかいる訳ないじゃないか。
そう言おうとした言葉は飲み込んだ。
彼女も記憶を思い出してくれたからといって、13年違う時を生きてきたジークフリートに、昔の記憶を押し付けるようなことはしないように気を使っていた。
彼には彼の生活と、その家族がある。
もう、自分のことを思い出してくれただけで、エレンには十分だった。
——あなたが幸せなら、それでいい。
そんな心持ちで、エレンはジークフリートに接している。
今以上、距離を狭める気は彼女になかった。
同僚として一緒に仕事をし、それなりに心が許せる相手として居られればそれでいい。
いつ自分がいなくなったとしても、彼にはあまり迷惑がかからない程度の関係が好ましいのだ。
エレンからさらりと出てくる言葉に、ジークフリートがぐっと息を飲んだことも知らずに、彼女は白衣をはためかせて歩みを進める。
◇
食堂では既にたくさんの騎士たちが食事をしている。
塔に移ってから、騎士たちしかいない食堂とはどんなものかとエレンも最初は身構えたのだが、女性もいるし、食事はちゃんとバランスの良いものが毎食提供されるので快適だ。
ふたりはトレーを持って列に並び、好きなものを皿に装っていく。
ジークフリートはエレンの選んだ料理の乗るトレーをみて、勝手に野菜と肉を盛った。
「あ、あの?」
「スープとパンだけは、食べなさ過ぎ」
「そうですかね……?」
少食かつ、見張っていないと食事をとることすら忘れるエレン。
ジークフリートの兄、いや、オカンぶりが発揮されていた。
“あの”ババロアに育てられた彼は、もともと面倒見が良い子どもだったのだ。それがエレン相手だと、自然に世話を焼いてしまう。
((え??))
すぐ近くを並んでいた騎士たちは揃ってその様子を二度見する。
〈青い龍〉で孤高の騎士とも二つ名を持つジークフリートが、自ら進んで女性に世話を焼く姿など誰が想像したことがあっただろうか。
カウンターに並ぶ列の進みに遅れが出た。
詰まらせた原因のふたりは、そんなことには気が付かずに料理を装い終えると壁際の席に着く。
「そういえばジークさんは、騎士団の選抜試験を12歳のときに合格したんでしたっけ?」
「そう。今思えば、ババ様のおかげだろうな」
ジークフリートはエレンに答えると、鶏肉のソテーを口に入れる。
彼女が上手に聞き出すので、会話の内容はいつもジークフリートの13年の間にあった出来事についてだ。
「それもあるかもしれないけど、頑張ったのはジークさんでしょう? 凄いなぁ」
エレンに褒められると、公爵家の息子として相応しい騎士になるために努力して来た日々が報われた気がした。
ジークフリートは少し目を見張ったが、黙ったまま再び咀嚼して、料理を飲み込む。
「でもそれだと、私の護衛なんかつまらないですよね」
バリバリ前線で戦闘するような人だ。きっと力を持て余していることだろう。
私なんかの護衛をしてても、何も面白くないんじゃないか。そう思わずにはいられない。
最近は解読の手伝いまでしてくれて、ちゃんと騎士の仕事をしたいのではないかとエレンは少し不安だった。
しかし、
「そんなことない」
即答したジークフリート。
あまりにもばっさり否定するので、エレンは目を丸くして口に運ぼうとしたパンを持つ手を止めた。
「そ、そうですか? ジークさんが護衛してくれるのは嬉しいから、それならいいんですけど」
それなりに自分の存在価値というのを理解はしている。彼が護衛を外れることになっても、他の人がついてくれることだろう。
彼が気にしないのならば、エレンとしても側にいてくれるのは有り難いのだが、
「でも、その。城の中で私が何かされるなんてことは滅多にないだろうし。解読のお手伝いは騎士の仕事の範疇を超えてます。大変ですよね。嫌だなー、と思ったら遠慮せず、オーマン様に」
「俺が志願したんだ。嫌なわけないだろ」
ジークフリートの碧い瞳がエレンを捕らえている。真摯な言葉が、彼女の胸を詰まらせた。
——どうしよう、嬉しい。
そんな事を言ってもらえるとは思ってもみなくて、嬉しかったし、何より安心した。
じーんとしていると、
「あ。こんなとこにいたのか!」
そこにひとりの騎士がジークフリートに向かって声をかけた。
制服のバッチを見る限り、どうやら〈青い龍〉の騎士さまらしい。
短く刈り上げた黒髪に、緑色の目が特徴的である。人の良さそうな優しい目つきをしていた。
「なんだよ。ロイ」
「オレもレージェスに行くことになったから探してたんだよ」
ジークフリートにロイと呼ばれた彼は、そう答えながら空いていた隣の席に座る。
「あ。オレ、ロイ・ソーヤ。こいつと同じ〈青い龍〉の前衛組。話は聞いてるよ。よろしくね、先生」
「解読士のエレン・ウォーカーです。先生なんて大それたものじゃないので、名前で呼んでください。ソーヤさん」
「そ? じゃあ、オレより若そうだし、エレンちゃんで。オレの事もロイでいいよ」
ロイは前に座っていたエレンに自己紹介した。
騎士団とはいうものの、武術より魔法に長けた—いわゆる魔導師は後衛組なんて呼ばれる。
ちなみにジークフリートは魔法も十分使えるが、基本、前衛で戦っている。
ジークフリートは眉を寄せて彼を見る。
「お前も行くことになったのか?」
「そうなんだよ。さっき、急に団長に呼ばれてな。いつ出発するんだ? 明後日には満月だぞ?」
「明日の昼までには出たいな」
「レージェスの警備隊本部に転移して、そこからは魔法列車で移動だろ。あの大学すげぇ田舎にあるから、時間がかかるだろうな」
「魔法列車!」
エレンはこの城に来てから、あまり遠出をしていない。魔法列車と聞いて目を輝かせた。
ジークフリートとロイは揃ってそんな彼女を見る。
「そっか。エレンちゃんは反対側の大陸から来たんだよね」
「はい。まだまだ帝国のことを知らないので、出張が楽しみだったりして……」
エレンははにかんだ。
「それなら、とっとと仕事を終わらせて、観光して帰って来ようぜ。な? ジーク」
「そうだな」
会って数分だったが、エレンはそれでロイがどんな人か分かった気がした。彼とならば任務も上手く行きそうだ。
「出発は明日の10時でいいか?」
「ああ」
「はい。大丈夫です」
ロイはふたりに確認して「よし」と頷く。
「レージェスは〈カルレ・メープル〉が有名なんだ。エレンちゃん、甘いものは好き?」
「はい! とっても」
「それは良かった。あそこ、意外なものにもメープルかけるから、びっくりすると思うぞ」
「へぇ〜。そうなんですか?」
エレンはロイの話に興味深々。
遊びに行くわけではないんだけれどな、とジークフリートは思いつつも、彼女が楽しそうにしているのを見ると力が抜けた。
「あ。今日のデザート、プリンだったんだ」
毎食デザートを楽しみにしているエレンは、小瓶に入ったプリンを手に取って目をキラキラさせる。
「昔から甘い物には目が無いよな」
「甘味はご褒美。勿論、別腹です」
指摘されてエレンは子供っぽい笑みを浮かべた。
彼女が甘いものが好きだと知っているジークフリートは、無言で自分のプレートから小瓶をエレンのプレートに移す。
「え?」
「食べていいよ」
「いいの? ありがとう!」
エレンは遠慮なくプリンをゲットした。
それをすぐ隣で見ていたロイが瞬きする。
「仲良いんだな。付き合ってるって噂、本当なのか?」
「え?」
「は?」
ふたりは同時に驚きの声を上げた。
「もしかしてオレ、お邪魔〜?」
冷やかしてくるロイだが、エレンは首を振る。
「違いますよ。私たち、幼馴染みなんです」
「え。そうなの?」
彼女の答えにロイは目を丸くし、ジークフリートはコップに伸ばした手を止める。
「もう13年も前の話ですけどね。一緒に暮らしてたんです」
「マジ? それは初耳」
「だから、噂は気にしないでくださいね?」
——こんな素敵な人が、私となんて付き合ってるわけないでしょう。
エレンは噂を笑い飛ばした。
一方で、ジークフリートは何も言わずに彼女の言葉を頭の中で反芻する。
「幼馴染み」
それが彼女が自分に対して名付ける関係らしい。なるほど、それが正しい表現かもしれない。
でも、昔のように「家族」とは言ってくれないことが、彼の心を曇らせた。
あの頃は、血の繋がりのない自分たちの関係を確かめるようにして「家族」という言葉を使っていた。それはセオにとって、大切な言葉だったのだ。町に下りるようになって他の人と関わることが増えてからは、尚更だった。
「おまえ、こんなに可愛くて、頭が良い幼馴染みがいたのかよ」
さては隠してたな?とロイに背中を叩かれる。
「……俺に記憶がなかったってこと、知ってるだろ?」
不機嫌な口調に、ロイがハッとした。
「あーー。そういうこと。そう言えばそうだったな」
「忘れてたのか」とはロイも口には出さなかった。彼はすぐに話を変える。
「ま。良かったな。再会して一緒に仕事ができるなんて、星の導きだろ。
あ。でもだからってオレをハブらないでくれよ? 寂しいから」
ど真面目にそんなことを言うロイに、エレンは思わずふっと吹き出して「そんなことはしませんよ」と答えるのだった。




